仁江との会話とかカラオケとか
【2】
青年に出逢った翌日の放課後、汐里は仁江に遊びに誘われた。
仁江は幼馴染で、彼此、汐里との付き合いが十年以上続いている唯一の人物である。勉強を苦手としており、授業は居眠りばかりだが、体育で身体を動かすときだけは見違えた。小さな身体でちょこまかと豆が転がるように良く動いた。しかし特定の運動部には所属しておらず、陸上部員だった時期もあるが、飽き性が災いし数ヶ月で退部してしまった。惜しい人材に逃げられたと陸上部のコーチが悔やんでいたのを、汐里は知っている。よって仁江は今現在、帰宅部である。
汐里は剣道部だが、ヒナを喪った道場は息苦しく、滅多に顔を出していない。仁江に振り回されている方が、まだ気分転換になるような気がして、汐里は誘いに乗った。すると仁江は意外だというふうな反応をした。
「寄り道は駄目って、昨日、釘刺されたばっかりじゃんか」
「寄り道を提案しといてそれを言うか」
「汐里も案外、不良なところあるんだな」
「あんたねえ」
冗談だよ、と仁江は白い歯を見せた。仁江の笑みは、どこか小動物じみた愛嬌がある。
「まあ良かったよ。そうと決まれば、さっさと行こうぜ」
「どこに」
「決まってるだろ。カラオケだよ、カラオケ。歌を歌うのは楽しいぞ」
カラオケは仁江のマイブームらしかった。休日にも、よく一人で歌っていると本人から聞いている。足繁く通っている成果か、仁江の歌唱力はそれなりに高い。汐里は控えめにタンバリンでも叩いていようと決意し、教室を出た。
街中で制服姿の若者を度々見かけた。それには汐里と同じ制服の者も幾らか混じっていた。集会での脅しは、あまり意味を為さなかったらしい。
「どこに極悪な狩人が潜んでるかも解らねえってのに、無用心な奴らだよな」
「いや、その発言全部、自分に跳ね返ってるから」
「あたしは大丈夫。最強だもん」
「何言ってんのあんた」
「あたし、カポエラマスターだもん」
「本当に何言ってんのあんた」
冗談、と仁江は笑う。
「いやさあ、あたしだって、全く用心していないわけじゃないんだよ。でもさ、だからって警戒して部屋に篭城して、狩人なんかのために、自由に遊べる時間を削るってのも馬鹿らしいじゃん。つまんないよ、そんなの。あたしは、あたしのテンポで遊びたいんだ」
「まあ、言い分は解らないでもないけど、程ほどにしときなよ。それで襲われたら、元も子もないわけだし」
ヒナの病室の風景が脳裏を過ぎる。
「残された家族が悲しむよ」
かもね、と仁江は素っ気ない。
「もしあたしが殺されたら、お葬式には来てね。不祝儀は多ければ多いほど良いよ。忘れず棺桶のなかに納めるんだよ」
笑えない、と汐里も素っ気なく返した。
仁江の行きつけは、古い建物の二階にあるカラオケ店で、受付に立つ初老の男とは顔馴染みのようだった。一方的に人数と利用時間だけを伝えて、男の返答を待たず店の奥へ歩を進める。参ったなというふうに微苦笑を浮かべた男に目礼し、汐里はその後を付いていった。
個室は冷房が効いていて、汐里を幸せな心地にさせた。常連の特権だと仁江は得意気だった。
「ここの店主、嫁さんと二人で営業してるんだけどさ、常連を贔屓してくれて、予約なしでも空室を確保しておいてくれる上に、冷やしておいてくれるんだ。ちなみに顔パスだから、会員証の提示も省けて手間がかからない」
腰の曲がった女が、頼んだ覚えのない飲み物を運んでくると、それも特権だと自慢した。
「オプションで、ドリンク一杯無料」
「ちゃっかりしてるのね」
「好意を無にしないと言って欲しいな」
先に歌うか尋ねられたので、汐里は首を横に振った。あまり自信がない歌声を披露する気にはなれない。そう、と頷いて仁江はリモコンを操作する。スピーカーから流れてきたイントロには聴き覚えがあり、仁江が曲名と、それが主題歌のアニメの題名を言うと、汐里は得心した。仁江はアニメ好きでもあり、そういえば以前、そのアニメを紹介されて触りだけ観たことがあった。はて、どんな内容だったかと思い出しているうちに曲は終了し、仁江にハンドマイクを押しつけられる。
「ほら、次は汐里の番」
「私下手だよ」
「期待なんかしてないって」
汐里はムッとしてマイクを奪う。仁江の前で歌うのは久しぶりだなと思いつつ、声をメロディに乗せた。歌い終わってから感想を求めると、「滅びの歌」と一蹴された。
「相変わらず、汐里の音痴は筋金入りだな」
「ふん、どうせ音痴ですよ」
汐里は拗ねてドアに向かった。
「受付でタンバリン借りてくる」
「いってらっしゃい」
それから二時間、汐里は盛り上げ役に専念した。一向に疲労の色を見せない仁江は心底楽しそうで、何度も汐里に向き直っては「イエイ」とVサインを送った。それに汐里の口元も自然と緩くなった。
子機が鳴り、速やかに退室するよう告げられてからも、仁江は少しごねた。
「三十分だけ延長――」
「駄目」
「せめてあともう一曲――」
「駄目」
不承不承、帰り支度を始める。明るくなったよな、と唐突に言ったのは、汐里がコップの中身を飲み干したときだった。
ん、と汐里は聞き返す。
「なんか言った?」
「だから、明るくなったよなって」
「だれが」
「汐里が」
「そうかな」
「そうだよ。なんか、ついこの間までは何言っても上の空っていうか、常にぼうっとしてる感じだったし。かと思えば、目に見えて苛々してたりで、ちょっと怖かったぐらいだもん。どうしたの、なにかあった?」
汐里は真顔で、いやと首を振る。
「別に、なにもないよ」
「あそう。――ぶっちゃけ、弥生ヒナが絡んでると思ってたんだけど、違うの?」
「どうして」
「あいつが入院した時期くらいから、汐里が明るくなったから」
「止してよ。それだとヒナが襲われて、私が喜んでるみたいじゃない」
悲しんでもいないけど、と内心で自嘲する。
「気のせいよ」
「そっか。あ、気分悪くさせたらごめんね。そんなつもりはないんだ」
「気にしてないよ。むしろ私が変な心配かけさせちゃったみたいだし。――それより時間。早く出ないとお店に迷惑だよ」
汐里は仁江を連れて通路に出た。会計すべく受付に向かうと、そこには店主と立ち話をする男の姿があった。その険しい顔に、汐里は不意を突かれる。瞬時に踵を返したが、男は汐里たちを見逃さなかった。
「こら、お前ら」
耳を殴打するような怒声に足が止まった。汐里は憂鬱な心地で、宮藤の前に仁江と並んだ。
「すみません……」
宮藤は店主を一瞥し、二人だけか、会計を済ませろと言う。汐里は自分の財布を取り出すと、聞えよがしに舌打ちする仁江の脇腹を小突き、料金を割り勘した。店主は同情するように顔を歪め、汐里に小銭を握らせた。
宮藤は巡回指導中で、汐里にとって宮藤との遭遇は不運でしかなかった。二人はこっぴどく叱られた。まだ夕刻だから大目に見るが、夜の出歩きを発見した際には停学処分も覚悟してもらうと脅された。
「ああもう、腹立つ! 最悪!」
帰宅の道中、仁江はずっと文句を垂れていた。
「あんなに怒らなくても良いじゃんか、石頭め。生徒を怒鳴るためだけに教師やってんのかよ。むかつく、むかつく、むかつく」
汐里はげんなりしながら、仁江の元気に感心していた。そして家の近くで別れた頃には、すっかり藍色に滲んだ空が広がっていた。
その晩、汐里は考えてみた。仁江曰く、汐里はつい先日まで、時折気が抜けたようにぼうっとしたり苛ついたりしていて、つまり情緒が不安定だったという。けれど、ある時を境にそれは回復した。そのある時というのが、弥生ヒナが狩人に傷つけられた時で、汐里はヒナの災難を契機に何かから吹っ切れたふうに見えたらしい。
直接的に言えば、仁江は汐里に、ヒナの災難が嬉しかったのではないかと訊いたのだ。
汐里はそれを察知し、遠まわしに否定した。なにせ汐里は喜ぶもなにも、動揺すらしなかったのだから、仁江の見解は的外れだった。汐里はヒナの不幸を不幸だと感じていない。――少なくとも汐里自身はそう思っている。だからこそ友を蔑ろにしたことに依る自己嫌悪に駆られ、友が眠る病室に通い、その行動を贖罪の代用としたのだ。(……それはとても身勝手なことではあるが、そうせずにはいられなかった)
全ては仁江の思い違いだったと結論づけ、ベッドに横になる。瞼を下ろし、そういえば夢を見なくなったのも同じ時期だったかもしれないなと思ったが、すでに睡魔に襲われていた汐里の思考はすぐに停止した。
翌日の放課後、汐里は仁江の計らいで別店舗のカラオケ店へ出向くことになり、そこで再び宮藤のお咎めを受けることになる。三度目はないぞと低い声で脅され、反省文の提出を義務付けられた。流石の仁江も、これには消沈気味だった。
更に翌日。朝一で反省文を提出し終え、汐里は仁江と昼飯をとった。汐里は手作りの弁当、仁江は購買でパンを買ってきて食べた。
「宮藤のせいで思うように遊べない」
「いや、どちらかといえば狩人のせいじゃない」
「それはそうだけどさあ」
仁江は不味そうにパンをかじる。
「寄り道するにしても夜遅くまでは絶対に外出しないし、人が多い場所を選んで遊んでるつもりだし、危険な要素なんてどこにもないじゃんか。なのにガミガミ説教されなきゃいけないなんて、理不尽だろ」
「説教するのが教師の仕事ってことでしょ。それに寄り道自体、禁止されてたし」
「それにしたって宮藤は目くじら立てすぎだ」
「バツイチなんだっけ」
「バツニ。あんだけ融通が利かなければな、そりゃ嫁さんにも愛想を尽かされて、逃げられるってもんだよ」
「バツニかあ……」
大変だな、と汐里は箸を口に運ぶ。
「今は知らないけど、ゆくゆくは私達みたいなのを一人で同時に扱うってことだもんね。ストレス溜まりまくりだと思う」
「叱られすぎた子供と、どっちが先に心労で倒れたもんか解らんね」
「またそういうことを言う」
「だって本当じゃん。あたしの父親が宮藤だったら、まず間違いなくストレスで胃に穴を空けてるか、グレてるね」
父親の話題は何となく決まりが悪くて、汐里は黙った。汐里の家は父子家庭で、それをコンプレックスとは思わないが、似たような話題が昇ると何も意見できなくなる。
母は赴任先の山梨で事故に遭い、汐里の物心がつく前にこの世を去った。当時、両親は共働きだった。残された父は泊まり込みが多い大学教授の地位を捨て、自動車の整備士に再就職した。それからは、たまに遅くなるときがあっても、必ず毎日帰宅するようになった。父は仕事より、娘と一緒に過ごす時間を優先させたのだ。ちなみに家事全般は汐里が担当している。だから学校に持参する弁当は、汐里のお手製である。父に持たせる弁当と中身は大体同じで、油物が少なく、野菜が多い。
「そういえば、汐里」
仁江が言う。
「もう病院には行かないの」
「唐突ねえ」
汐里は考え込む素振りをして、頷いた。
「しばらくは良いかなって思ってる。私が行ったところで、何かしてあげれるわけでもないし」
仁江は、汐里がヒナの見舞いに行っていると思っている。汐里の言葉をどう解釈したのか、鹿爪らしい顔で、
「他人がどれだけ想っても、それだけじゃ怪我は治らないしな」
「そういうこと」
「でもまあ、こう言っちゃ何だけど、不幸中の幸いだったよな。被害者の死亡率を考えれば、生きてるだけ儲けもんだろ」
「かもしれないね」
「通報が早かったのが幸いしたんだっけか」
全校集会での捜査員の言を思い出し、汐里は頷く。
「どこの誰かは解らないけど、ヒナの命を救ってくれたことには感謝だね」
「確か現場は……」
「公園」
「そう、かもめ公園」
同じ中学出身なだけあり、ヒナの家も汐里の家の近場にある。かもめ公園は汐里が住む地域にある小さな児童公園で、中学生時代、そこでヒナと他愛もない話をして暇を潰すことをよくしていた。
その公園内から、瀕死のヒナは発見された。
「しかしどうして深夜に、しかも独りで出かけちまったのかねえ。狩人のことを知らなかったわけではないだろうし、油断してたにしても、ちょいと迂闊すぎるような気がするぞ」
汐里は箸を止めて呟いた。
「呼び出されたとか」
仁江は眉を潜める。
「呼び出された? だれに」
「狩人に」
「それ本気で言ってる?」
「半分は本気だよ。だって、狩人の正体は一切不明なんだから。ヒナの信頼する人物、――それこそ急な呼び出しにも応えるほどヒナが信頼する人物の正体が、もしかすると狩人だったのかもしれない」
そのとき汐里が思い浮かべたのは、ヒナの見舞いに訪れた青年の顔だった。
「反対に、脅迫されたってのもあるかもね。夜の公園に独りで来い、さもなくば一族郎党皆殺しだ、とか」
ああ、と仁江は手をぽんと打つ。
「まだそっちの方が可能性ありそう」
「まあ、想像に過ぎないんだけど」
「そうか、脅迫か。だとすれば筋が通るかもしれない。はあん、なるほどねえ」
「簡単に言うけど、他人事じゃないのよ。明日は我が身ってこともあるんだから」
「狩人がどこに潜んでるのかも解らないしね」
「そうそう」
「実はあたし、狩人なんだって告白したら驚く?」
「死ぬほど驚く」
「実はあたし、狩人なんだ」
「へえ」
ノリ悪いなあ、と唇を尖らせた仁江を、汐里は無視した。
結局、この日の放課後は解散に落ち着き、仁江と別れてから武道場に向かった。剣道部顧問の武智は、汐里の復帰を事件のショックから立ち直ったものと判断したらしく、二週間の無断欠席を問い質したりはしなかった。
稽古が始まると、中には異様な熱気を発する部員がいた。それは己に喝を入れ、邪念を振り払おうとしているようにも見えた。休憩時間に入ると、道場内は水を打ったように静まり返った。言葉に出さないが、全員の頭に共通の残影が存在しているのを汐里は感じた。ショックから立ち直れた者は一人もいない。弥生ヒナの損失はそれだけ大きく、重大だった。沈黙に耐え切れず、汐里は体調不良を騙って早引きした。
道場を出ると、オレンジを溶かしたような夕陽に照らされた。七月になり、暑さは峠に差し掛かっている。癖のように溜息が落ちた。汐里は徒歩で学校を後にし、ふと思って、通学路から外れた。
汐里が足を運んだのは小さな児童公園で、この日は、青年と遭遇してから三日目だった。