魔窟、潜入1
「そういえば、あんたはどうしてお凛さんが行方不明だと分かったんだい?」
恭二郎はほとんど全力での疾走を続けながら、狻猊に興味津々の様子で話しかけていた。息を切らしながらも聞かずにはいられない恭二郎の好奇心に、誠之助は半ば呆れながら感心した。
恭二郎は自分たちより少し後ろを走る狻猊に、好奇の目を向けている。狻猊はさきほどから息も乱さしていない。
「お凛の匂いは、どこにいても大抵俺には分かる。それが、三刻ほど前からぷっつりと消えた」
狻猊は恭二郎を見もせずに淡々と答えた。
「何か、匂いを遮断するような場所へお凛が間違って入ったとしか思えない。それはきっと、あの桜のある場所に違いない」
誠之助は、自分たちと必要以上に話をしない美丈夫の言葉に首を傾げた。
「それは、お嬢さんの部屋に飾ってあった狂い咲きの桜のことですか?」
「そうだ。あの花からは、悪臭と言っていいほどのたちの悪い気配がしていた」
「今、その桜が咲いている薬種問屋へ向かっています。貴方がそう言うのでしたら、やはりお嬢さんはそこにいますね」
「薬種問屋というと、もしかして皐月堂のことかい?」
事情を何一つ知らない恭二郎が素っ頓狂な声を上げた。誠之助は、何も分からないまま付いて来る彼の神経に内心呆れ、また密かに褒め称えた。この男は頼りない見た目に反して、随分と肝が据わっているようだ。
「そうです。もうここまで来てしまえば言ってしまいますが、お嬢さんは皐月堂にいると思います。そこに鉄心さんが絡んでいるかはともかく、皐月堂には小さな少女が居る。恐らく、彼女が今回の神隠しの鍵を握っているはずです」
誠之助が聞き込んでいた少女は今、この江戸の町に潜んでいる。彼女は一抱えもある龍涎香を利用して、この神隠しの騒動を起こしたのだと誠之助は考えていた。
「全部仮定の話というわけか」
「そういうことです」
「そう言えば、いつか出会い茶屋の親父が土鈴の音を聞いたと言っていたな。知っているかい? 鉄心さんの根付には、小さな土鈴がついているんだよ」
誠之助は眉をひそめた。そういえば、あの好色そうな主人はそんなことを言っていたのを思い出した。そうなると――
「その鉄心という男は黒だな」
誠之助の考える先を、狻猊が口にした。鉄心の神経質そうだが、お凛を見つめる熱い眼差しを思い出す。狻猊の言うとおり、彼も共犯なのかもしれない。お凛の身が危うい。誠之助は滴る汗をぬぐいもせず、ただひたすら皐月堂を目指して走り続けた。
「ここか」
皐月堂へ着くなり、狻猊が庭に生えている満開の桜を睨み付けた。淡い桃色の花びらは、まるでその命を削っているかのようにひっきりなしに落ちてきて庭を桃色に染めていた。その花は、誠之助に不吉な予感を過らせた。
「こんな時季に桜が咲くとは、何とも不思議なことだねぇ」
恭次郎が落ちた風に飛ばされてきた花びらを拾い上げた。狻猊はそんな恭次郎には構わずに、ひっそりと鎮まり返っている店に足を踏み入れていた。誠之助も迷わずそれに習う。
表の通りはいつもと変わらず人々の活気で満ち溢れているのに、店に入ると外の喧騒が一切聞こえてこない。
中はひんやりとしていて薄暗く、人の気配が全く感じられない。誠之助は突然外界から切り離された海の底にでも連れてこられた気分になった。
「店の者はみんな一体どうしたんでしょう」
「暖簾を上げたままにしているから、店は休みではないんだろうけど。それにしたって店の者が誰もいないのはおかしいねぇ」
そう言いながら、遅れて恭次郎が暖簾から顔を出した。彼の目は空のまま積まれている薬箱に注がれている。
狻猊は無言で店の奥へと進んでいった。草履を履いたままだったが、咎める者は誰もいなかった。誠之助たちも勝手に押し入る無礼を承知で、奥へと上がっていった。勿論、草履はその場に脱いでいった。
廊下を少し行くと、すぐ右側に客間があった。以前通されたこの部屋に、もしかしたらお凛も通されたかもしれない。そう考えて、誠之助はぴたりと閉じられている客間の襖を開け放った。
「ここにも誰もいない」
後ろで呟いた恭次郎の言葉には、落胆しているとも、安堵しているともつかない響きがあった。
「こんな目につきやすい所にお凛はいない。恐らく、容易に手が出せないような所にでも隠しているのだろう」
「じゃあ、一体どこにいるっていうんだい?」
「それを今から探すのだ。阿呆が」
恭次郎は狻猊をじろりと睨んだが、彼はそんな視線すら感じないというようにどんどん奥へと進んでいく。恭次郎が誠之助にこっそりと耳打ちをしてきた。
「あの男とこのまま一緒に行動していて大丈夫なのかい? 得体が知れなくて不気味に思えるんだが」
「確かに得体は知れませんが、たぶん大丈夫でしょう。彼は本当にお嬢さんを心配していますよ」
「そうだろうか。あの妖しい美貌といい、紅い瞳といい、とても人とは思えない」
「あぁ、確かに彼は人ではないかもしれません」
「人ではないって……そんな事をよくもあっさりと口に出来るね」
「恭次郎さん。この世には、私たちの預かり知らぬことがたくさんあるのですよ」
恭次郎は絶句したように黙った。
「ここは――」
先頭を歩く狻猊が僅かに焦りを滲ませた声を漏らした。誠之助は彼の背中越しに開けられた襖を覗き込んだ。奇妙なことに、開け放った襖の奥にはまた長い廊下が続いて、その先は奇妙な形にくねっていた。終わりが見えない。
「やられた」
狻猊が悔しそうに舌打ちをした。
「なんだい、これは?」
「幻だ。しかし、気を付けなければ永遠に出られなくなるぞ。後ろを見てみろ」
誠之助たちは言われた通り振り返った。今歩いて来た廊下が何倍にも伸びていて、先の方は霞がかって見える。壁には襖も無数に並んでいて、まるでたちの悪い夢に迷い込んだような光景が広がっていた。
「いいか、全員はぐれるなよ」
狻猊はゆっくりと足を踏み出した。いつの間にか、辺りには果実の腐ったような甘ったるい香の匂いが漂っている。誠之助は纏まりついてくる匂いを吸い込まないように、口許に手を当てて白い着物の背中を追った。
しかし、目を凝らしてその背を追っていたはずなのに、突然狻猊の後ろ姿が消えた。隣を歩いているはずの恭次郎を急いで振り返ったが、やはり彼の姿もどこにも無い。瞬き一つする間にふたりの姿が忽然と消えてしまったのだ。
「恭次郎さん?」
誠之助は不安を覚えながらも先へと進んだ。行く手を阻もうとするのは、きっと核心に近付いている証だ。誠之助はとにかく前へ前へと進んだ。どの位歩いただろうか。誠之助の前に人影が現れた。長い艶やかな髪に華奢な佇まい。
「お嬢さんっ」
誠之助は思わず駆け出した。お凛はゆっくりと振り向いた。
「誠之助さん、どうしてここへ?」
「お嬢さんを探しに来たんですよ。だんな様も心配しています」
手を差し出した誠之助に、お凛は首を振った。
「私はまだ帰りません。私――鉄心さんと祝言をあげることにしたんです」
「何ですって?」
「ようやく見付けたんです。駒野屋の跡取りに相応しい人を。鉄心さんなら、きっと父も喜んでくれると思います」
「お嬢さん……周りをよく見てください。今はそんなことを言っている時では――」
「では、いつ言えばいいんですか? 私はもう鉄心さんと一時も離れていたくないんです。彼のことが好き。誠之助さんはどうかこのまま帰って下さい」
取り乱すように声を荒げたお凛に、誠之助は驚いた。今お凛は何と言ったのだろうか。鉄心が好きだと言ったのか。
誠之助は思わずお凛に近付いていた。
「鉄心さんと一緒になると言うんですか? 香を作り続けたいというお嬢さんの夢を、諦めるつもりですか?」
「香なんかより、もっと大事な人が出来たんです」
「以前話してくれた、思う通りに生きることをもうやめてしまうのですか?」
「私だっていつまでも我が儘を通していい歳ではありません。そんなことは、責任を感じることが出来ない子どもの言うことです」
誠之助はお凛をじっと見下ろした。お凛は目をそらすことなくそれを受け止めている。誠之助は、急に腹の底が冷えていくのを感じた。
「――いて下さい」
「え?」
「そこをどいて下さい」
誠之助はお凛の肩をぐいと押した。
「貴女は、私の知っているお嬢さんではありません」
お凛は大きな瞳を更に大きく見開いて、誠之助を見上げている。
「誠之助さんたら、一本何を言うんですか」
「私の知るお嬢さんは、悩みながらも、自分の思う通りに生きたいと願う真っ直ぐな人です。夢を簡単に捨てきれずに、いつも葛藤しているようでした」
お凛は驚いた顔をして立ち尽くしている。誠之助は、自分でも不思議なほど目の前のお凛に怒りを感じていた。まるで、大切な物を汚されたような気持ちだった。
「貴女は、お嬢さんではない。本当のお嬢さんを返してもらいます」
お凛は怯えたように胸の前で両手を握りしめていたが、突然にやりと笑った。可憐な容姿に似合わぬ下卑た笑みを浮かべたまま、お凛はすぅっと回りの景色に溶けていった。
突如固い音がして、ひびの入ったかんざしが一本その場に転がり落ちてきた。それを拾い上げた誠之助は顔を曇らせた。
それは、誠之助がお凛に贈ったかんざしだった。誠之助はそれを懐にしまうとその場にしばし立ち尽くした。ここで起きていることは、自分の理解の範疇を越えている。
「どうか無事でいて下さい、お嬢さん」




