神隠し1
朝四つ。お凛は朝餉を終えると、店の隣の作業所で手代たちに混じって香の調合を手伝っていた。仄かな芳香を放つ香木を細かく刻んでいると、小僧の一人がやってきた。どうやら徳右衛門がお凛を店に呼んでくるようにと言いつけたらしい。
すばらしく良い気持ちで始まったお凛の朝だったが、小僧の言葉で途端に憂鬱なものへと変わってしまった。重い足取りで店に行くと、そこには渋い顔をして番台に座っている徳右衛門の姿が見えた。
「また作業場にいたのかい。お前はいずれこの駒野屋のおかみになるのだから、香の調合は手代たちに任せておくれ」
基本的にはお凛に甘い徳右衛門だが、このときばかりは、呆れ半分諦め半分にため息を吐いた。
「私はこれから会合に出なければならないから、今日はせめて店の番を頼んだよ」
小言を言われてしまったお凛は、しぶしぶ返事をしてから店先に出た。店の奥の方では、番頭の弥吉と、店にまだ不慣れな誠之助が帳簿を見ながら頭を寄せ合っている。早速仕事を教わっているらしい。
駒野屋には様々なお客が訪れるが、普段は圧倒的に女性客が多い。今も手習いに向かう途中なのか、三人の年頃の女性が香の香りや効能を確かめながら、実に賑やかに買い物を楽しんでいる。
そんななか、店の端で慣れない手つきで商品を手に取っては棚へ戻すという動作を繰り返している男がいた。お凛はなんとなくその男性に目を留めた。初めて見る顔だった。
まるで日に当たったことがないような真っ白な顔と、顔の片側を長い前髪で覆い隠すように長く伸ばしているのが目を引く。時折、鬱陶しそうにそれを指で払っているのを見ると、それが彼の癖なのだろう。涼しげな目元と高い鼻梁が人好きのする顔立ちを際立たせているが、今はそれを困ったように曇らせていた。
「なにかお探しですか?」
お凛は青年の背中に声をかけた。彼は一瞬驚いたように体を震わせてから、ゆっくりとお凛を振り返った。
「えぇ。妹に買っていく土産を見ていました」
「妹さんへの贈り物ですか。それは素敵ですね」
両手を合わせて微笑むお凛を、青年は長い前髪の隙間からじっと見下ろした。その瞳が何かの意思をもって細められたのを知らずに、お凛はさらに青年に話しかける。
「妹さんは香炉をお持ちですか?」
「えぇ、持っていますよ。でも今日は匂袋を頼まれているんです。ただ、私はこういう物に疎くて何を選べばよいのやら……」
「では、これはいかがでしょう? 沈香が入っているので、ほんのりと甘い香りがします」
お凛は花の形をした薄紫色の香袋を青年に差し出した。
「見た目も可愛らしいので、若い女性にも大変人気があるんですよ」
彼はお凛の勧める香袋を手に取ると、香りを確かめるように鼻先に当てて、少し考えてから頷いた。
「じゃあ、あなたのお勧めのこれにします」
青年が財布を取り出そうと袂を探っていると、そこから四角い物が滑り落ちた。小さな鈴の音を立てて床に転がったそれを、お凛は屈んで拾い上げた。
きらきらと光る螺鈿の細工が施された印籠には、良く見ると狐を彫った柘植の根付と小さな土鈴が付いていた。印籠の細かな細工といい、根付といい、相当値の張るものだとお凛は密かに思った。
「お薬をお持ちなんですね。どこかお加減でも悪いのですか?」
「あ、ええ……。実はそうなんです」
お凛が差し出した印籠を、青年は急いでまた袂にしまいながらゆっくりと頷いた。
「それよりも会計を」
青年は袂から探し当てた財布を握りながら、急かすように香袋を差し出す。お凛は番台に座る弥吉に会計を任せて、香袋を紙で包んだ。妹への贈り物ならば可愛らしい包みの方が良いだろうと思い、薄桃色の紙を選んだ。
青年は小さな包みを懐へしまいながら「邪魔をしました」と一声かけて店を出て行った。お凛は頭を下げて青年を見送っていたが、そのとき彼が一度振り返ってお凛をじっと見つめていたことにお凛は気がつくことはなかった。
そのやり取りを店の奥から見つめていた誠之助は、さり気なくお凛に近付いてきてそっと耳打ちをする。
「今香袋を買っていった男は、お嬢さんのお知り合いですか?」
「いいえ、今日初めてお会いした方です」
「――そうですか」
きょとんとするお凛には目もくれず、誠之助は何か思案するような顔付きで男が出て行った先を睨んでいた。彼がそんな顔をすると眉間の皺が深くなり、恐い顔がますます恐ろしく見えてしまう。
「誠之助さん、そんな怖いお顔をしていると眉が繋がってしまいますよ。店では笑顔を心がけてください」
お凛は笑いながら手を伸ばすと、誠之助の眉間にぴたりと人差し指をあてがった。そして、そこを解すようにトントンと叩くと、誠之助の鋭い目が驚いたようにまん丸になった。ついでに口まで開いているのを見て、お凛はくすくすと笑った。
「私も父に良く言われたんです。客商売は愛想が大事。だから、店に出たときは悲しいことがあっても笑っていなさいって。だから、誠之助さんも笑ってください」
お凛の手が離れると、誠之助はハッとして口元を手で隠した。
「……努力します」
ぶっきらぼうに答えると、誠之助はお凛にくるりと背中を向けてしまった。その耳がほんのり赤く染まっているのを見て、お凛はまた忍び笑いをもらした。
手代とは従業員のことです。