寄り道2
「着きました。さぁ遠慮せずに中へどうぞ」
鉄心の案内するままに、お凛は再び皐月堂の暖簾を潜り抜けた。以前来たときは活気に溢れていた店の中には、今日は誰の姿も見えない。店の隅に置かれている薬棚も空になっていて、心なしか店の中に薄っすらと埃が積もっているような気がする。
数日前に来たときには、鉄心の兄が威勢の良い声を張り上げてお客が溢れ返っていたというのに――。
「今日は、若旦那さんもいらっしゃらないんですね」
「あぁ、兄は所用で外出しているんですよ」
「そんなときにお邪魔してしまったら迷惑ではないですか?」
「いいえ、気になさらないで下さい」
鉄心は埃っぽい店の中をどんどん進んで、屋敷の中へとお凛を案内する。お凛たちが通りすぎると、廊下の隅に溜まっていた埃がふわふわと舞って、またひんやりと冷たい廊下に沈殿していった。女中の姿も今日は見当たらない。
「お店はお休みなんですか?」
誰の気配もしない屋敷の中は、酷く薄暗い。暖簾を上げている以上店は営業しているはずなのだが、今は皐月堂で働く主人の姿も手代たちの姿もない。なにより、じっとりとした湿気が酷く重くるしくて不快だった。
鉄心は廊下の奥の部屋の襖を開けてお凛を中へと誘った。以前通された客間とは違う雰囲気の部屋は、誰かの私室のようだ。
「もしかして鉄心さんの部屋ですか?」
お凛は部屋を見回しながら鉄心に訊ねた。部屋には流行の絵師の錦絵や簡素な机が置かれている。
「えぇそうです。実は、お凛さんに聞いてほしい香があるんですよ」
どこかうきうきと弾むような声でそう言うと、鉄心は香炉を取り出した。それは、以前お凛が手配した物とは違う物だった。
白磁の器に桜が散る様が描かれている大きめの香炉には、既に白く細やかな灰が満たされている。もう何度も使っている証拠に、灰には仄かな残り香が移っていた。
鉄心は慣れた手付きで火を起こして、小さな炭に火を付けた。火箸で炭を灰の中に埋めてから、その上に灰をそっと被せる。その流れるような仕草は、既に熟練者のように滑らかだった。
「素晴らしいお手並みですね。鉄心さんが香を始められたのは最近だと聞いていましたが、もう私よりもお上手ですよ」
「たくさん練習したせいでしょうか。妹にせがまれて、最近では日に何度も香を焚いているので、参っているんです」
鉄心は全く困って見えない緩んだ顔で肩を竦めてみせた。その間も、彼の手は止まることなく働いている。
鉄心は懐を探ると、そこから螺鈿の細工の印籠を取り出した。柘植で出来た狐の根付けと一緒に括られている土鈴が、コロコロという可愛らしい音をたてる。お凛はそれ見た途端、胸がドキリと大きく鳴った。
(箱と狐の根付け――)
お凛の脳裏に、お美代が今朝夢うつつに口走った言葉が蘇った。
「これは少し前に手に入れた練香です。かなり珍しい物だそうで、簡単には手に入らない代物なんですよ」
鉄心の話は、今のお凛の耳には届かない。お美代の言葉を思い返しながら、彼の手の中の印籠に釘付けになっていた。
(お美代ちゃんの言っていた箱って、印籠のこと? でも、まさか。狐の根付けだってきっと偶然だわ)
鉄心が印籠を開くと、小さな土鈴が素朴な音を響かせる。印籠の中には、黒い色をした練香が幾粒か入っていた。それをつまみ上げると、鉄心は丁寧に香炉の中にそれを入れた。
「どうかしましたか?」
声をかけられて、お凛は鉄心の手元から視線を上げた。
「お凛さん、何だかとても難しい顔をしていましたよ」
「そ、そうですか?」
いつの間にか、握りしめていた手のひらには汗がじっとりと滲んでいた。お凛は気を取り直して香炉の中を覗きこんだ。鉄心が練香を中に入れた灰の小山に空気穴を開けると、中で燻っていた練香から香りがゆっくりと立ち上り始めた。
「始めのうちは癖の強い香りがしますが、徐々に独特の甘い香りに変わってきます。そんな香りの変化も、とても面白いですよね」
お凛は目を閉じた。えぐみのあるような、つんとする香りが鼻についた。
「すみません、少し席を外して妹の様子を見てきます。実は、妹は今日も体調が悪くて二階で休んでいるんですよ。お凛さんは、どうぞゆっくりと香の変化を楽しんでいて下さい」
「そんな時にお邪魔をしてしまって、本当にご迷惑ではありませんか? 私、そろそろお暇しますので――」
「いいえ、どうぞそのままでいてください。妹は家の者が見ていますが、私が顔を出さないと拗ねてしまうんですよ」
鉄心は目尻を下げながら、照れたように笑う。
「年の離れた妹なので、少々の我が儘もついつい許してしまうんです」
「良かったら、今度妹さんの具合の良い時に是非紹介してください」
「もちろんです。妹も喜びますよ」
それだけ言うと、鉄心は素早く立ち上がり部屋を出ていった。
「優しい人なんだなぁ、鉄心さんって」
妹を思いやる鉄心は、お凛にはとても好ましく思えた。一人っ子のお凛にとって、我が儘すら可愛いと言える妹がいることが羨ましく思える。
鉄心の妹は、以前一目だけだが見た覚えがある。誠之助と香を届けた帰り道で、屋敷の二階から自分を見下ろしていた少女だ。艶やかな長い髪と、雪のように白い肌をした綺麗な少女だった。
あんなに儚く可愛い少女が病気がちで外に出られないのなら、誰でも彼女の我が儘を聞いてあげたくなってしまうだろうなとお凛は思った。
お凛は香炉を持ち上げて、それを顔の側まで近づけた。小さな穴から立ち上る香りは、お世辞にも良い香りとは言えない。それでも注意深く香気を聞いていると、それが何かに似ていることに気がついた。
「これは、潮の香り?」
目を閉じると、浮かんでくるのは海の光景だ。
「こんな練香は初めて。一体何から出来ているのかしら」
お凛が首を傾げていると、背後の襖が勢い良く開いた。お凛が驚いて振り返ると、そこには鉄心の兄の佐吉が立っていた。
「こ、こんにちは。お邪魔しています」
お凛は慌てて頭を下げたが、佐吉は充血した目で部屋の中を見回している。鉄心と良く似た顔だちは心なしかやつれて見え、暑くも無いのになぜか大量の汗が額を流れている。そして、何かに耐えるように眉を八の字に歪めていた。
「お出かけだったと聞きましたが、戻っていらしたのですね」
「鉄心は……?」
「え?」
彼の瞳は焦点を結んでおらず、空をさ迷ったまま一所に落ち着かない。
「鉄心はどこに?」
「今二階に上がって行きました。妹さんの様子を見てくるとおっしゃって――」
「妹?」
ぼんやりした生気のない佐吉の顔が、初めてお凛の方に向けられた。
「うちには、妹なんていない」
「え? でも、そんなはずは――」
「それよりも、あの香はどこに? あれがないと私は……」
佐吉はそれだけ言うと、くるりと踵を返して戻って行った。
お凛は彼のあまりに異様な様子に、呆然としたまま固まってしまった。しかし、しばらくしてから思い出したように立ち上がると、開けっ放しになっていた襖をピシャリと締めた。また佐吉が入って来ないようにしっかりと襖を押さえたまま、お凛はその場に座り込んでいた。
「今のは一体なんだったの……。佐吉さん、一体どうしてしまったの?」
以前会った時とは別人のように変わってしまった佐吉を見て、得体の知れぬ恐怖が競り上がってきた。
「妹さんがいないだなんて、そんなのあり得ない。だって、私も見たもの」
お凛は身を震わせながら、佐吉の赤く充血した瞳と、顔色の悪いやつれた姿を思い出した。意味の良く分からない言動は、今朝方にも覚えがあった。何よりも、焦点の合わない虚ろな瞳が今朝のお美代の症状と良く似ていたような気がした。




