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白の粉2

 日が完全に顔を出した頃になってから、お凛は朝餉の用意が出来たと言われ座敷に呼ばれた。家族三人に加え、最近では誠之助も共に膳を囲むのが習慣になっていたのだが、今日はいつもの席に誠之助の姿はなかった。

「おはようございます。今朝は誠之助さんは一緒ではないの?」

「あぁ、彼には昨日のうちに香の買付を頼んだんだよ」

 父の徳右衛門は、戸口に立ったままのお凛に座るように手招きをしながら笑いかけた。昨夜のお説教のことなど微塵も感じさせない破顔ぶりだ。基本お凛に甘い徳右衛門は、いつまでも娘に厳しい顔を向けていられないようだった。

「誠之助さんが香の買付を? まだ江戸に不馴れな誠之助さんがどうして?」

「彼はとても優秀だよ。それに、今回のことは彼の方からやりたいと言ったんだ」

「一体何の香の買い付けを?」

「それは秘密だよ。私にもまだ詳しいことは分からないんだ」

 ここで徳右衛門は声を一段落として、内緒話でもするように手を口許に当てた。

「何でも、幻の香が手に入るかもしれないそうだ」

「幻の香?」

「そうだ。楽しみだろう」

 そう言って愉快そうに笑う徳右衛門の隣で、お凛は腑に落ちない気持ちで首を捻った。なぜ誠之助は突然買い付けになど行ったのだろうか。

 お凛は空になっている誠之助の席を見ると、胸がつかえるようなもやもやとした気持ちになった。

(誠之助さんには、昨日の話を聞いてもらいたかったのになぁ)

 彼の険しい仏頂面を見られないのが、お凛はなぜだかとても淋しく感じられた。そんな様子のお凛を見ていた母のお史乃は、くすりと笑いを漏らした。

「さぁ、冷めないうちにいただきましょう。お凛もいつまでもそんな顔をしないの。誠之助さんならすぐに帰ってきますよ」

「――はい」

 お凛は箸を取ると、朝から豪華すぎるお膳を食べ始めた。茶碗に盛られた白米に味噌汁。漬物に焼いた魚と玉子焼き。お凛がきつね色の玉子焼きに箸を入れると、ふっくらとした弾力で押し返してきた。口に入れるとだし汁がじんわりと滲み出る卵焼きとともに、お凛はご飯を頬張りながら、お茶でそれらを流し込んだ。

「おかわり下さい」

 空になった茶碗を持ち上げると、お史乃が呆れたような声を出した。

「相変わらず良く食べるわねぇ。それで太らないのが本当に不思議だわ」

「いやいや。最近はすっかり食が細くなってしまったから、心配していたんだよ。いつもなら茶碗五杯は食べるのに、昨日なんて茶碗三杯しか食べていなかったじゃないか」

 娘を見る徳右衛門の目は限りなく優しく、曇っているようだ。

「それだけ食べれば、普通は十分よ」

 お史乃はそんな夫を豪快に笑い飛ばしながら「でも」と付け加えた。

「食べないよりは、食べた方がいいわよねぇ」

 お凛は随分な言われようだと思いながら、二杯目のお代わりを注いでもらった。

 ぽかぽかと暖かい日差しが差す小春日和。お凛はいつもよりも大分少ない茶碗二杯で朝餉を済ませると、お文との約束どおり手習いの教室に向かった。

 今日はお花の稽古をつけてもらう日だ。朝から日暮れまで、稽古に習い事。それがより良い縁談を結ぶためだというのだから、お凛には納得がいかない。

「これじゃあまるで、嫁ぐためだけに私が存在しているみたい」

 お凛はぶつぶつと独り言を言いながら、楽しそうに通りを歩く、自分よりも幾分幼い少女たちに目を止めた。彼女たちは祝言を挙げるならば誰がいいかと声高に話をしながら、道一杯に広がって歩いていた。恐らく彼女たちもこれから手習い教室に向かうのだろう。

 何も疑問に思うことなく、親に決められた習い事を一生懸命こなす。全ては自分を高く売り込むためだと教え込まれている少女たち。そんな彼女たちの顔は、いっそ清々しく楽しそうに見えた。

(私も、ああだったら良かったのかな)

 お凛は自分の手のひらに目を落とした。香木を細かく刻む度に、また練り香を練る度に、お凛の手には香の残り香が移っていたものだ。しかし、今のお凛の手のひらには何の香りもしない。

 お凛は手にしていた巾着を握りしめると、足早に歩き出した。お花の稽古に遅れるとまた師匠に怒られてしまう。それでなくても、お凛は香以外のことは極度の不器用でいつも師匠にため息を吐かせてばかりいるのだ。

 お凛が顔を上げて歩きだすと、先ほどの少女たちが黄色い声をあげていた。お凛も興味をそそられて、さりげなく少女たちが騒いでいる方へと足を進める。

 そこには、少女たちが長身の男ふたりをぐるりと取り囲んでいるの光景があった。頭一つ抜き出ている男たちは、お凛がよく知る人物だ。少女の一人が頬を淡く染めながら話しかけている声がお凛の所まで聞こえてくる。

「おはようございます恭二郎さん。これからお出かけですか?」

「いや、出かけるというよりも今が帰りなんだよ」

 恭二郎が艶めいた言葉を憚ることなく口にすると、一斉にキャーという声が沸きあがった。そんな声には慣れているのか、恭二郎は涼しい顔でそれをやり過ごしている。

 お凛は少女たちの輪の後ろの方で一時足を止めていたが、ゆっくりと後ろへ下がっていった。野次馬根性を出したばっかりに、あまり関わりたくない人に近付いてしまうのも上手くない。

 小さな輪からそっと離れていくお凛を、恭二郎の隣にいる男が見つけて声をかけてきた。

「そこに居るのは、もしかしてお凛さんですか?」

「その声は、鉄心さん?」

 お凛が振り向くと、鉄心が笑いながら手を挙げていた。彼は人の輪を掻き分けるようにしてお凛の側までやってきた。恭二郎と鉄心を囲んでいた少女たちの目がお凛に向けられたが、すぐに興味を失ったように恭二郎に向き直る。どうやら彼女たちの目当ては恭二郎ひとりらしい。

 お凛はそれにほっと胸をなでおろすと、改めて鉄心を仰ぎ見た。その瞬間、お凛は息を飲んで口元で手を覆った。

 鉄心の長い前髪で隠されている白い顔に、どす黒い斑点が浮かんでいた。目じりや口元には切り傷が出来ていて、まだかさぶたになりきれていないその傷口には、じんわりと血が滲んでいた。

「その怪我、一体どうしたんですか?」

「あぁ、これですか」

 生々しい傷跡を隠そうと、鉄心は口元をぐいと擦る。そうすると、滲んでいた血が広がってますます酷い顔になった。

「擦ったらいけませんよ!」

 悲鳴のような声を上げるお凛を見て、鉄心はばつが悪そうに口元を歪めた。

「実は昨夜、酔っ払いの喧嘩に巻き込まれてしまったんです。仲裁に入ったはずの私が、双方から殴られてしまってこの有様ですよ」

 鉄心は「情けない限りです」と言いながら肩をすくめた。

「酷い怪我ですね。痛むでしょう?」

 お凛は手に持っていたきんちゃくから、貝殻の容器に入れた傷薬を取り出した。不器用なお凛は、花を活けるときによく剣山に指を刺してしまうことがある。だから、お花の稽古のときにはいつもそれを持ち歩いていた。

「少し滲みるかもしれません」

 指で塗り薬を掬い取って、背伸びをしながら鉄心の口許にそっと乗せるように塗った。鉄心は驚いた顔をしながらも、お凛が塗りやすいように前屈みになってじっとしてくれた。

「すみません」

 目元の切り傷にも薬を塗り終わると、鉄心は少し困ったような顔をしながら礼を口にした。

「今度はそっちの方の傷も見せて下さい」

 お凛が鉄心の長い前髪に手を触れたそのとき、彼の手がお凛の手首を素早く掴んだ。

「そこは結構です。傷はありませんから」

「でも――」

 見上げた鉄心の顔から、怖いくらいに表情が消え去っていた。掴まれた手首からは鈍い痛みが伝わってくる。怖い。お凛がそう思うほど、鉄心の顔は強張っていた。

 先に目を逸らしたのは、お凛の方だった。鉄心の前髪に伸ばした手を引くと、拘束は呆気ないほどあっさりほどけた。お凛は微かに震える手で、軟膏が付いた指を手拭いで拭った。動揺していることを表に出してはならないと思いながらも、お凛は自分の顔が強張っているのを自覚していた。

(もしかして、迷惑だったのかな)

 お凛が手拭いをきんちゃくの中にしまおうとしたとき、そこに今までなかった白い汚れを見つけた。

(何かしら?)

 手拭いに擦れたように白く伸びた白粉の跡が付いている。今朝手にした時には付いていなかった汚れだ。それに、お凛は白粉は使わない。

(どうしてこんな所に白粉が?)

 お凛は鉄心の白い顔を見上げてハッとした。まるで日に焼けたことがないような白い顔。彼のその不自然なまでの白さは、白粉によるものだったのだ。

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