ノーと言えない高校生
ノーと言えない日本人。そんな言葉が流行ったのはいつのことだったっけ。ぼんやりと考える黄昏時。
「諸岡くんが急に入れなくなっちゃってさ~、悪いんだけど入ってくれない?」
「ああ、いいですよ、どうせ俺暇ですし」
「いつもいつも悪いね~」
俺にだって今日の予定くらいあった。まあ、誰かとの約束というわけじゃないから俺ひとりが我慢すれば済むわけだけど。だから、ヘルプを頼まれて断れるわけもなくて、俺は今こうして貴重な休日をコンビニのレジ打ちに費やしている。
「はあ……」
ため息のひとつやふたつ、つきたくもなる。本当なら今頃は家で読書をしているはずだったんだけどなあ。頭の中でひたすら愚痴りつつ、俺はあくびを噛み殺す。
元々、頼まれごとは断れない質だった。
何というか、断るのが面倒なのだ。
小学生の頃から先生の手伝いは大体俺がやっていたし、推薦されればクラス委員だの文化祭委員だの何でもやった。
でもそれも、先生から頼まれたことを断って評価を下げるのが嫌だったとか、誰もやりたがらない役を押し付けあって学級会議がダラダラ長引くのが嫌だったとか、そういう理由でだ。
頼みごとを断ることでそんな面倒な事態になるくらいなら、ちょっと大変なのを我慢して感謝される方がずっといい。要するにそういう考え方。
だからまあため息は出るけど、これに関しては選択を間違えたとは思ってない。断るよりはこうして素直に働いている方が面倒レベルはずっと低い。
それに、バイトに入ればそれはそれでいいこともあるのだ。
「廉くーん、遊びに来たよー」
「おういらっしゃい」
いつもと同じ時間に、美奈子がやってきた。部活帰りなのか授業もないのに制服姿で、俺の大好きな肩まで伸びた黒い髪をふんわりと揺らして、美奈子は今日も俺に会いに来てくれた。
「お勤めご苦労様です」
そんな風におどけながら敬礼のポーズを取る美奈子はたまらなく可愛い。何を隠そう、美奈子は俺の彼女だった。
「いやね、せっかく来てもらったところ悪いんだけど、俺一応バイト中だからそんなに気軽に話しかけられても困っちゃうわけだけれども」
「はいはいわかってまーす、廉くんとお喋りしに来たんじゃなくて、ちゃんとお客として来たんですー」
俺の冗談に拗ねたふりで返すと、美奈子は「にひっ」と最高に可愛い笑顔を見せて飲み物売り場の方へとトテトテ駆けていった。それから野菜ジュースのパックを持って戻って来る。
「廉くんバイトあとどれくらいで終わり?」
知ってるくせに。なんて、俺は緩む頬を何とか隠しながら、やっぱり何でもない風に言葉を返す。
「あと三十分くらい」
「そっか、じゃあ私外で待ってるから、一緒に帰ろうよ」
「おう、自転車だけど、送ってってやるよ」
「やたー」
すっかりお馴染みとなったやり取りを交わしつつ代金を払うと、美奈子はスキップしながら外へと出ていった。
「おい宇佐巳、お前もう抜けていいぞー」
すると、そんな俺達を横から眺めていた大学生の木村さんが、気を利かせてそう言ってくれた。俺は「いえ、そんな」と断ったけれど、「いいからいいから、彼女待たせんなよ」と背中を叩かれて結局お言葉に甘えさせてもらうことにした。
外はかなり寒かった。秋を飛ばして冬がやって来たような、そんな雰囲気だ。
「寒いねー」
自転車の後ろに腰掛けながら、美奈子は白い息を吐いた。
「くっついてりゃ大丈夫だろ」
俺もやっぱり白い息を吐く。美奈子はいたずらっぽく笑うと、「えいっ」とお腹の辺りに腕を回してぎゅっとしがみついてきた。柔らかい。少しだけ顔が熱くなったのを悟られないように前を向いて、俺はペダルに力を込めた。ぐん、とすぐに身体は風の中。背中は温かいけれど、やっぱり耳や手は切れそうなほど寒かった。後ろで美奈子も「さぶい~」と悲鳴を上げて、もっと身体を寄せてくる。
ああ、幸せだなあ。
ふと、そんなことを思った。
美奈子がいれば、他は何にもいらない。自転車の後ろに乗ってもらっただけでそう思えるのだから、俺は相当な恋人バカなんだろう。
「ねえ廉くん」
美奈子の声が背中を伝わって聞こえてきた。少し震えているのは、寒いからだろうか。恋人バカはバカらしく、そんなバカみたいなことを思った。
「今日このまま、廉くん家遊びに行っていい?」
「え、うち?」
「うん。廉くん、ひとり暮らしだよね?」
だけどやっぱりそんなわけはなくて、美奈子は少し緊張した様子でそんなことを言った。
正直、それこそ震えるほど嬉しい。
何てったって高校生だ。本音を言えば、美奈子をうちに招いて何か映画とか観ながらイチャイチャしたい。一緒にゲームとかしながらイチャイチャしたい。イチャイチャしたい!
「うわー、ごめん! 今部屋めっちゃ散らかってるんだ! 片付けとくから、また今度な!」
なのに、せっかく美奈子が勇気を出して言ってくれただろう言葉を、俺は何とか当たり障りがないように断った。といってもやっぱり美奈子は少しショックだったようで、「ん、そっか」とあからさまにテンションの下がった声で頷いた。
やっちまった。
結局美奈子は家に着くまでずっと元気がなくて、俺はひどく申し訳ない気持ちになった。
「それじゃ、また学校でね」
「ん、月曜日にな!」
それでも、俺は美奈子を今日うちへ招くわけにはいかなかった。
八つ当たり気味にペダルを力一杯踏みつけながら、俺は家路を急ぐ。
ちくしょう、ちくしょうちくしょう!
モヤモヤとした気持ちは何とか家に着くまでに発散させて、それでも余った分は腕に込めて、俺は力一杯玄関のドアを閉めた。
「ただいま!」
「お、おかえり。どしたの?」
大きな音にびっくりしたらしく奥の居間からひょっこりと、今日美奈子を連れて来られなかった原因が顔を出した。茶色いショートヘアーが襟首の緩んだスウェットを着ている。
「あ、いや、外寒いから冷気が入らないようにーと思ってさ」
「そっか。何か機嫌悪いのかと思っちゃった」
そう言って早苗は、俺の彼女二号は、またみかんを食べる作業へと戻った。
はあ、と洗面所で早苗に聞こえないようにため息をついてから手を洗う。
「今日泊まってくんだっけ?」
「うん、親には友達ん家に泊まるって言ってあるから大丈夫」
「そっかー」
ガラガラ、ペッ。言いたいことは全部うがいにして吐き出して、俺は鏡に映った自分を睨みつけた。
ノーと言えない日本人。そんな言葉が流行ったのはいつのことだったっけ。
もう一度だけ、小さくため息。
頼みごとが断れない俺だから、「付き合って」と言われたら断れるわけもない。そうして結果的に、俺は複数の女の子と付き合ってしまっている。
なんと、二股どころではなく八股だ。ヤマタノオロチでもそんなことしないだろう。
俺が本当に好きなのは美奈子だけなのに、どうしてこんなことになったのか。
「ねーまだー? ご飯食べようよー」
「はいはい今行くー」
俺は最後にオマケでため息をついて、のそのそと居間へ向かった。