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夜の茶屋1

 お凛はその晩、母屋で父と母と未だ客間で寝泊まりをしている誠之助と一緒に夕餉(ゆうげ)を済ませた。誠之助に対するお客さま扱いにはやはり釈然としないが、今のお凛にはもっと気になることがあるので黙って食事を終えた。

 並べられた膳の片付けを手伝っていると、お凛の母お紫乃(しの)が台所に下りてきた。彼女がここに来るのは珍しい。彼女は昔から台所仕事が壊滅的に下手くそだった。お凛がどうかしたのかとたずねると、お紫乃は周りの女中に聞こえないように声を落としてお凛に話しかけた。

「今日聞いたわ。お美代さんが神隠しにあったのね」

「……お美代ちゃん、もうすぐ祝言をあげるから忙しくなるって嬉しそうに言っていたのに」

 お凛は唇を噛み締めた。頬を少し染めながら祝言の衣装のことを話していたお美代を思い出した。

「辛いねぇ」

 お紫乃が優しくお凛の頭に手を乗せる。お凛はその暖かい手に一時心を慰められた。

「でもそれ、さっきからお凛がそわそわしているのと何か関係があるのかしら?」

「な、何のこと?」

「しらばっくれても駄目よ。お凛が何かを企んでいることは、見ていればちゃんと分かるんだからね。何かお美代さんのためにしてあげたいのね」

 自分の考えは母に見透かされていることを悟って、お凛は仕方なく頷いた。

「思う通りになさい。でも、あまり無茶をしては駄目よ」

「はい。ありがとう」

 お凛はお紫乃の寛大な計らいにお礼を言って、早々に自分の部屋へと引き上げた。もう少しで恭次郎と待ち合わせた時刻になってしまう。

 お凛は箪笥の中から紺色の地味な小袖を引っ張り出すと、急いでそれに着替えた。頭にも同じ色の布を頭巾のように巻いて顔を隠し、まだ火の灯っていない提灯を片手にそっと部屋を抜け出した。

 屋敷は既に火を落とした後のようで、ほとんどの者が自分の部屋に引き払っているらしい。お凛は足音を忍ばせながら廊下を抜ける。床が軋む度に、背中に冷たい汗が流れて落ちた。こんなにどきどきしたのは生まれて初めてのような気がしていた。

 土間に出してある草履を履いて、お凛はこっそりと屋敷を後にした。急がなければ、恭次郎との待ち合わせの刻に遅れてしまう。お凛は外に出ると、袂から火打ち石と火種を取り出して、提灯に灯りを灯す用意をした。カンカンと二回石と鉄とを打ち鳴らすと、橙色の火の粉が暗闇にパッと咲いた。

 お凛は提灯に素早く火を着けると、足早に路地の角を曲がった。さっきの火打ち石の音のせいで、誰かに気づかれては堪らない。ところが、急ぐお凛の前に突然大柄な人影が飛び出してきた。息を飲んで立ち止まると、大きな人影が聞き慣れた声で喋りかけてきた。

「どちらへお出掛けですか、お嬢さん?」

「せ、誠之助さん」

 お凛は提灯の明かりをかざすと、闇の中から浮かび上がったのは眉間に皺を寄せた誠之助だった。

「恭次郎さんと出会い茶屋に行くんですね」

「昼間の話を聞いていたんですか?」

 黙ったまま恐い顔で頷く誠之助を、お凛は唇を噛み締めて見上げた。

「お願い、このまま行かせてください。お美代ちゃんの行方を探したいんです」

 ふたりはしばらく黙ったままお互いを見つめた。誠之助はいつまでも首を縦には振ってくれない。お凛は自分の覚悟を彼に試されているような気分になり、むきになって彼を見上げ続けた。やがて根負けしたのか、諦めたように誠之助が頷いた。

「分かりました。もうお嬢さんを止めたりしません。そのかわり私も一緒について行きます」

「えぇ?」

「夜道をお嬢さんひとりで行かせるわけにはいきません」

「でも、これから行く所は――」

「勿論そこにもお供します。あの恭次郎という男、どこか信用出来ない所がありますから」  

 有無を言わせない鋭い眼差しを向けられて、お凛はおとなしく誠之助の同行を許した。彼の言い分も最もで、恭次郎とふたりきりで出会い茶屋に入るのに、お凛も一抹の不安を感じていたのだった。

 誠之助がお凛から提灯を受け取って暗い道を先頭に立って歩く。お凛が歩き慣れない夜道に足を取られると、誠之助はすっと手を差し出してきた。多くを語らない誠之助だが、その優しさにお凛は密かに頬を染めた。

「誠之助さんは、どうしてこんな所まで付いてきてくれるんですか?」

「あなたを放っておけなかったんですよ」

 誠之助は暗闇に目を向けたまま、呟くように言った。

「貴女は真っ直ぐすぎます。まるで、周りのことなど見えていないかのように無防備に事件に首を突っ込んでいく。そんな姿を見ていられなかったんです」

「……ずいぶんな言い様ですね。そんなに私は無鉄砲ですか?」

 頬を膨らませながら、お凛は誠之助の後を付いて行く。実際その通りだと自分でも思うのだが、まだ会って間もない誠之助に言われてしまうのは、どうにも面白くない。

「えぇ、無鉄砲ですね。もしも恭次郎さんが茶屋でその気になったら、一体どうするつもりだったんですか? お嬢さんは男というものを知らなすぎる」

「それは……そうですね。ごめんなさい」

 恭次郎の女癖の悪さを思い出して、お凛は素直に謝った。

「彼の方は、もう着いていたようですね」

 誠之助が照らす道の向こうから、ぼんやりと浮かび上がる丸い明かりが見えた。ちらちらと揺らぐ提灯の光を手にした恭次郎が、お凛たちに気がついて手を上げている。

「おや、ふたりだけの逢い引きだとばかり思っていたのに、お目付け役も一緒だったのか」

「お待たせしました。夜道は危ないので、誠之助さんも一緒に付いて来てくれたんです」

 誠之助はにこりともせずに、恭次郎に向かって軽く会釈した。しかし、頭を下げる瞬間も目線だけはしっかりと恭次郎を捉えたままで、その鋭い目は恭次郎を威嚇しているようだ。

 恭次郎はそんな誠之助の視線などまるで気にせずに、気だるげな微笑みを浮かべながら肩にかかる髪をかきあげた。

「それじゃあ早速行こうか。木戸が閉まる前には戻って来たいからねぇ。この先に籠を待たせてあるよ」

 恭二郎の用意した籠は大きな物だったが、流石に三人で中に入るといささか狭く感じられた。三人は窮屈な籠に揺られながら、出会い茶屋が多く軒先を並べている池の端に向かった。

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