神隠し2
「ちょいとお邪魔しますよ」
のんびりとした声とともに、背の高い青年が店先にかけられた藍染の暖簾をひょいと片手で避けて駒野屋へと入って来た。
明るい色の髪を結いもせずに肩まで垂らし、襟黒の着物を着崩した物憂げな眼差しの青年の両脇には、妙齢の女性が張り付くように寄り添っている。
「いらっしゃいませ、恭二郎さん」
お凛は、この華やかで気だるげな雰囲気を纏うお得意さまに声をかけた。恭二郎は呉服屋の大店、三橋屋の次男坊だった。
彼は見目の麗しい顔をいつも気だるげに曇らせて、共もつけずに突然ふらりと現れる。そうかと思えば、両手にずらりと女性たちを引き連れて店に来るときもあり、そのやりたい放題ぶりにはお凛も密かに眉をひそめていた。
お得意様には違いないのだが、親の金で好き放題している遊び人というのがお凛の中での彼の評価だった。
「こんにちはお凛さん。今日は彼女たちへの土産を買おうと思ってね」
恭二郎の両脇にくっついていた女性たちは、既に思い思いに店の中を歩き回っている。お凛は彼女たちに目を向けて、ほんの少し頬を染めた。
ふたりは着物の襟をわざとはだけさせて、首筋から胸元までの肌を大きく露出させている。おまけに、錘の入ったさげ下結びの帯が彼女たちが歩くたびに誘うようにゆらゆらと揺れているものだから、お凛は目のやり場に大いに困った。
「そうでしたか。どうぞごゆっくり選んでください」
苦笑を浮かべるお凛に、恭二郎は含みのある笑顔ですぐ側へと歩み寄ってきた。
「というのは口実で、今日もお凛さんに挑戦をしにきたんだ」
悪戯を思いついた子供のような顔をして、恭二郎はお凛に手招きをしている。
「私が焚き染めてきた香りが何だか分かるかい?」
「またですか……。もうこの遊びは勘弁してください」
お凛は困った顔でため息を吐いた。それでも頑として手招きをやめない恭二郎の元へしぶしぶ近寄ると、お凛は彼の胸元に鼻先を近づけた。
「沈香に、甘い香り――これは恭二郎さんのお気に入りの麝香ですね。それから、つんとした刺激のある香りがします。もう一つは丁子です」
「流石お凛さん、大当りだ。でも気をつけなさい、男の前でそんな無防備な顔をするものではないよ」
恭二郎は自分の胸元で目を閉じていたお凛の頬を、指先でそっと撫でた。お凛は慌てて恭二郎から離れた。この男の甘やかな仕草と言葉は、色恋下手なお凛ですら頬を赤くさせることが出来る。
お凛はからかわれたことにむっとしたが、お客様を睨むわけにもいかずに密かに拳を握り締めた。恭二郎はお凛のそんな様子すら楽しんでいるようで、実に涼やかに笑っていた。
「いやぁ、今日も私の負けだ」
恭次郎はさほど悔しがる素振りもせずに、のんびりと懐に手を入れて顔を綻ばせている。お凛をからかって満足したようだ。
「ところで、この麝香という香料は一体何のことだい? 香木か何かの一種かな?」
お凛がその質問に答えようと口を開いたそのとき、突然横から誠之助が淡々と口を挟んできた。
「いいえ。麝香というのは、大陸に生息している麝香鹿の香嚢のことです」
「ほぉ、獣の匂いにしちゃあ随分甘い香りだな」
「動物を原料とした香はとても珍しいんです。麝香の他にはあとほんの数種類しかありません。それに、どれも香りが強く媚薬としての作用があるのが特徴的です」
「なるほど、これは鹿の香りというわけか。実に面白いなぁ。ところで、君は見ない顔だが新しく入った手代さんかな?」
「昨日からお世話になっています。誠之助と申します」
恭二郎は面白そうな顔で誠之助を眺めた。しかし、その目は何かを探るように鋭い。対する誠之助の眉間にも数本の皺がくっきりと刻まれていた。それを見て、お凛はまたため息を吐きそうになった。お客様の前でその顔は非常にまずい。彼にはさっき注意したことが全く伝わっていなかったらしい。
(まったく、どうしてあんなに誠之助さんは不機嫌そうなのかしら)
しかし、恭二郎は誠之助の愛想など気にした様子もなくなおも誠之助に話しかけている。
「隠しているようだけど、少しだけ上方の訛りがあるねぇ。誠之助さんは一体どこから来たのかな?」
恭二郎の目に好奇の色が浮かんだ。ところが、誠之助の答えを聞く前に恭二郎の腕には連れのふたりが絡み付いてきた。
「ねぇ恭さん、今日は欲しいだけお土産買ってくれるんでしょう?」
「はて、そんな約束をしたかな? 私はしがない次男坊なんだから、そのへんはちゃんと加減をしておくれよ」
恭二郎はふたりの女性の腰に手を添えながら、気だるげな半眼で棚の商品を見上げた。もう彼の興味は誠之助から離れたようだ。
この機に、お凛はそんな華やかで退廃的な匂いを感じさせる三人から気づかれないようにゆっくりと遠ざかった。お凛はこの遊び人が少し苦手だ。店のお得意様ではあるのだが、いつも玩具で弄ぶかのようにからかわれてしまうのが、どうにも癪に障るのだ。
さっきの遊びもきちんと断れば良いと思うのだが、密かに負けん気の強いお凛は、挑まれればどうしてもそれを受けてしまうのだ。
お凛はこれ以上恭二郎に絡まれないように、店の奥で商品の整理をすることにした。お凛が引っ込もうとした矢先、店の暖簾が勢い良く跳ね上がって息を切らした男が店に飛び込んできた。
「お凛さん。お凛さんはいませんかっ」
取り乱した様子で駆け込んで来た男は、お美代の父親の尚吉郎だった。彼はお凛を見つけると、藁にでもすがるような必死の形相で駆け寄ってきた。
「お凛さん、こちらにうちのお美代がお邪魔しておりませんか? 昨日踊りの手習いに行ったきり、帰っていないのです」
「お美代ちゃん、家に戻っていないんですか?」
「えぇ。昨日手習いに行ったきりそのまま――」
「私、昨日の帰り道はお美代ちゃんと途中まで一緒でした。暮六の鐘が鳴る少し前にいつもの場所で別れたんです。でも、お美代ちゃんはどこかに寄るなんて言っていなかったので、まっすぐ家に帰ったはずですよ」
尚吉郎は額の汗を拭いながら「そうですか」と力なく項垂れた。
「自社奉行所にお調べしてもらった方がいいんじゃないでしょうか」
番台から弥吉がおろおろした声を上げた。
「最近、若い娘さんが神隠しにあう事件が多く起きているでしょう。もしかしたらお美代さんも――」
「弥吉さん!」
お凛は鋭く弥吉をたしなめた。弥吉の言葉に、みるみる顔を青ざめさせる尚吉郎を見ていられなかったのだ。
「失礼。お美代さんというのは、茶屋の看板小町のお美代さんのことかな?」
今まで事の成り行きを見ていた恭次郎が、連れの女たちを放り出して話に加わってきた。お凛が頷くと、恭次郎は眉を寄せて首を捻った。
「彼女はそこいらの花魁よりも人気があるから、私も彼女の顔は良く知っているよ。しかし妙だな。私は五つ頃に彼女が男の人と出会い茶屋の前にいるのを見たよ」
「み、美代がそんな遅い時刻にそんな所へ。一体誰と?」
「さぁ、それは私にも分かり兼ねます」
「そんな、あの娘に限ってそんな、まさか……」
尚吉郎は唇を震わせて頭を抱えてしまった。娘がそんな所へ行ったのがとても信じられないという顔だ。お凛も恭次郎の言葉に首を捻った。あの真面目なお美代がそんなことをするとはとても思えない。
「お美代ちゃんがそんな時刻に外に出ていたなんて、私にも信じられません。恭次郎さんの見間違いでは?」
「私が美人を見間違えることは絶対にないね」
「それじゃあやっぱり、お美代さんは何かの事件に巻き込まれたのかもしれませんよ」
弥吉が神妙な顔で呟いた。今度はお凛も弥吉をたしなめることは出来なかった。
「これから、自社奉行所に行ってきます」
もはや白く見えるほど顔色の悪い尚吉郎が、フラフラと店を出ようとする。
「尚吉郎さん、私もお美代ちゃんを探しますから気を強く持ってください」
尚吉郎は頭を下げて出ていった。その後ろ姿は何とも所在なく、とても疲れているように見えた。
「気の毒に、きっと心配で眠れなかったんだろうね」
恭次郎が憐れみを含んだ眼差しで庄吉郎の背中を見送った。お凛は恭次郎にそっと近づいて、彼の耳元に囁くように内緒の話を切り出した。
「恭次郎さん、お願いがあります」
「ん、なんだい? 君のお願いだったら出来るだけ叶えてあげるよ」
「今夜、私を出会い茶屋に連れていってください」
「何だって?」
いつも気だるげな雰囲気を纏っている恭次郎だったが、この時ばかりは彼もすっとんきょうな声をあげた。
「お凛さん、出会い茶屋がどんな所なのか分かって言っているのかい?」
お凛は思い詰めた顔で恭次郎を見上げて、こくりと頷いた。
「お美代ちゃんを見かけたという出会い茶屋に連れて行ってほしいんです。もしかしたら、お美代ちゃんの行方の手がかりが分かるかもしれません」
真剣なお凛の眼差しを受けて、恭次郎は残念そうなため息を吐いた。
「なんだ、そういうことか。まぁいいさ。あの店は夜しかやっていない店だから、今夜お連れしよう」
恭次郎はいつもの半眼に少しだけ面白そうな色を乗せると、待ち合わせの場所を決めて店を出て行った。彼の連れの女性たちは、恭次郎の付けでしっかりと買い物を済ました後、慌てて彼の後を追いかけていった。
今まで黙々と仕事をしていた誠之助の眉毛が、このときピクリと不機嫌そうに跳ね上がったことにお凛は気がついてはいなかった。