第四部 戦禍の瞳(2)
翌朝、かんなはいつも通りに起きてきた。
いつものように振る舞いながら・・・それでもサエには、かんなが男に対してはぎこちないことに気付いていた。
一方、男の方もかんなと目を合わせることはなかった。
サエの料理をもってしても、二人の溝は埋まりそうになく、気まずい空気が日々を覆っている。
そうして、数日が過ぎて行った。
「ここを出て行く」
何の脈絡もなく、男は二人に宣言した。
サエの表情からは何も読み取れない。
かんなは顔を上げて、久方ぶりに男と目を合わせた。少し怯えたその瞳。
男の心がちくりと痛む。
「でも、ボクの意思じゃおじさんを元の世界へ導くことは出来ないんだ・・・」
ごめんなさい、とかんなが言葉を続けるのを遮って、男は言った。
「そうじゃない。あそこに立派な建物があるだろう。俺はそこに寝泊まりする」
男の視線の先には、かつて一人の男が作って行った小屋があった。
男から見れば、十分すぎる建築物だ。
とにかく今は一人になりたかった。
理由はいろいろあった、だが何よりも。
目の前の、怯えた瞳で自分を見る子供の姿に、亡き娘の面影を重ねてしまうのも辛かったのだ。
サエが、そうね、と頷いた。
時折、動物たちが中の食糧を食べてしまうこともあるから助かるわ。
そう言って立ち上がる。
少し片付ければ、眠る場所くらいはすぐに確保出来ると思うから。
男を促すように、サエは外へ出て行った。少し遅れて男がそれに続く。
一人残されたかんなは、うなだれていた。
ボクのせいだ。
ボクがおじさんにひどいことをしてしまったから。
自分の体から発せられた力のことを、ぼんやりと覚えていた。
それが目の前に居た男を吹き飛ばし、自分自身も立っていることさえ出来なくなった。
空っぽだったどこかから、無理矢理何かを引きずり出したような不快感。
その感覚が、まだ体に微かに残っている。
・・・でも、ボクもおじさんが怖かった。
おじさんの言葉、何を言われたのか思い出せない言葉。
そしてその瞳。
ボクを憎む、とても恐ろしい瞳。
ボクは、同じような瞳を見たことがあるんだ、いつだったか思い出せない、どこかで・・・。
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男が『自室』を持つようになって数日が経ち、食事の時以外はほとんど全員が顔を合わせる機会はなくなった。
一見静かな日々のように感じられるが、その実、男とかんなは直接会話をすることもなく、食事の時もサエを通じてぎこちない会話が交わされるという状態だった。
あんな子供が、自分と同じように気を遣っている、そして気まずさを共有している。男は忸怩たる思いだった。
けれど、そもそもが自分の行動の結果なのだ。
自分から動こうにも動けない。
まるで、あの瓦礫の中をどこへ行ったらいいのか分からず過ごした日々のように。
そうして、黙り込んだまま俯いて食事をとるその小さな姿が、男の中の思い出を掘り起こす。
娘は、そうだ、あんな瓦礫ばかりの街で、ほんの少ししか手に入らない食糧を口にする時、確かに笑っていた。
パパと半分ずつ食べよう、と笑顔で差し出された乾いたパン。
口の中がかさかさになるのも構わず、埃っぽい乾燥した空気の中で、二人で食べた。
たった二人の家族、二人だけに存在する絆。
初めてかんなの瞳を見た時の遣り切れない気持ち、衝動は嘘ではなかった。
見るもの全てがまさに『別世界』だった。
飢えや労働、戦禍など知らないだろう子供。
緑が溢れ、日が注ぎ、久しく見たことのないような突き抜ける青空がそこにはあった。
体の痛みがなければ、夢だとすら思っただろう風景。
妬ましかった。
娘を思ったからなのか、それとも、自分自身の人生を思い浮かべたからなのか?
今では良く分からない。
ただ、無邪気な顔が無性に疎ましかった。
地獄を知らないようなその瞳を、壊してしまいたかった。
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「ずいぶん熱心に手入れをしているのね」
不意に背後から穏やかな声がして、男は我に返った。
いつの間にか、サエがそこに居た。
自分は余程深く、思考にのめり込んで居たのだろう。
気が付くと、自分の根城の周囲の草だけが綺麗に抜き取られていた。勿論、自分自身がやったことだ。
「まあ、な・・・」
正直、このサエという女が何を考えているのかも良く分からなかった。
あんな子供に大人げない行為をした自分を責めるでもなく、ただ穏やかにそこに居る。
こんな長閑な場所に暮らしていたら、自分もそういう人間になれたのだろうか。
サエは手にしている篭の中から、手際よくふたつのマグカップと大きな水筒、それからパンにハムとハーブを挟んだ簡素な食べ物の入った箱を取り出して、地面に敷いた大判の布の上に並べていく。
どうやら、ここに長居するつもりらしい。こんなことは初めてだ。
そろそろ、お説教の時間が来たということだろうか。
男が両手の土をズボンで払い落とすと、サエがそっと濡れた布巾を差し出した。余りにも自然な動作に男はそれを受け取り、まだ落ちきっていない手の汚れを拭った。
サエの用意した良く冷えたアイスティーが男の喉を潤す。
思った以上に喉が渇いていたことに今更気が付いた。
本当に長い時間、こうして黙々と草を毟っていたらしい。
一気に飲み干して空になったカップに、サエはそっとその冷たい飲み物をつぎ足した。
「ここには、たくさんの物があるんだな」
男が一度も見たことのない、ハムと野菜が挟まれたパンに手を伸ばして独り言のように呟いた。
およそ人間が人間として生きるために必要なものがここには揃っているようだった。
娘がここに一緒に居たら、どんな顔をしただろうか。一瞬、忘れようとしていた喪失感が胸を灼いた。
あなたにはそう見えるのね。
サエはパンには手を付けず、マグカップを持ったままそれに応えた。
「あなたに、話しておくことがあるの」
ここに『召喚』された人々にしてきたのと同じように。
少し離れた場所にあるかんなの家の窓から、ぼんやりと外を見ているそ小さな姿を一瞬見てから、サエは言葉を続けた。
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男はサエの話に黙って耳を傾けた。
全てを聞き終えた後、込み上げてくる虚しさに、しばし言葉を失う。
つまりは、あの馬鹿げた世界、・・・人間同士が憎み合い、血で血を洗うだけの愚かな日々を生み出したのは、何のことはない、同じように愚かな過去の人間だったということか。
そして、分断された世界の中でも最悪な場所に自分たちは生まれてしまった、ただそれだけのこと。
・・・たった、それだけのこと。
けれど、余りにも割が合わない。
俺が、娘が何故その罪を背負わなくてはならない?その代償に苦しまなければならない生け贄のような人生を送らなければならない?
『誰か』の暮らす平和な世界の影で、あの狂った世界に放り込まれた『誰か』は何を恨めばいい?
そして、そんな事実も知らずに、ただひたすら目の前の、愛する者を、仲間を奪った相手のみを憎んで生きている・・・何て滑稽なことだろう。
「『神様』なんて居ない、と何度も思ったさ」
男は空を見上げた。
「だけど考えもしなかったな、自分たちのご先祖様がその『神様』に手を掛けていたなんてな」
ついでにその時に、世界も無くなってしまえば良かったのだ。
これが、『神様』の、かんなの復讐なのだろうか。
そして当のかんな自身は偽りの記憶を植え付けられたまま、つまり真相は闇の中、というやつだ。
それにしても。
そんなかんながたったひとつ『自分自身の意思で』求め続けている『救世主』というのは、どんな人間だというのだろうか。
・・・少なくとも、埃と血と、恨みと憎しみ、悲しみと怒りに塗れた自分のような者ではないだろうことは分かる。
かんなはまるで壊れた方位磁針のように、目指す方向が分からないままずっと彷徨い続けているのだろう。
「あいつは幸せなのかな」
そう言いながらも、先程草の中から見つけた物を懐から取り出す。
サエの話を聞きながら、それの存在を思い出して手持ち無沙汰だった右手でずっとまさぐっていたのだ。
とん、と草がなくなり土が露わになった場所に置かれたそれを見て、サエが息を飲む。
そして一歩後ずさり、かんなの姿を部屋の中に確認すると男を凝視した。いつもの笑顔が消えている。
形の良い唇が、どうして、と呟く。
・・・銀色の砂時計がそこには置かれていた。
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かんなに知らせるべきかどうかほんの一瞬躊躇したものの、それは意味がないことだとサエは思った。
本来この砂時計はかんなのものだったし、何らかの異変があるのなら、それはかんな自身に属する何かの変化でもあるのだろう。
「ホントだ、ボクの砂時計だ・・・」
屈み込んでかんなは地面に置かれたままのそれを見つめた。
本来なら、これは今頃男の居るべき世界に、男の代わりに時を刻んでいるはずのものだ。
そして、男が元の世界へ還る時にかんなの手元へ戻って来る。
「こんなこと、初めてだよねぇ」
かんなはサエを見上げて小首を傾げた。サエも黙って頷く。
男はひとり、事態を飲み込めずにそんなふたりの周りを落ち着きなくウロウロと歩き回っている。
夕暮れも近く、かすかに空に星が瞬きはじめている。
ここは、夜空も美しい。闇に紛れた襲撃に怯えることもない。
ふと、男はかんなを見た。
見た、というよりも、引き寄せられるようにそちらに視線が動いていた。
出会ってから出来る限り避け続けていたかんなの瞳が、同じように男を見ていた。
慌てて目を逸らそうとしたにも関わらず、視線を背けることが出来なかった。
・・・どうして、この瞳を無邪気だと思ったのだろう。
初めて出会った時とも、その後の怯えたようなものとも違う。
その瞳は深く、容赦なく、互いの瞳を媒介にして男の全てを切り裂き、潜り込み、隠している何もかもを抉り出そうとしているかのようだった。
しばらくして、不意にかんなの瞳が男から逸らされた。
かんなは言葉を発さない。
気が付くと、自分自身の拳が強く握られているのを男は感じた。背中に汗が流れる。
まるで、裁きを言い渡される前の罪人のように。
どのくらいの時間が流れただろうか。不意にかんなが再び男の顔を覗き込んで、静かに言った。
「ボク、分かったかも知れない」
若干の躊躇いを含むその瞳は、先程までのかんなとは別人のような色を宿していた。
いや、違う。実際に『別人』なのだと男の直感は告げている。今のかんなこそ男の知るかんなだと。
ただの子供として生きているかんなが『戻って』来たのだろう。そう感じるとともに、安堵した。
「おじさんは、なくしちゃったんだね」
帰る場所も、帰りたい場所も。
そうかんなは言葉を続けた。
男はその言葉を反芻する。
そうだ。最早、どこにも会いたい人も住む家もなく。
ここへやって来てからどのくらいの時間が故郷で流れたのかは知る由もなかったが、あの戦いが尽きない世界が最早、再建するとは思えなかった・・・少なくとも、自分が生きている間には。
いや、既にもう故郷が不毛の地となり、人類全てが明日にも滅び行く運命となっていると言われても何の疑問もなく、感慨もなかった。
「そうか・・・そうかもな」
男は呟いた。そしてふと気付いた。
こんな風にかんなと話をするのは始めてかも知れない。
かんなの告げた言葉はそれなりに残酷な事実だったのにも関わらず、それに対する反発心も起こらずただ静かに受け止められた。
そうだ、ずっと昔に本当は気付いていたのだ。
瓦礫に埋もれたあの場所で、自分の故郷はとうに失われて、永遠に戻らないことを。
娘が生まれるよりもずっと昔に。
家族が増えたことで希望を持った。自分の人生を生き直せるのだと夢も抱いた。
なのに、ひとりの小さな夢や希望は、戦禍の中ではいとも容易く潰され、砕かれた。
ささやかな希望が増える分、大きな絶望がやって来るのだという事実、ただそれを学ぶだけの日々だった。
『子供は皆、怯えて生きるのだ。自分は大人になれないだろうという諦めと、明日をも約束されない日々に。』
初めてかんなと出会い、衝動的に抱いたあの感情。
それは、娘の、全ての子供たちの、そして何より、自分自身の過去への思いだったのだと、今更気が付いた。
その瞬間、男の天地が激しく逆転した。
激しい揺れと、音と共に。
聞き慣れた、あの世界のものに良く似ていた。
お読みいただきありがとうございます。
3日に一回の定期更新を目指して頑張ります。
継続するって大変ですね・・・(汗)




