西から来た男1
髪に絡む風が冷たく感じられる秋の夕刻。お凛は長い髪を揺らしながら、大勢の人々で賑わう通りを走っていた。足に纏わりつく着物の裾を手で払い、お凛は寒さなど感じさせない軽やかな足取りで、下駄のカラコロという音を響かせながら人ごみの隙間をすり抜けていく。
大きな瞳をきょろきょろと動かしながら颯爽と駆けていくお凛を、通りすがりの若い衆がちらりと振り返っている。なかには、緩んだ顔で「駒野屋のお嬢さん」と声を掛けてくる者までいた。
お凛はそんな声に小さく頭を下げて応えると、走りながら先を歩いているはずの友人の姿を探した。行き交う人々の中に見知った縞模様の小袖と、一分の隙もなく結い上げてある髪を見つけて、お凛は大きな声でその後ろ姿の女性に声をかけた。
「お美代ちゃん。待って、一緒に帰ろう」
同じ踊りの教室に通うお美代を呼び止めると、お美代はその声に驚いたように振り返った。頬を染めながら懸命に駆けてくるお凛を見て、彼女は微笑んで手を振り返した。
「今日の居残り練習は早く終わったのねぇ。お凛ちゃん」
「えぇ。お師匠さんも、私に『葛の葉』を教えるのをついに諦めたのかもしれないわ」
踊りの才能が皆無だと言われているお凛は、師匠に居残りを言い渡されるのが常だった。ついさきほど、諦めたような渋い顔で練習の終わりを告げた師匠の顔を思い出して、お凛はくすりと笑った。そして、着物の袂から赤いぷっくりとした袋を取り出すと、お美代にそれを手渡した。
「これは?」
お美代はぷくぷくとした小さな巾着を手の中で転がした。
「香袋なの。お美代ちゃんにあげる」
「お凛ちゃんが作ったの?」
お美代は香袋に顔を近づけて顔を綻ばせた。それを見て、お凛もつられて微笑んだ。
「もちろん。中には白檀や桂皮なんかを入れてあるのよ」
「凄くいい香り。どうもありがとう」
お美代は赤い香袋を大事そうに袂に仕舞いながら、お凛の顔を覗き込んだ。その途端、お凛の顔はぱぁっと明るく輝いた。
「喜んでもらえて良かった。だって、もうすぐお美代ちゃんはお嫁に行っちゃうでしょう。そうなれば、手習いの教室でこうして会うこともなくなるだろうから――これを私だと思って、持っていて欲しいの」
お凛がそう言うと、お美代は少し寂しそうに微笑んでお凛の頭を撫でた。お凛よりも一つ年上のお美代は今年十七歳になった。
幼馴染のお美代の元に縁談の話が来たのは、まだ蝉が鳴き始める前の事だった。しかし話はとんとん拍子に進み、あともう一息というところまでお美代の縁談は進んでいた。
本来ならば喜ばしいことなのに、実の姉のように慕っていたお美代を取られてしまうような気がして、お凛はこの縁談を素直に喜べなかった。
「お凛ちゃん本当にありがとう。大事にするね。でも、お凛ちゃんも近いうちにお婿さんを迎えるのでしょう? 今もきっと、お凛ちゃんのお父さんが候補者の中から選んでいる最中のはずだわ」
お美代の言葉にお凛は浮かない顔で頷いた。
「婿取りなんて煩わしいだけだわ。相手なんて、いつまでも決まらなければいいのに……」
お凛はそっと唇を噛み締めた。そんなわけにはいかない事は、お凛にも良く分かっている。それでも、お凛はまだ見ぬ婿のことを考えるとため息がこぼれてくるのだった。
「そんなことを言って、お凛ちゃんは好きな人はいないの?」
「好きな人なんて――いないわ」
「お婿さんに選ばれる人が、きちんとお凛ちゃんのことを見てくれる人だったらいいね」
そう言って、お美代はお凛に手を振って別れを告げた。お凛も沈む心を押し殺して、精一杯の笑顔を浮かべて手を振り返した。これからしばらく、嫁入り支度に忙しくなるお美代には会えなくなるだろう。せめて今は、笑ってお美代の嫁入りを祝福しなければ。
お凛はお美代と別れた後、とぼとぼと一人で帰り道を歩いた。夕餉の匂いが溢れる通りには、一日の仕事を終えた大工や懐が重くなった魚売りたちが行き交っている。お凛は家路を急ぐ人々の流れに乗りきれずに、いつしか道の端へと追いやられていた。
お凛の家は香を扱うお香屋を営んでいる。曾祖父が一人で築いた駒野屋は、今では町でも有数の大店に成長していた。そこの一人娘として大事に育てられたお凛は、今年で十六歳になった。
見目も良く大店の跡取り娘のお凛の元には、既に多くの縁談が舞い込んできている。しかし当のお凛は色恋にはとんと興味が無い。それどころか増えすぎた婿候補の数に呆れて辟易としていた。
お凛には自分の縁談よりも、もっともっと大切な事がある。いっそのこと、縁談などまとまらなければいいとお凛はいつも密かに思っていた。
しかし花の盛りは短いもので、十九歳を迎えるまでに夫を選んで祝言を挙げなければ、世間では立派な行き遅れと言われてしまうのだ。お凛が心身ともに自由でいられるのも、あと三年が限度だった。
お凛はカラコロと下駄を引きずりながら、再び深いため息を吐きだした。最近頭を悩ませている縁談に加えて、仲良しのお美代までもが嫁いでしまう。笑顔で縁談を持ちかけてくる父親の話をはぐらかすのも、もう限界かもしれない。
暮れ六つの鐘が微かに聞こえてきた頃、ようやくお凛は駒野屋の暖簾をくぐった。
店の奥にある母屋に帰る前に、いつも店に寄って行くのがお凛の癖だった。正確には、店の隣にある香をつくる作業場を覗いていくのだ。
「ただいま帰りました」
いつものように番台に座る父の徳右衛門に挨拶をする。
「あぁお帰り。そうか、もう手習いから帰って来る刻か」
普段の徳右衛門らしからぬ、気もそぞろな返事が返ってきた。お凛がそれを不思議に思うと、徳右衛門の脇に見たこともない、背の高い青年が立っていた。
切れ長の鋭い目元をした精悍な青年は、お凛を見ると軽く頭を下げた。慌ててお凛も深く頭を下げる。
「大変失礼いたしました。お客様がいらっしゃったのですね。娘の凛と申します」
青年はじっくりとお凛を下から上まで見つめた後、誠之助ですと短く名乗った。
「私は客ではありません。今日からこちらで働かせてもらうことになりました」
「ちょいと待って下さい、誠之助さん。私はまだこの件を承諾したわけじゃありませんよ」
慌てて徳右衛門が首を横に振ると、誠之助と名乗った青年は、幾分くたびれた着物の袂から一枚の文を取り出した。それを広げて徳右衛門へと渡す。
「紹介状は確かにここにあります。お願いします、どうか私をこちらで雇って下さい」
静かに頭を下げる誠之助とは対照的に、徳右衛門は眉根を寄せながら文と誠之助とを交互に見比べている。明らかに困惑している様子の父親を見て、お凛は心の中で首を捻った。
紹介状を持参しているのならば、彼の身元はしっかりしているということになる。ちょうど人手も欲しいと言っていたはずなのに、徳右衛門が渋っている理由がお凛には分からなかった。
しかし、お凛はそれを口にすることなく、頭を下げて奥へと下がろうとした。徳右衛門の様子を不思議に思いはしても、それに口を出すことは出来ない。駒野屋の主人は徳右衛門なのだ。
お凛が誠之助の側をすり抜けたその時、お凛の手がくいと引かれた。見ると誠之助がお凛の手を掴んでいる。
「お嬢さん、どうぞこれを。ここへ来る道中買い求めた土産です」
誠之助はお凛の手のひらに、そっと小さなかんざしを握らせた。
「え、私にですか?」
お凛は手の中のかんざしを見つめる。それは乳白色のとろりと滑らかな石に、花の模様が描かれている何とも珍しいかんざしだった。
「綺麗な石」
「これは鯨の歯です。近くの浜で上がった鯨から取れたものだそうです」
「ほう、鯨とは珍しいな」
徳右衛門が目を丸くした。
「えぇ。これは抹香の名の付く鯨のもので、なかなか手に入らないそうです」
「そんなに貴重な物をいただけません」
お凛がかんざしを返そうとするのを、誠之助が押し止めた。
「いいえ。どうぞ受け取って下さい」
静かな、しかし強い眼差しで誠之助はお凛を見つめる。そうまではっきりと言われてしまうと、お凛はかんざしを返すことも出来ない。
「ありがとうございます」
かんざしを握りしめ、お凛は誠之助に礼を言ってその手を引っ込めた。
「お凛はもう下がりなさい。それから、客間に夜具を運ぶように手配しておくれ。誠之助さんにお泊まりいただくから」
「それじゃあ、ここに置いていただけるんですね」
徳右衛門はため息を吐きながらゆっくりと頷いた。誠之助は長身な体を折りたたみ、深く頭を下げた。