サン猊2
お凛が驚いて目を開くと、覆面をした男は目の前から消えていた。その代わりとでもいうように、雪のように真っ白い小袖を着た男が、お凛の目の前に立っていた。
一体この男はどこから現れたのだろうか。お凛は束の間呆けたように男を見上げていたが、覆面の男を捜して屋根の下を覗いた。先ほど聞こえた長く尾を引く悲鳴と不吉な物音。お凛を追いかけてきた男は、突風に煽られて屋根から落っこちていた。
暗くてはっきりとは見えないが、地面に覆面の男が横たわっている。そこへ、店の主人が何事かと番台から飛び出してきた。駆け寄ってきた主人に、覆面の男が何事か喚いている。どうやら屋根から突き落とされたと説明しているらしい。その姿を見てお凛はほっと息を吐いた。命に別状はないようだ。
「お前を捕まえようとした者の心配か?」
目の前には、白い小袖を着た美丈夫が面白くもなさそうにお凛を見つめていた。お凛は男の視線を受け止めながら、密かに息を呑んだ。
(なんて綺麗な男の人)
彼は背中に流した長い髪を風に絡ませながら、紅玉に似た紅い瞳でお凛を見ていた。視線を合わせていると、その真っ赤な瞳に魂を吸い取られてしまうような錯覚を起こしそうになる。
お凛は慌ててきつく瞬きを繰り返した。この男を見つめ続けていると、呆けたように何も考えられなくなりそうで恐ろしかった。
「見付けたぞ!」
騒ぎを聞きつけたもう一人の覆面の男が、突如部屋の中に駆け込んできた。店の中は最早騒然としていて、足音を荒げて多くの人々が廊下を走り回っている。
覆面の男は、お凛の隣に立つ男を目にして驚いたような声を上げたが、すぐにお凛に向かって唸るように低く告げた。
「そこを動くなよ」
お凛を指差しながら喚き散らすと、男は窓枠に足をかけて屋根に降りてきた。
「逃げるぞ」
白い小袖の男は返事も待たずにお凛を横抱きに抱えた。そして、男はそのまま冷たい夜風が吹き荒ぶ屋根の海を見渡してから、一度大きく頷いた。
「ふむ、あそこの屋根が良いか」
「な、何を――?」
お凛の慌てた声はそれ以上続かなかった。男はお凛を抱えたまま腰を低く落とすと、無造作に空に向かって跳んだ。さして力を込めたわけでもなさそうだったが、ふたりは綺麗な放物線を描いて隣の屋敷の屋根に舞い降りた。白い着物の男は、そのまま踏み台よろしく屋根を軽快に二つ三つと渡っていく。
お凛は男に抱えられたまま目を回していた。悲鳴さえ喉から出てこない。生きた心地がしないとは正にこのことだとお凛は思った。上下に揺さぶられ、ありえない移動方法に吐き気を覚えた頃、男がようやくお凛を屋根の上にそっと下ろした。
「ここなら邪魔は入らないだろう」
そう言って笑う男の顔は、月の光を浴びているせいか酷く妖しく美しく見えた。
「貴方は、一体……?」
お凛の問いかけに、男は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにもとの無表情になるとお凛から目線を逸らして呟いた。
「俺のことは、そうだな――サン猊とでも呼べばいい」
「サン猊さん?」
お凛は目を瞬かせた。腰が抜けてしまったお凛は、屋根の上に尻をつけたままで彼の呼び名を口の中で転がした。昔どこかで聞いたことがあるような、奇妙な懐かしさを覚えた。
サン猊は無言で頷いたが、そこに寂しそうな複雑な色が浮かび上がり、それもすぐに消えてしまった。
「サン猊さんは、どうして私を助けてくれたんですか?」
お凛は屋根に座り込んだまま、サン猊を見上げた。まだ膝がかくかくと笑い、腰が抜けて立てそうもなかった。サン猊はそんな情けない姿のお凛に手を貸して立たせると、お凛の頬にそっと手を当てた。体温を感じさせない冷たい手のひらの感触に、お凛は体をびくりと震わせる。
「俺はお前に恩がある。お凛はもう忘れてしまったのかもしれないが、俺の大切なものをお前がくれたんだよ」
「どうして私の名前を? もしかしてどこかで会ったことがありましたか?」
サン猊はそれには答えずに、まるで脆く壊れやすい物を触るかのようにお凛の頬に指を滑らせた。少しだけ近付いたふたりの距離で、ふわりと落ち着いた深い香りが広がった。サン猊の小袖に焚き染められた香りだろうか。
「この香り――白檀ですか?」
どこか懐かしく思える香りを感じて、強張っていたお凛の気持ちが僅かにほどけた。これはお凛が一番気に入っている香りだった。
「あぁ。お凛の一番好きな香だろう」
「どうしてそれを――?」
「なんだって知っている。お前のことなら」
サン猊は触れていた手をそっと離した。そして、今まで柔らかかったその表情を突然厳しいものに一変させた。
「金輪際、もうこの事件に関わるんじゃない」
「どうしてそんなことを言うんですか?」
はっきりとした彼の物言いに、お凛は顔を強ばらせた。
「さっきは本当に危ないところだった。俺がいなければ一体お前はどうなっていたと思う? これ以上ひとりで何にでも首を突っ込むのはやめろ」
お凛の睫毛が震えた。本当はお凛にも分かっていたのだ。彼の言うことは正しい。
「でも……」
お凛はきつく唇を噛んで俯いた。突然現れた男の前で、込み上げてくる涙を抑えられなかった。悔しいという思いと、恥ずかしいという思いとが、ごちゃ混ぜになってしまった。
お凛の細い肩が震え、冷たい瓦の上にパタパタと涙の雫が落ちた。
「でも……友達を見つけたい。私にできることは、何でもいいからやっておきたいんです」
「そのために自分まで神隠しにあったら、洒落にならんだろう」
お凛を見下ろすサン猊の視線が鋭くなった。
「さっきの男たちが今度の神隠しにどれほど関わっているのかは知らん。だが、あいつらは堅気の者ではない。お凛の顔だって覚えられたかもしれない」
「確かに、私の行動は軽率でした。でも許せないんです」
お凛は弾かれたように顔をあげて、涙を一杯に溜めた瞳でサン猊を見上げた。
「お美代ちゃんをはじめ、罪の無い女の人を浚っているなんて絶対に許せません。それに、彼らの部屋で焚かれていた香の香りを嗅いだ途端、体から力が抜けていきました。お美代ちゃんが姿を消した時に焚かれていた香と同じ香りです。きっと、娘たちを連れ去るときに、あの香を使って抵抗出来ないようにしているんだわ」
お凛が悔しさで震えるたびに、大きな瞳から涙が溢れて頬に流れ落ちた。
「何て卑劣なやり方。香をそんなことの為に使うなんて」
お凛は今まで抱いたことがないほどの怒りを感じていた。お凛にとって香は情熱を傾ける物であり、心の安らぎだ。それがお美代をさらった者たちに悪用されているのは我慢ならない。お凛は、いつの間にか握りしめていた拳をそっと開いた。
「香は心を癒す為に作られているはずなのに……」
お凛は堪えきれずに両手で顔を覆った。悲しくて悔しくて、何も出来ない自分が恨めしくて。
しゃくりあげるように震えるお凛の肩に、大きな手が乗せられた。顔を上げると、サン猊が難しい顔をしながらお凛を見下ろしている。
「ごめんなさい。助けてくれたあなたにこんなことを言うなんて」
「構わない。泣きたい時には、周りなど気にせずにそうすればいい」
そう言うと、彼はお凛を自分の胸にぐいと押し当てた。白檀の香りに包まれて、お凛はまた少しだけ涙を溢した。お美代が消えてしまってから、お凛はこの日初めて声を上げて泣いた。
「落ち着いたか?」
どのくらいそうしていただろうか。サン猊がお凛をなだめるように、そっと背中を擦りながら訊ねた。
お凛はこくりと小さく頷いて、サン猊の懐から顔を離した。赤くなっている目元を伏せて、小さくお礼の言葉を口にする。彼の優しさに甘え、子供のように泣いてしまったのが今更ながら恥ずかしかった。
「では、駒野屋まで送っていこう」
「ありがとうございます。じゃあ、辻籠を探さなくては」
「必用ない」
そう言うが否や、サン猊はお凛を再びその腕に抱え上げた。
「ま、まさか――」
青ざめるお凛に、サン猊はにやりと笑って答える。
「俺が抱えていった方が余程早いぞ」
「や、待って下さいっ」
「喋ると舌を噛むぞ」
サン猊は軽く助走をつけてから、お凛を腕に抱えたまま屋根から屋根へと飛び移った。お凛は目を回しながら、必死にサン猊にしがみ付いた。叫びださなかったのが不思議なほどだったが、そんなお凛を見てサン猊は不可解な顔をした。
「昔はこれほど怖がらなかったんだがなぁ」
恐怖に耐えるお凛の耳には、サン猊の呟きなど聞こえるはずもなく、お凛は早く地面に着かないかと祈るばかりだった。ようやく駒野屋が見えてきた頃、サン猊よりもお凛のほうがぐったりとしていて、疲れ果てているように見えた。
「店の前は鍵がかかっているので、庭先に下ろして下さい」
まだ火を落とすには早い刻だ。お凛はまだぐらぐらする頭を押さえ、力無く中庭を指差した。庭木の多い中庭ならば誰にも見られることなく部屋に入る事が出来る。
「承知した」
サン猊は足音もなく塀を渡ると、猫のようにしなやかに松の木の陰に着地した。
「すまなかったな。お凛があのように怖がるとは思わなかった」
「いいえ、私の方こそごめんなさい。しがみついていたせいで、着物に皺が出来てしまいました」
サン猊の雪のように白い小袖の襟元は、お凛が握りしめていたおかげでしわくちゃになっていた。
「問題ない。それよりも、もう危険な真似はしないと約束してくれよ」
お凛は少しだけ目を伏せてから、こくりと頷いた。サン猊はそれを見て、満足そうに紅い瞳を細めた。そして、お凛を縁側に下ろすとつむじ風のように邸の屋根へと飛び上がった。
「待って」
お凛が思わず声をかけると、彼は一瞬立ち止まってからお凛を見下ろす。
「本当にありがとうございました」
屋根の上の白い影に手を振ると、彼は小さく笑ってから夜の闇に姿を消した。お凛はしばらく彼が消えてしまった夜空を見上げていたが、くしゃみをひとつして部屋へと戻っていった。冷たい廊下が素足にしみる。
「そういえば、巾着と草履を忘れてきてしまったわ」
お凛はため息を吐きながら障子を開けた。これから徳右衛門に帰宅した報告をしに行かなければならない。お説教が待っていると思うと、お凛の足取りは重たくなった。




