お使い2
「あなたは昨日の――」
お凛は、目の前で微笑む病的なまでに色の白い男性を見て驚いた。
「はい。皐月堂の次男、鉄心といいます」
彼の言葉にお凛は更に驚いた。皐月堂には佐吉という跡取り息子がいることは知っていたが、次男がいたとは初耳だった。近所に住んでいれば、今までそれなりに顔を合わせる機会もあったはずなのだが、お凛は彼に会ったのは昨日が初めてだった。
「失礼しました。駒野屋の使いで参りました凛と申します」
「えぇ、知っていますよ。お凛さんは私がここの次男坊だと知って驚きましたか? 実は、私は小さいころから体が弱くて、あまり外へ出ることが出来なかったのです」
「そうだったんですか。もうお加減はよろしいのですか?」
「はい。最近良い薬が手に入りましてね。そのおかげで大分調子が良くなって、こうして外出することも出来るようになったのですよ。あぁ、立ち話も何ですから、おふたりとも良かったら奥へどうぞ。お茶など飲みながら香の話を聞かせてください」
鉄心が案内するままに、お凛たちは店の中へと入って行った。途端に威勢の良い声で「いらっしゃい」という声がする。その声の大きさにお凛がビクリと飛び上がると、鉄心が笑いながら声の主に手をひらひらと振った。
「違うよ兄さん、この方たちは私のお客さんだ。それに、その馬鹿でかい声に駒野屋のお嬢さんがびっくりしているじゃないか」
若旦那と呼ばれた男は、鉄心に良く似た人好きする笑みを浮かべながら頭を下げた。
「そいつはすみません。どうぞゆっくりしていってください」
「お凛さんならご存知かもしれませんね。兄の佐吉です。兄は若旦那として店を任されてから妙に張り切っているんですよ」
鉄心は兄をからかうように笑ってから、店の奥にある客間へとお凛たちを通した。活気のあった店先に比べ、一歩中に入るとそこはひんやりとした静かな廊下が続いていた。薬を扱う店だというのに、なぜかじっとりと湿気を含んだ空気が漂っていて、お凛は怪訝に思った。
客間に通され座布団に腰を落ち着けると、鉄心が改めてお凛たちに向き直った。
「わざわざご足労願って申し訳ありませんでした。ちょっと急ぎの用事がありましてね。妹に香を買ってやる約束をしたんですが、駒野屋さんに足を運べなくて困っていたんですよ」
「いいえ、こちらは構いませんよ。それよりも、鉄心さんはお兄様に良く似ていらっしゃいますね」
「よく店の者にも言われます。髪型も肌の色も同じだったら、どっちがどっちだか分からないとね」
鉄心はやれやれと肩をすくめてみせた。確かに彼の言うように、ふたりはまるで生き写しのようにそっくりだった。
「鉄心さんは、皐月堂で働いているのですか?」
女中が運んでくれたお茶を啜りながら、誠之助が初めて口を開いた。その途端、鉄心の顔が酷く強張ったように見えた。
皐月堂の跡を取ったのは兄の佐吉だと彼は言っていた。そう口にした時の鉄心の眉が、僅かに歪んで皮肉そうな表情を湛えていたことをお凛は思い出した。鉄心は子供の頃から体が弱かったと話していた。おそらく、彼は奉公に出されることなくもこの皐月堂でずっと過ごしたのだろう。
「えぇ。大したことはできませんが、皐月堂で働いています」
強張った顔をしながらも、辛うじて頷いた鉄心の顔からは、さっきまでの愛想の良い笑顔は消えていた。
次男坊として生まれたということは、決して店を継ぐことは出来ないということと同じだ。そのため、長男以外の男子は大抵他の店へ奉公に出されてしまうことが多い。運よく生まれた店に残れても、自分で店を構えるには二十年から三十年近く手代として勤め上げ、番頭と呼ばれる地位まで上らなければ暖簾分けはしてもらえない。おまけに、番頭になったところで肝心の本店が繁盛していなければ、暖簾分けなど夢のまた夢なのだ。
部屋に漂う重たく尖った雰囲気を少しでも変えようと、お凛は持ってきた風呂敷包みを机の上へと持ち上げた。包みを解いて、香炉や色とりどりの香を取り出してみせる。
「本日は香炉で焚く香を中心に持ってきました。こちらの練り香や印香は、香炉の他に灰や火箸など他の道具も必要になりますが、四季の香りなどを幅広く香を楽しむことができます」
お凛は鉄心の前に香を順に並べる。
「こっちの線香はもうご存じですよね。これは煙が出ますが、火をつけるだけで簡単に香りが楽しめます。それからこちらの香木をそのまま炊いても、気持ちがとても落ち着きますよ」
息もつかずに熱心に説明するお凛を瞬きもせずに鉄心は見つめていた。お凛はそんな彼の様子にも気がつかずに、並べた香を手にとって説明を続けている。誠之助はそんなふたりから少し離れた所まで下がると、まるでお凛の影のように静かにそこに座ってた。
「鉄心さん、もしよければ試しに香りを聞いてみませんか?」
「香りを聞く?」
「はい。香は、『嗅ぐ』ではなく『聞く』と言います。どうぞこの中から気に入った物を選んで下さい」
鉄心はじっくりと机の上の香を吟味したあと、黒い色をした線香を一つ摘まんだ。
「これは白檀の線香です。ほんのりと甘い香りの中に深い味わいがあるんですよ」
お凛は鉄心に火種を用意してもらうように頼むと、香炉に新しい灰を満たした。若い女中が興した炭を持ってくるのを待ってから、鉄心の選んだ線香に火を点け香炉にそっと立てる。線香の先端が赤く色づき、やがて細い煙がゆらりと上がった。
「良い香りですね」
鉄心は細く立ち昇る煙を見つめながら、ゆっくりと燻る煙を吸い込んだ。線香から上がる白い煙は始めは真っ直ぐに昇り、次には波打つようにゆらゆらと部屋を漂い始める。
「知っていますか? 良い香を焚くと、その場を清めることが出来るんですよ」
濃密な香りが部屋に満ちてくるのを感じて、お凛はいつものように瞳をそっと閉じた。深い落ち着いた香りを胸に一杯に吸い込むと、体の中まで清められていくような気がする。
しかし、香を焚くといつの間にか側に来てくれる不思議な気配は、今日は感じることは出来なかった。香の神様が現れない事に少しだけ寂しさを感じながら目を開くと、お凛は潮が満ちるように部屋へと広がっていく煙を目で追った。
「ここだけの秘密ですよ。私、お香の神様を知っているんです」
人差し指を口元に当てて子供のような顔でお凛は微笑んだ。自分の中の小さな秘密を、そっとこの場で話してみたくなったのだ。
「お香の神様――ですか?」
「はい。時々、良い香を聞いた時にだけ現れるんですよ」
「お凛さんは面白いことを言いますね。それは、私にも見ることは出来るんですか?」
鉄心は面白そうに笑った。それは、小さな子供が吐く嘘に付き合ってやる大人の顔に似ていた。鉄心は首を傾けながらお凛の顔を覗きこむ。
そのとき、置物のように動かなかった誠之助が小さく咳払いをした。たったそれだけで、今まで透明だった彼の存在が大きく濃くなったように感じられた。
「お嬢さんの言うことは、あながち冗談とも言えませんよ。香とは本来神や仏への供物なんです。古来から、線香の煙に乗って人の思いが神や仏へ届くとも言われています。お嬢さんの純粋な気持ちで清められたその場は、人ならざる者にとっても居心地が良いのかもしれません」
些細な秘密でも真剣に聞いてもらえれば嬉しい。お凛は誠之助が自分の言葉を本気で捉えてくれたことに驚き、嬉しく思った。今まで誰にも話したことはなかったが、誠之助にならもっとたくさん話を聞いてもらいたいという気持ちが芽生え始めた。
完全に蚊帳の外にいることを悟ったのか、鉄心が前髪の奥からじっとお凛を見つめながら、それを無造作に払った。
「お凛さんは本当に香が好きなんですね」
「えぇ。でも、実は小さい頃は香が嫌いだったんです。子供のころから父に香を習っていましたが、ただじっと座って香を聞かなければならないのは幼い私にとっては本当に苦痛だったんです」
お凛は思い出すように遠い目をした。
「でもある日、香木を焚いていたときにもう一つ香りを足してみたんです。ちょっとした悪戯のつもりでした。そのとき、側にいた父とは違う誰かがとても褒めてくれたんです。斬新だ、面白いって。その誰かが喜んでくれるから、私は次の日も香を自分なりに焚いてみました。気がつけば、一番良い香りがするのはどんな香なのかを考えるだけで、とてもわくわくしている自分に気が付いたんです」
「じゃあ、お凛さんを香好きにしたのは、その誰かのお陰なんですね」
「そうですね。あれは一体だれだったのかしら――」
「覚えていないのですか?」
「えぇそれが全く。確かいつも白い衣を着ていたような気がします……。男の人だったのか女の人だったのか、今はそれさえもさっぱり覚えていないんです」
ふぅ、と吐き出されたお凛のため息が、空中を漂っていた煙を乱して複雑な形を作った。
「香が――消えていますね」
誠之助の漏らした呟きに、お凛は香炉の中を覗いた。見ると、香炉の中に突き立てられた線香は、半ばまで灰になったままいつの間にか火が消えていた。こんな消え方をするのは初めてのことだった。