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西から来た男2

それから母屋では客間に布団やら寝間着やら、誠之助の使う夜具を運び入れるために女中たちは大騒ぎだった。

 お凛も何か手伝おうとしたが、全て女中たちに断られてしまい、結局手持ち無沙汰でその様子を眺めていた。右へ左へと行き交う彼女たちの邪魔にならないようにと、お凛はしぶしぶ自分の部屋に戻りながら誠之助の待遇の良さに首を傾げた。

 本来、駒野屋では奉公に来た者たちには、庭に建てられた離れで寝泊りしてもらうことになっている。店の番頭や手代(てだい)たち、小僧たちもそこで寝泊りをしている。

 しかしどうやら誠之助は母屋の、しかも客間で生活をするようだった。運ばれている夜具や着替えも、お凛が見る限りでは全て上等な物ばかりで、ただの奉公人にこのような対応は通常有り得ないことだった。

 まだ皆が客間の準備に追われている最中、お凛は自室の机に向かい小さな香炉を取り出した。それは幼い頃に父の徳右衛門からもらったもので、大陸から渡ってきた物だという話だ。

 その小さな香炉には、獅子のような厳しい顔をした獣が描かれている。普通、香炉には木や草花や鳥などが描かれることが多いのだが、お凛はこの珍しくも雄々しい香炉が妙に気に入り、幼い頃から愛用していた。

 部屋を茜色に染めていた西日が静かに消えかかるころ、お凛は女中のひとりを呼ぶと、彼女に火をつけた行灯と火をおこした炭を持ってきてくれるように頼んだ。今ならまだ台所で夕餉の支度をしているはずだから、そこから火をもらってこられるだろう。

 それからお凛は押入れから小さな壷を取り出して、中から(ねり)(こう)を一粒取り出した。それを手のひらの上に乗せて顔を近づけると、しっとりとした感触をした小指の爪ほどの丸い香から、ほんのりとした香りが漂ってくる。

 仄かに甘い香りに満足していると、ちょうど頼んでいた行灯と炭が届いた。お凛はお礼を言ってから、いそいそと机の引き出しを開けて中から香道具を取り出した。

 まずは表面が白くなった炭を火箸で香炉の中の灰に埋めて、灰押えでゆっくりと灰を被せて丁寧に小山を作った。次にそれを円錐の形に整えてから、先ほど取り出した練香を二粒その上に置いた。火加減が難しいのだが、やがてゆらゆらと芳香が立ち昇ってきたのを感じて、お凛は香炉をそっと持ち上げた。

 香炉を手の中に閉じ込めるように持ち、香りが逃げないように顔に近づける。秋を思い描いて作った菊花(きっか)という練香は、名前の通り菊の花を思わせる甘い香に出来上がっていた。

 お凛は目を閉じて、心静かに香を聞いた。客間からは遠い位置にあるお凛の部屋には、店や女中たちの喧騒はほとんど聞こえてはこない。

 行灯の光が瞼の裏でゆらゆらと揺れる静かな空間の中で、お凛は思い切り鼻から吸い込んだ息を、ほぅと口からそっと逃がした。そうすると、体の中を清浄なものが通り抜けていくような気がする。心地よい。自分というものが溶け出して、どこまでも広がっていくような気持ちになった。

 そのとき、お凛のすぐ脇を小さな風が通り抜けていった。

(来た)

 お凛の胸が密かにどきりと鳴った。それは、誰かがお凛の脇をすり抜けていったような微かな空気の流れだった。耳を澄ませると、畳を擦るような足音が微かに聞こえている。しかし、お凛は目を開けることなくそのまま香を聞き続けた。 

 気のせいではない。お凛以外にも誰かがここにいて、一緒に香を聞いているのだ。その証拠に、お凛の背後では息をじっと潜めているような何者かの気配さえ感じられる。それでも、お凛は慌てることなく静かにその存在を受け入れた。

 たったひとりで香を聞いているときに限って、この誰とも分からない不思議な気配を感じることが幼い頃から度々あった。一体これは誰なのかを確かめたくて、お凛は何度も後ろを振り返ってみたが、今までその人物の影すら見えたことはなかった。

 恐ろしい気配はしない。穏やかに、ただお凛と共に香を楽しんでいるかのように、じっと動かないこの誰かのことを、お凛は勝手に香の神様と名づけていた。

(香の神様が来てくれたという事は、この練香の出来は上々かしら)

 香の神様が現れるのは、いつも良い香を聞いているときだった。お凛は静かに立ち昇る香りに満足して頷いた。

 そのとき、廊下の方から大きな足音がこちらに近付いてくるのが聞こえてきた。途端、背後でゆったりと寛いでいた気配がすぅっと消えていった。どうやら香の神様はお凛以外の者の前に姿を現す気はないらしい。

 ミシミシという体重の乗った大きな軋みが、いつの間にかお凛の部屋の前で止まった。耳をそばだてていたお凛は、そっと目を開けた。すると、低い声が障子越しに聞こえてきた。

「失礼、広い屋敷で迷ってしまいました。水をもらいたいのですが、台所はどちらでしょうか」

 誠之助の声だった。お凛は立ち上がって障子を開けた。

「家の中で迷子になったのですか?」

 お凛が袖で口元を隠しながら笑うと、誠之助の眉間が狭まった。そうすると彼の恐い顔が更に険しいものへと変わっていく。

「――広いお屋敷ですから」

「ごめんなさい。そうですよね、初めて来た場所ですものね。台所はこの廊下の奥にあります」

 良く見ると、誠之助は先ほどの汚れた旅支度を解いて、今は藍鼠の小袖を身に着けていた。こうして見ると品の良さが際立ち、ますます精悍な青年に見える。そういえば、お凛はこの青年がどこから来たのかまだ聞かされていないことに気がついた。

「誠之助さんはどこからいらしたのですか?」

「西の方から来ました。富士の山よりも、もっともっと遠くから」

 あえてぼかした言い方をする誠之助の答えに、お凛は首を傾げた。江戸から出たこともないお凛にとっては、西と一言で言われてもすぐに思い描くことが出来ない。

 お凛がもっと詳しく聞こうとしたとき、誠之助の目がお凛の部屋の小さな香炉に向いた。部屋から漂う芳香に気がついた誠之助が、お凛越しに部屋の中を覗き込んでいた。

「良い香りですね。これは菊花ですか?」

「はい。以前作っておいた香を試しに焚いていたところなんです」

「少し拝見してもいいですか?」

 お凛はこの申し出に少し迷ってから、「どうぞ」と答えて障子を全開にして誠之助を招き入れた。まだ知り合って間もない男性を部屋に入れるのは、はしたないことのように思えたが、障子をこうして開けておけば大丈夫だろうと思い至った。

 誠之助は畳に置かれたままの香炉をゆっくりと手に取った。まだ暖かいそれを大きな手で囲んでから、誠之助は綺麗な所作で静かに香を聞き始めた。その様子は、彼が香に慣れ親しんでいることを示していた。

「旅の疲れが吹き飛ぶようです」

 誠之助の目が突然すっと細くなり、きりりと引き結んでいた口元が柔らかく微笑んだ。強面だった彼の表情が、信じられないほど柔らかく解けていく。

「これは、本来の菊花とは少し違いますね。(くん)(ろく)の香りが僅かに強い。それに、仄かに違う香りもします」

「分かるんですか? 実は、ほんの少しだけ安息香を入れています」

 お凛は誠之助の言葉に驚いた。まさか誠之助に、(くん)(ろく)の割合や安息香の香りを嗅ぎ取ることが出来るとは思わなかった。しかし、先ほど誠之助が一目で香の名前を当てたのを思い出し、お凛は誠之助への認識を改めた。それと同時に、香を深く語れる仲間が出来たような気がして、お凛は嬉しくなった。

「実は、新しい香を作りたくて一人でこっそり調香をしているんです」

「これをお嬢さんが作ったのですか?」

「はい。香を作るのが好きなんです」

 お凛は満面の笑みを浮かべたが、すぐにその顔を曇らせた。

「でも……調香師でもないのに、いつまでもこんなことは続けていられません」

「それは、お嬢さんが駒野屋の娘だからですか?」

 お凛はハッとして誠之助を見上げた。誠之助の静かな表情からは何も伺えない。しかし、何もかもを承知しているかのようなその瞳の前に、お凛は素直に頷いた。

「今の私に求められているのは、香を作る事などではなく駒野屋の立派なおかみになるために仕事を覚えることです」

 それから、と付け加えてため息を一つ吐き出した。

「早く入り婿を選んで、祝言を挙げなければいけないんです」

「お嬢さんは、祝言を挙げたくないのですか?」

 誠之助は、お凛を正面から見据えて問いかける。彼は一度もお凛から視線を逸らさなかった。お凛はこの静かな強い瞳の前では、普段自分が思っていることを打ち明けられるような気がした。

「いつかは、婿を取らなければいけないと分かっているんです。でも、今はまだ自分の思うように生きたい。そう思うのです」

「自分の思うように生きるのはとても難しい事です。しかし、人は時にはそういう生き方をしても良いと私も思いますよ」

 あまり表情を変えない誠之助の口元が、また少し微笑んだような気がしてお凛は目を瞠った。思わずまじまじと誠之助を見つめてしまったお凛だったが、彼が気恥ずかしそうに視線を逸らすのを見て我に返った。

 誠之助は一つ咳払いをしてから、そそくさと立ち上がった。

「長いことお邪魔をしました」

「いえ、無事に台所に辿りつけるといいですね」

「まったくです」

 そう言うと、誠之助は神妙な顔をしながら廊下を歩いていった。あながち冗談ではなかったらしい。彼が去った後、お凛はそっと障子を閉めた。心静かに香を聞いていたはずなのに、お凛の胸にはこのとき奇妙な熱が生まれていた。

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