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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

てぇてぇ? 私たちそういうんじゃありませんから・家出してきた姉に、私の居場所(彼女)を乗っ取られるまでの数日間

作者: 伊部 なら丁 with Gemini3.1
掲載日:2026/03/01

◼️招かれざる客(1)



インターホンが連続で鳴り響いたのは、夜の十一時を回った頃だった。都内のこぢんまりとした1LDK。リビングのソファでくつろいでいたハルカは、隣に座るミチルと顔を見合わせた。ミチルは膝の上に置いていたタブレットから視線を上げ、小さく首を傾げる。



「こんな時間に誰だろう」



「……ちょっと、覗いてくる」ハルカが面倒くさそうに立ち上がり、玄関へ向かう。チェーン越しにドアを開けた瞬間、ドカッと大きなキャリーケースがねじ込まれた。



「あ、ハルカ、悪いんだけど、今夜泊めて」



そこに立っていたのは、目を真っ赤に腫らしたハルカの姉、ユキだった。年齢は三十。結婚して三年になるはずだが、左手の薬指には見慣れたはずのリングがない。



騒ぎを聞きつけてリビングの奥から出てきたミチルが、目を丸くした。「えっと……」ミチルが戸惑っていると、ハルカがため息まじりに振り返る。



「……うちの姉のユキ」



「あ、初めまして。一緒に住んでるミチルです」ミチルの挨拶に、ユキは「……どうも」と短く返すと、すぐさまハルカに向き直った。



「ちょっと聞いてよハルカ! あの人、口を開けば文句ばっかりで、家事なんてこれっぽっちも手伝わないの! もう限界!」



「あー、わかったわかった。とりあえず上がりなよ、近所迷惑だから」



ハルカが呆れ顔で姉を室内に引き入れる。ひとしきりソファで泣きながら不満を吐き出したユキは、出された温かい麦茶を飲み干すと、「で、私どこで寝ればいい?」と堂々と言い放った。



「どこって……うち、ベット一つなんで、三人で川の字かな」ハルカが事もなげに言うと、ユキは露骨に嫌そうな顔をする。



「いやいや、いくら妹の家でもそれは悪いし! ミチルちゃんにも気ぃ遣うわ。私、こっちで一人で寝るから。その方が気楽だし」ユキはリビングのソファをバンバンと叩いた。ミチルは少し困ったように眉を下げたが、やがて「あ」と何かを思い出したように押し入れへと向かった。



「これキャンプブームの時に買った寝袋です。これなら、ソファの上でも寒くないですよ」



「うわ、ミチルちゃん天才! ありがとー!」かくして、三十歳の家出妻は、妹と同居人の住むお洒落なリビングで、ミノムシのように寝袋にすっぽりと収まることになった。





翌日の昼時。リモートワークの区切りをつけたミチルが、キッチンに立つ。冷蔵庫の余り物で手際よく作られたのは、彩り鮮やかなカフェ風のオムライスプレートだった。



「わぁ……なにこれ、すっご!」



寝袋から這い出してきたユキが、テーブルに並んだ皿を見て目を輝かせる。「こんなすごいの作ってくれたの? え、写真撮ってもいい? ブログとかに上げてもいいかな」



「あ、全然いいですよ。こんなんで良ければ。ちょっと恥ずかしいですけど」



「いやいや、そんなことないよ! めちゃくちゃ美味しそう!」ユキはスマホを三脚スタンドに固定し始めた。ミチルはそれを不思議そうに眺める。



「なんですか? インスタ? いつも食べるもの晒してるんですか?」「んー……まぁ、それもあるんだけど。実は、小遣い稼ぎとこれからの将来のことも考えて、配信者やってて」



「配信?」



「うん。ていうか、このご飯食べるの、このまま放送してもいい?」ユキが少し上目遣いで尋ねると、ミチルはあっさりと頷いた。



「うん。いいですよ。私も昔、ちょっとだけやってたことあるんですよ」



「えー! 本当!? 顔出しで?」



「ええ、まあ。ゲームしながら雑談とか。でも最近は全然やってないですけど」



「えー! すごい! コミュニティどんくらいいたの!?」



「いや、そんな大したことないですよ。1万人くらいだったかな」



「……いちまん!? え、私まだ228人。昨日より減っちゃって……」



ユキは情けない声を上げながらも、手慣れた様子でライブ配信の開始ボタンをタップした。



「あ、始まったかな。……皆さんおはよー、じゃなくてこんにちは! 見てこれ、特製オムライス! やばくない? あたしが作ったんじゃないけど……」



ユキがスマホのレンズをご飯に近づけ、流れるコメントをさばく。ミチルはその様子を特に気にする風でもなく、「冷めないうちにどうぞ」と微笑んだ。





その日の深夜。リビングの電気は消され、ユキはすでにお気に入りの寝袋にくるまってうとうとしていた。ガチャッ、と玄関のドアが開く音がした。夜の仕事からハルカが帰ってきたのだ。



すると途端に、奥の部屋のドアが開き、パタパタと軽い足音が玄関へ向かっていく。起きて待っていたミチルだった。



「遅かったよぉー、心配したよぉ」


「ごめんね、お客さん長引いちゃってさぁ」


「ご飯は? 食べる?」



「んーん、ありがとう、でも大丈夫。シャワー浴びるかな……」



暗がりの中で交わされる、二人の日常。ソファの上に転がる寝袋ユキのことなど、二人の視界には一切入っていないようだった。それは二人だけの閉じた世界かの様だった。やがて足音は奥の部屋へと消え、再び静寂が訪れる。



嵐が過ぎ去ったような余韻の中、ユキは寝袋の中で寝返りを打った。(やっと静まったか……)再び目を閉じ眠りにつこうとするが……



ガサゴソと奥の部屋から物音と、くすくすと忍び笑いのような声が漏れ聞こえてくる。



(……何やってんのよもう……、何時だと思ってんのよ……)



ユキは寝袋の頭の紐をギュッと絞り、耳を塞ぐようにして目を閉じた。





昼過ぎ。コーヒーを淹れているミチルの背中に、ユキが問いかけた。「ていうかさ。二人、いつも一緒に寝てるんだね」ハルカが早朝に仕事へ出た後、残された二人の部屋。ミチルは振り返りもせず、マグカップにお湯を注ぎながら答えた。



「あー、はい。うち狭いんで、ベッド一つしか入らなくて」



「ふーん……。仲いいよね、二人って。学生からの友達なの?」



「あ、まあ、そういうわけじゃないんだけど……」ミチルの答えは曖昧に濁され、それ以上の言葉は続かなかった。ユキも深くは追求せず、「ま、いいけどね」と大きくあくびをした。



「でさ、ミチルちゃん、今日の昼もまた放送やりたいんだけど。お昼ご飯枠、あれ、昨日、好評でコミュメンバー増えたんだ。いい?」



「ええ、いいですよ。冷蔵庫、何残ってたかな」振り返ったミチルの顔は、昨日と何も変わらない、穏やかなものだった。



◼️ エア彼氏



お昼の配信と食事が終わり、ミチルが本格的に午後のリモートワークに入る。ユキは仕事の邪魔にならないよう、「私、奥の部屋でゴロゴロしてるね」と早々に寝室へ避難した。ドアを閉め、部屋の中を見回して、ユキは思わず呆れ声を出した。



「嘘でしょ……」



部屋の大部分を占領しているのは、どう見ても『シングルサイズ』のベッドだった。いくら細身の女二人とはいえ、これで毎晩一緒に寝ているなんて窮屈すぎる。



(どんだけ仲いいのよ……)



感心するやら呆れるやらで、ユキはベッドの端に腰を下ろした。とはいえ、他人の寝室にずっと居座るのも落ち着かない。ミチルが仕事中では配信をして騒ぐわけにもいかず、手持ち無沙汰だ。



(これからどうしようかな……)



もしこのまま本当に離婚となれば、実家に出戻ることになるかもしれない。それなら今のうちに、親戚の叔父が経営するホテル——ハルカの職場でもある——へ顔を出して、あらかじめ挨拶でもしておこうか。ユキはそう考え、立ち上がった。



リビングに戻り外出の準備をしていると、パソコンに向かっていたミチルが顔を上げた。



「ユキさん、出かけるんですか? 私も夕方から少し出社しなきゃいけないので、これ」



ミチルは引き出しから合い鍵を取り出し、ユキに手渡した。





都内にある叔父のホテルに着き、支配人室へ顔を出す。いざ事情を説明して「出戻るかもしれない」と切り出そうとしたが、バタバと忙しそうにしていた叔父は、ユキの顔を見るなり「おっ、遅いお年玉でも取っとけ」と、有無を言わさずポチ袋を握らせてきた。



結局、まともに話をする隙もないままホクホク顔でロビーに戻ると、フロントで見知った顔のお局社員に呼び止められた。「あら、ユキちゃんじゃない。久しぶりねえ」



「ご無沙汰してますー。いつもハルカがお世話になってます。あれ、今日ハルカは……」ぐるりとロビーを見渡すユキに、お局社員は背後のホワイトボードに目をやった。



「ハルカちゃんね、今は出かけちゃってるわね。ええと……『荒井注ツアー』だから、旅行代理店で打ち合わせね」



「あ、荒井注ツアーさん……じゃあ今日はもう直帰かな……」



「そういえば、ハルカちゃん、最近綺麗になったわよね。この前の週末も、彼氏と温泉旅行に行ってきたんでしょ? お土産にもらったお菓子、美味しかったわあ」



「……へ? 温泉? 彼氏と?」



ユキは思わず間抜けな声を漏らした。ハルカに男の影なんて微塵もない。というか、毎晩ミチルとあのシングルベッドでくっついて寝ているのに、いつの間に彼氏なんて作ったのだろうか。



——いや、待てよ。



(ははーん。さてはハルカのやつ、職場で浮かないように『エア彼氏』作って見栄張ってんな?)



そう推測したユキは、一人で面白おかしく納得し、「あはは、そうみたいですねー」と適当に話を合わせてホテルを後にした。





夜。ユキが合い鍵を使って帰宅すると、ちょうどハルカも仕事から帰ってきたところだった。ミチルはまだ会社から戻っていないらしく、部屋には姉妹二人だけとなった。冷蔵庫にあったミチルの作り置きのおかずを温め、二人で向かい合って遅めの夕食をとる。



「そういえばさ」ユキは箸をつつきながら、ニヤニヤと笑いかけた。



「あんた、週末に温泉行ったんだって?」



もぐもぐと卵焼きを咀嚼していたハルカが、ピタッと動きを止めた。「……なんで知ってるの? お姉ちゃんに話したっけ?」



「ふふん。私の情報網をなめてもらっては困るわね」



「あー……今日、会社行ったのね」ドヤ顔の姉を見て、ハルカはあっさりと察してため息をついた。ユキはテーブルから身を乗り出す。



「そうそう。でさ、彼氏って何? あんたいつ彼氏なんてできたのよ。あのお局さんに見栄張って、エア彼氏でもでっち上げた?」



「見栄なんか張ってないよ。おじさんがお見合いしろとかうるさいから、適当に彼氏がいるってことにしてるだけ」ハルカは少しも動揺せず、さも当然のように言い放った。ユキは呆れて肩をすくめる。



「ハルカもさ、もういい歳なんだから、彼氏のひとりくらい作んないの? 職場で嘘ついて見栄張るくらいなら、合コンでも行けばいいのに」



「男とかマジ面倒くさいし。いやいや、無理無理無理。私はミチルがいればそれでいいの」



「あの子にだって将来があるんだし、一生このままってわけにはいかないよ。いつかミチルちゃんに彼氏ができたら、どうすんの?」



ハルカはカチャリと箸を置き、真っ直ぐにユキの目を見た。その瞳には、一切の迷いがなかった。



「そんなことないもん。ミチルとは、ずっと一緒だもん」



「はいはい、ごちそうさま。一生親友宣言ね。ま、せいぜいミチルちゃんに愛想尽かされないようにねー」ユキが笑って流すと、ハルカはそれ以上何も言わず、ただ不満げに視線を逸らした。



◼️てぇてぇ



日曜日の昼下がり。前夜のキャバクラの酒が少し残っているハルカが、気怠げにリビングへ起きてくると、ダイニングテーブルにはすでにミチルが作った三人分の昼食が並んでいた。ハルカがあくびをしながら椅子に座ろうとした、その時。向かいの席で、ユキが当然のような顔をして、三脚に固定したスマホを食卓に向けてセッティングし始めた。



「……え、何してんの?」


「ん? 放送だけど」



ユキはスマホの画面をタップしながら、あっけらかんと答えた。「いつもやってるんだよ、お昼ご飯枠。ハルカも出てくれちゃう? 私、これで稼ぐつもりなんだよねー」



「これで稼ぐって……。ていうか、何するの? 私、そういうのやったことないんだけど」



「何もしなくていいよ。普通にご飯食べて、普通にしてれば。そういう日常の垂れ流し放送だから」



ハルカは少し胡乱な目でスマホのレンズを見た。ミチルは横で「ふふっ」と笑いながら、ハルカの前に麦茶の入ったグラスを置く。



「別にいいけど……それ、顔出ちゃうの?」



「そりゃ出ちゃうよ」



「それはちょっとどうかな……。キャバのお客さんとかに見られたら面倒だし。なんか、顔が隠れる処理とかしてくんないの?」



「処理? スタンプで顔隠すとか? んー、設定でできるみたいだけど……私やったことないからなあ。途中で外れちゃったり、失敗しちゃうとマズイよね」



ユキが頼りない声でスマホをいじり始めると、ハルカは「あ、じゃあちょっと待って」と立ち上がり、奥の寝室へ引っ込んだ。



数秒後、リビングに戻ってきたハルカの顔を見て、ユキは吹き出しそうになるのを堪えた。ハルカは、顔の半分が隠れるような、やたらと大きな黒いサングラスを装着していた。すっぴんと寝起きのボサボサ髪に、ハイブランドのデカいサングラス。完全に不審者だが、本人は至って真面目な顔で元の席にドカッと座った。



「これでいいでしょ」



「……うん、まあ、顔はわかんないね」



「じゃあ、いただきます」かくして、三十歳の家出妻と、穏やかに微笑む同居人と、室内でデカいサングラスをかけた二日酔いの女という、ひどくシュールな絵面の「お昼ご飯垂れ流し放送」がスタートした。



ハルカはカメラの存在などすぐに忘れ、サングラスのまま「……頭痛い。ミチル、お水取って」と甘えた声を出す。ミチルは「はいはい」と慣れた手つきでグラスを渡し、ハルカはミチルの方へ身体を傾けて、当然のようにその肩に寄りかかりながらご飯を食べ始めた。




「えーと、『グラサン女の距離感バグってて草』『うしろの二人、絶対付き合ってるでしょw』『嫁の世話焼きスキル高すぎ』……だって。あはは、あんたたち夫婦みたいに見られてるよ」



その言葉に、ハルカの身体がビクッと強張った。ハルカは弾かれたようにミチルの肩から頭を離し、バンッと音を立てて箸を置いた。



「……は? 違うから。そんなんじゃないし」



低い声で呟くやいなや、ハルカはテーブル越しに手を伸ばし、三脚に固定されていたユキのスマホを乱暴に掴んで、画面をテーブルに伏せた。



「ちょっと、何すんの!?」


「もう、こんなのやめて。何これ」


「って……ただコメント読んだだけじゃん」



ユキは呆れたようにスマホを拾い上げ、配信のミュートボタンを押した。



「あんたさぁ、なんでそんな気にしてんの? ネットのお約束じゃん、こんなの。かわいい女の子が二人で仲良くしてたら、あいつらすぐ『百合だ』『付き合ってる』って騒ぐんだって。ただの冗談を真に受けてどうすんの」



「真に受けてなんかない。……変な勘違いされるのが嫌なだけ。だいたい私、彼氏いるし」



「はいはい、エア彼氏ね」



ユキがため息まじりに笑い飛ばすと、ハルカはそれ以上反論できず、デカいサングラスの奥で唇をギュッと噛み締めた。





だが、その昼の出来事を境に、狭い1LDKの空気は明らかに変わってしまった。ハルカは明らかにミチルを意識し始め、あからさまに距離を置くようになった。



リビングのソファに座る時も、以前なら無意識にくっついていたはずが、今はわざわざ間にクッションを一つ挟んで座っている。



夕方。ミチルが「ハルカ、コーヒー淹れましたよ」と、いつものようにマグカップを持ってハルカの隣に腰を下ろそうとした時のことだった。



「あ、うん……ごめん、ちょっと、近いよ」



ハルカがビクッと肩をすくめ、サッと身を引いた。あからさまな拒絶の態度に、ミチルは動きを止め、「……え?」と傷ついたように目を伏せた。宙に浮いたマグカップを持つ手が、微かに震えている。



見かねたユキが、口に含んでいたコーヒーを飲み込んで呆れ声を出す。「あんたさ、まだ昼間のコメント気にしてんの? 意識しすぎだって」



「別に気にしてない! ただ狭いなって思っただけ!」



痛いところを突かれたハルカは声を荒らげ、マグカップを受け取ることもなく、逃げるように立ち上がった。



「……もう寝る。明日も早いし」


「ちょっ、まだ夕方じゃん」



ユキの制止も聞かず、ハルカは足早に奥の寝室へ入り、ピシャリとドアを閉めてしまった。残されたリビングで、ミチルはハルカの分だったコーヒーを両手で包み込むように持ちながら、ただ黙って俯いていた。



日がすっかり落ちても、1LDKの部屋には重苦しい、息の詰まるような沈黙が張り付いていた。ミチルはキッチンの片付けを無言でこなし、ユキは居心地悪そうにソファでスマホの画面を意味もなくスクロールしている。奥の寝室からは、物音ひとつ聞こえてこない。



夜の八時を回った頃だった。ガチャッ、と突然寝室のドアが開いた。上着を羽織り、肩にカバンを引っ掛けたハルカが、足早にリビングを横切って玄関へ向かった。ユキにも、ミチルにも、一切目を合わせようとしない。



「……ハルカ?」ミチルが弾かれたように振り返る。しかしハルカは無言のまま、逃げるように靴を突っかけ、バタンと大きな音を立ててドアを閉めてしまった。



「待っ——」ミチルが慌てて玄関へ駆け出そうとした瞬間、横からユキがその腕をガシッと掴んだ。



「ミチルちゃん、ちょっと待って」


「でも、ハルカが……!」



「あんたはここで待ってて。私が行くから」ユキの真剣な、姉としての強い眼差しに、ミチルは一瞬息を呑んで立ち止まった。その隙に、ユキはサンダルを突っかけて外へ飛び出していった。バタン、と再びドアが閉まる。



後に残されたのは、完全な静寂だった。ミチルは薄暗い玄関の土間に立ったまま、まるで頭の中を大きな鐘でカーンと殴られたような、ひどい耳鳴りを感じていた。



ハルカが、自分に一瞥もくれずに出て行った。あんなに拒絶されたのは、同居を始めてから一度もなかった。ミチルは自分の腕をギュッと抱きしめ、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。





数十分後。



ガチャリと鍵が開く音がして、ミチルはハッと顔を上げた。しかし、ゆっくりとドアを開けて入ってきたのは、息を切らしたユキただ一人だった。



「ユキさん……ハルカは?」



すがるようなミチルの声に、ユキはひどく申し訳なさそうに顔を歪め、首を横に振った。



「……ごめん。大通りでタクシー捕まえられちゃって。なんか、今日はどうしても実家に帰るって。聞かなかった」



「実家……」



「うん。……ちょっと、頭冷やしたいのかもね」ユキのその言葉が引き金だった。

ミチルの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。必死に声を殺そうと両手で口元を覆うが、嗚咽は止められなかった。



ミチルは耐えきれなくなったように背を向け、フラフラとした足取りで、つい先ほどまでハルカが閉じこもっていた奥の寝室へと逃げ込んだ。



薄いドアの向こうから、押し殺したようなミチルの泣き声が漏れ聞こえてくる。リビングに取り残されたユキは、カバンを床に落とし、ソファにドサリと座り込んだ。



(私が……面白半分で、あんな配信なんかしたからだ)



罪悪感が、鉛のように胃の腑を重くする。泣いているミチルに声をかけなければ。そう思うのに、自分の無神経さが招いた事態の重さに足がすくみ、ユキはただ薄暗いリビングで、呆然と天井を見上げることしかできなかった。



◼️ ストロングゼロ



ハルカが出て行ってから二日目の夜。主を失った1LDKは、耳鳴りがするほど静かだった。ミチルは抜け殻のようにソファにうずくまり、ユキはそんな彼女を見るに耐えかねて、近所のコンビニで買ってきた「ストロングゼロ」のロング缶をテーブルにドンッと置いた。



「ミチルちゃん、飲も。今日はもう、パーッと飲んで忘れよ」



普段はお酒をあまり飲まないミチルだったが、この時ばかりは無言で缶を受け取り、プシュッと小気味良い音を立てた。アルコール度数9パーセントの暴力的な酔いは、二人の理性をいとも簡単に溶かしていった。



「ごめんねぇ……全部、私が余計なことしたからだぁ……」



「違いますよぉ……私が、ハルカに甘えすぎてたから、愛想尽かされたんですぅ……」



三缶目が空く頃には、二人はラグの上にへたり込み、完全に出来上がっていた。ユキは涙とアルコールでぐちゃぐちゃになった顔で、ミチルの肩を抱き寄せる。ミチルも抵抗するどころか、すがるようにユキの胸元に顔を埋めた。



「ユキさん……私、一人になるの、嫌です……ハルカがいないと、ダメなのに……」



「大丈夫だよぉ、ミチルちゃんは私が守るからぁ。あんなDV男のところなんか絶対帰んないし、ずっと一緒にいるからぁ……」



慰めているうちに、ユキは腕の中のミチルの体温と、甘い石鹸の匂いにクラクラとしてきた。ミチルが、とろんと潤んだ上目遣いでユキを見上げる。その頬はアルコールでほんのりと桜色に染まっていた。



「……ユキさん」


「んん……?」



「今日……一人で寝るの、嫌です……。一緒に、寝て……?」ミチルの細い腕が、ユキの首に回される。ユキはドクンと心臓を跳ねさせながら、ミチルの熱い吐息を顔のすぐ近くに感じて——。





——チュン、チュンチュン……。



カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日に、ユキは「うっ……」と呻きながら目を覚ました。ガンガンと割れるような頭痛。そして、腕の中にすっぽりと収まっている、温かくて柔らかい質量。



「……えっ」



状況を理解するより先に、ユキは息を呑んだ。奥の寝室、ハルカとミチルのあの狭いシングルベッドの上。ユキの腕の中には、ユキの大きめのスウェット(寝間着代わり)をダボッと着たミチルが、ユキの胸元に顔を埋めるようにしてスヤスヤと眠っていた。



部屋には、昨夜のストロングゼロの甘ったるい匂いと、ミチルの香りが混ざり合って、なんとも言えない生々しい空気を醸し出している。



(……やばっ。私、昨日……!?)



ユキがパニックになりかけたその時、腕の中のミチルが「んん……」と身じろぎをして、ゆっくりと目を開けた。そして、目の前にいるユキの顔を見て、ふにゃりと無防備な笑顔を向けたのだ。



「……おはようございます、ユキさん。昨日は……えへへ、たくさん慰めてくれて、ありがとうございました」



「あ、うん……おはよ……」



(……泣き疲れて一緒に寝落ちしただけだ)ユキは内心で盛大に安堵の息を吐き出したが、ミチルがユキの腕の中で、猫のようにすりすりと甘えるように身を寄せてくるのを見て、再び心臓が跳ねた。



「あの……ユキさん」


「な、なに?」



「ユキさん、ハルカと同じ匂いがします。……あったかい」ミチルはそう言うと、ユキの腰にギュッと腕を回し、再び目を閉じた。ハルカの定位置を完全に奪ってしまったことへの罪悪感と、腕の中のミチルのあまりの可愛さに、ユキは「これはこれで……アリかもしれない」と、三十路の女として絶対に踏み越えてはいけない一線を、心の中で少しだけ反復横跳びしていた。





昼前。



二日酔いと寝不足の頭を抱えながら、ユキはリビングのソファで深くため息をついた。



(……迎えに、行かなきゃ)



ハルカが実家に逃げ帰ってから、もう丸一日以上が経っている。原因を作ったのは自分だし、何よりあの狭いベッドはハルカの場所だ。早く実家に行って、ハルカを連れ戻さなければ。頭ではそうわかっているのに、なぜか身体が動かない。



キッチンで自分のために温かい味噌汁を作ってくれているミチルの背中を見ていると、この甘くて心地よい空間を手放したくないという、どす黒い怠惰がユキの足を重くしていた。



お昼時。ユキはいつものようにスマホを三脚にセットし、お昼ご飯の配信を始めた。昨夜の酒が抜けていないミチルは、ユキの大きめのスウェットを借りたまま、隣にちょこんと座ってオムライスを突いている。



「今日は妹がいないんで、二人でーす」



ユキが画面に向かって手を振ると、すぐにコメント欄が滝のように流れ始めた。しかし、その内容はユキの予想とは少し違っていた。



『え、今日の主とルームメイトちゃんの雰囲気、なんかエロくない?』



『ルームメイトちゃん、彼シャツならぬ姉シャツ?w』



『ていうかこの二人の方が夫婦感ある。てぇてぇ……』



画面の端で、ミチルがビクッと肩を揺らしたのがわかった。ハルカがキレた『てぇてぇ』という言葉。だが、ユキはあっけらかんと笑い飛ばした。



「あはは、ほんとネットの奴らって誰にでも『てぇてぇ』とか言うよねー。ミチルちゃん、気にしなくていいからね。アイツら、女の子が二人並んでたらとりあえずそう言う生き物だから。ハルカも気にしすぎなんだよ」



ユキが明るく言うと、ミチルもホッとしたように「……ふふ、そうですね」と、ユキの肩にそっと寄りかかって微笑んだ。そのあまりにも自然な密着具合に、コメント欄はさらに加速したが、ユキはそれをただの「ネットのお約束」として心地よく消費していた。





そして、夜。夕食と入浴を済ませたユキは、いつものようにリビングのソファへ向かい、押し入れからマミー型の寝袋を引っ張り出した。ジッパーを下ろし、さあ寝ようとしたその時。



「……ユキさん」



奥の寝室のドアの前に、ミチルが立っていた。お風呂上がりの少し上気した頬。少しだけ濡れた髪。そして、昨夜よりもはっきりと、捨てられた子犬のような寂しそうな瞳で、ユキを見つめている。



「どうして、そこで寝るんですか?」



「え? いや、だって……さすがにハルカのベッドをずっと占領するわけには……」



ユキが苦笑いしながら誤魔化そうとすると、ミチルはギュッと唇を噛み締めた。



「昨日の……あれは、嘘だったんですか?」



「えっ?」



「ずっと一緒にいるって……私が守るからって、言ってくれたのに……」



ポロリと、ミチルの大きな瞳から涙がこぼれ落ちた。



「私を一人にしないで……」



その細く震える声に、ユキの胸の奥で、何かが決定的に音を立てて崩れ落ちた。理性では「これ以上はアウトだ」と警鐘が鳴っているのに、ユキは放り出した寝袋に背を向け、吸い寄せられるようにミチルの元へ歩み寄ってしまった。



「……嘘じゃないよ。ごめんね」



ユキがそっとミチルの肩を抱くと、ミチルはユキの胸に顔を埋め、ギュッとその背中に腕を回した。



◼️無言の修羅場



——チュン、チュンチュン。



翌朝。

 


カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日に、ユキはゆっくりと目を覚ました。アルコールは一切入っていない。完全にシラフだ。にもかかわらず、ユキはあの狭いシングルベッドの上で、ミチルと手足を絡ませるようにして深く抱き合って眠っていた。



シラフで、一晩中。ユキの腕の中で、ミチルが「ん……」と寝返りを打ち、ユキの首筋に顔をすり寄せて、再び安心しきった寝息を立て始める。ハルカの居場所は、もう、この1LDKのどこにも残されていなかった。




ハルカからミチルのスマホにLINEが入ったのは、木曜の夕方のことだった。



『明日、荷物まとめに行く。鍵も返すから』



それは、ハルカなりの「試し行動」だった。私がいないと何もできないミチルのことだ。きっと泣きながら電話をかけてきて、「行かないで、私が悪かったから帰ってきて」とすがるに違いない。



そうしたら、優しく許してやろう。ハルカは実家のベッドで、そんな甘い予想図を描いていた。すぐにミチルから着信があった。ハルカは少しだけ間を置いて、冷たい声を作って電話に出た。



「……なに」


『ハルカ。LINE、見たよ』



「うん。だから、明日行くから。全部持ってく」さあ、泣いてすがりついてこい。ハルカが息を潜めて待っていると、電話の向こうから聞こえてきたのは、ひどく落ち着いた、凪いだような声だった。



『……うん。わかった。待ってるね』



プツン、と通話が切れる。ハルカはスマホを耳に当てたまま、数秒間、意味が理解できずに瞬きを繰り返した。(わかった? 今、わかったって言った?)





翌日の昼。ハルカが1LDKのドアを開けると、そこには、信じられない光景が広がっていた。リビングのソファに、ユキとミチルが並んで座っていた。



二人は、ハルカが部屋に入ってきても立ち上がろうともしない。ただ、ソファの上でしっかりと指を絡め合わせて手を繋いだまま、無言でハルカを見つめていた。



「…………」



ミチルは、もうハルカに向かって「おかえり」とは言わなかった。ユキも、気まずそうな顔ひとつせず、ただ静かにハルカの動向を目で追っているだけだった。その光景が意味するものを、ハルカは一瞬で理解した。



この部屋にはもう、私の居場所は1ミリも残されていない。たった数日の間に、ミチルは自分という依存先を、実の姉へと完全にすげ替えてしまったのだ。



ハルカは声も出せず、震える手で段ボールを組み立て、自分の服や化粧品を無言で詰め込み始めた。ガムテープを引きちぎる嫌な音だけが、部屋に響く。



その間も、ユキとミチルは繋いだ手を離すことなく、まるで「他人が引っ越し作業をしているのを眺める」ような無機質な瞳で、ただ呆然とハルカを見つめ続けていた。



荷物をまとめ終え、ハルカはカウンターキッチンに合鍵をコトリと置いた。



「……じゃあ」



「うん」ミチルは短く頷いた。それだけだった。ハルカは逃げるように玄関を飛び出した。エレベーターを待ちきれず、階段を駆け下りる。大通りに出た瞬間、ハルカの目から大粒の涙がボロボロと溢れ出した。



(なんで。なんで追いかけてこないの。なんで、どうして……)



初夏の眩しい日差しの中、ハルカは重いキャリーケースを引きずりながら、誰にも振り返られることなく、トボトボと歩き去っていった。



◼️招かれざる客(2)



——それから、一ヶ月後。ハルカの私物が消え、完全に「ユキとミチルの城」として完成しつつあった1LDKに、夜の十一時を回った頃、連続してインターホンが鳴り響いた。リビングのソファでユキとくつろいでいたミチルが、小さく首を傾げる。



「こんな時間に誰だろう」



ミチルが玄関へ向かい、チェーン越しにドアを開けた瞬間、ドカッと大きなキャリーケースがねじ込まれた。



「あ、ミチル、悪いんだけど、今夜泊めて」



そこに立っていたのは、目を真っ赤に腫らしたミチルの姉、サヤカだった。左手の薬指には、見慣れたはずのリングがない。騒ぎを聞きつけて奥から出てきたユキが、目を丸くした。



「ミチルちゃん、誰?」



「……うちの姉。サヤカ」



ひとしきりソファで泣きながら旦那の不満を吐き出したサヤカは、出された麦茶を飲み干すと、「で、私どこで寝ればいい? 狭いし、こっちで一人で寝るわ」と堂々と言い放った。



「あ」と、ユキは何かを思い出したように押し入れへと向かった。そして、かつて自分がミノムシのようにくるまっていた、あのマミー型の寝袋を抱えて戻ってきた。



「これ、キャンプの時に買った寝袋です。これなら、ソファの上でも寒くないですよ」



「うわ、ユキちゃん天才! ありがとー!」かくして、新たな家出妻は、妹と同居人が密着して座るお洒落なリビングで、寝袋にすっぽりと収まることになった。



奥のシングルベッドからは、今夜もガサゴソと甘い衣擦れの音が聞こえてくるだろう。そして数日後には、この部屋の「持ち主」が、また少しだけ入れ替わるのかもしれない。この1LDKの部屋だけが、すべてを知っているように静かに佇んでいた。



(終)

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