【 婚約破棄で聖女契約が切れました。——結界維持が停止したので、この国は“5分後に”滅びます 】
王宮の大広間は、祝祭の光で満ちていた。
金糸のカーテン、宝石を散らした天井画、奏楽隊の甘い旋律。貴族たちの笑い声が、酒の香りに溶けて揺れている。
その中央で、私はひとつ、膝を折った。
「聖女セラフィナ。貴様との婚約を、ここに破棄する!」
第一王子アルベルトの声が、楽音を真っ二つに裂いた。
視線が一斉に集まり、空気が固まる。
息を呑む者。笑いを堪える者。期待で口角を吊り上げる者。
「理由は明白だ。お前は無能。聖女としての魔力が低すぎる。国家の象徴を名乗る資格はない」
アルベルトは、私の隣に立つ少女の肩を誇らしげに抱いた。
淡い桃色の髪、露を含んだ瞳。白銀の衣装は、光そのものを纏っているみたいに眩しい。
彼女――リュミナは、何も言わずに微笑むだけで、勝者の席に収まっていた。
「このリュミナこそ、真の聖女だ。測定値が証明している。魔力量も、祝福適性も、お前の十倍だ」
貴族たちがざわめいた。
「十倍だってさ」
「やっぱり数字は嘘をつかない」
「無能聖女、終わったわね」
リュミナは小さく笑って、私を見下ろした。
その笑顔には、余裕しかない。
私は、ゆっくり顔を上げる。
アルベルトの目は、勝利の熱で濁っていた。
「……本当に、よろしいのですね」
口から出た声は、自分でも驚くほど静かだった。
「当然だ。今この場で、お前の役目は終わる」
アルベルトは、恩赦でも与えるように手を振る。
「王宮から去れ。いや、国から消えろ。お前のような偽物など――」
その瞬間。
大広間の魔法灯が、ひとつ、ふっと消えた。
ぱちり。
糸の切れるような音。壁際の燭台が暗転する。
続いて天井の宝石灯が、波のように揺れ、光量が目に見えて落ちた。
「……何だ?」
苛立ち混じりの声。
次に死んだのは、王子の指輪だった。
金細工の嵌め輪が、急に色を失う。表面に細かなひびが走り、宝石が濁って光を返さない。
「おい、これは……」
アルベルトが指輪を見つめたまま、硬直する。
そして、第三の音。
城全体を貫く、低い警鐘が鳴り響いた。
ゴォォォォ――。
それは“外敵侵入”ではない。
王都の根幹を支える、結界管理装置の異常警告だ。
ざわめきが、悲鳴へ変わる。
「結界警報!?」
「あり得ない、結界は常時稼働しているはず――」
「今夜は儀式日でもないのに!」
私は立ち上がり、膝についた埃を払った。
ドレスの裾が床の光を拾う――けれど、その光が、今この瞬間にも弱っていくのがわかる。
「……セラフィナ!」
アルベルトが叫ぶ。
「何をした!」
私は首を傾げた。
「何もしていませんが」
嘘ではない。
私はただ、扉を閉めただけだ。
「ただ……契約を解除しました」
言い終える前に、床が震えた。
魔法で補強された石床が、ほんの僅かきしむ。シャンデリアの魔力循環が乱れ、光が不規則に瞬いた。
「契約……?」
誰かが、声にならない声で呟く。
私はゆっくりと、アルベルトへ視線を向ける。
「王家と聖女の契約は、“婚約”を鍵にして結ばれています。婚約者である私が供給する魔力は、結界炉へ流れ続ける」
短く。必要な分だけ。
今、この場に残された猶予は長くない。
「だから、あなたが婚約破棄を宣言した時点で――鍵が外れた」
アルベルトの顔から血の気が引く。
「馬鹿な……! 結界の維持は国の義務だ! 聖女はそれに従う――」
「従う契約は、あなたが切りました」
私は微笑む。怒りでも涙でもない。事実を置くだけの表情。
「おめでとうございます。自由です」
「……リュミナ!」
アルベルトが隣の少女に縋りつくように叫んだ。
「お前が新しい聖女だろう! やれ! 今すぐ結界を維持しろ!」
リュミナは胸に手を当て、得意げに頷く。
「もちろんです、アルベルト様。数値が証明していますもの」
彼女は杖を掲げ、詠唱を始めた。
眩い光が生まれ――
次の瞬間、まるで“支え”を失った糸屑みたいに、霧となって散った。
「……え?」
リュミナの瞳が、まん丸に開いた。
さっきまで余裕で細められていたその目が、初めて“怯え”を映す。
「……い、いまの……?」
彼女は笑おうとして、唇だけがひきつった。
杖を握る指先に、力が入る。白い手袋が、きしむほどに。
「……もう一度ですわ」
自分に言い聞かせるように呟き、リュミナは杖を高く掲げた。
祝祭の光に溶けていた彼女の魔力が、今度は露骨な圧となって大広間を押し潰す。
「聖なる光よ――!」
詠唱が、空気を裂く。
光が生まれた。眩い。熱い。眩惑するほどに――
だが。
光は“飛ばない”。
結界炉へ向かうはずの流れが、途中でぷつりと断ち切られ、
まるで行き場を失った水が霧散するように、散った。
ぱら、ぱら、ぱら。
落ちてくるのは光の粒だけ。
誰の役にも立たない、舞台装置みたいな輝きだけ。
「……っ」
リュミナが息を呑む。
「おかしい……。こんなはず――」
二度目。
彼女は肩を震わせ、言葉を噛む勢いで詠唱を重ねた。
光が生まれ――また散る。
三度目。
四度目。五度目。
回数を重ねるほど、光は派手になっていくのに、結果だけが同じだった。
結界炉へ繋がる“流路”が、何ひとつ開かない。
繋がらないのだ。
最初から――“そこに道がない”。
「なんで……! 私、魔力量は十倍なのに……!」
勝者の声が、幼い悲鳴に崩れ落ちる。
言葉の最後が震えて、空中で砕けた。
貴族たちが、椅子を蹴り、裾を踏み、後ずさる。
誰かが裏返った声で叫んだ。
「供給できない!?」
「適性が違う……!?」
「数字だけじゃ……!」
その瞬間、警鐘が“音”を変えた。
ひとつ下の階段へ落ちるような、濁った、重い響き。
――二次警報。
結界管理装置が、次の段階へ移った合図。
王都の外縁。
魔物避けの膜が薄くなる。
遠くで、獣の咆哮が響いた。
壁の外から届く、現実の音。
空気が震え、胸の骨が微かに鳴る。
誰もが理解する。“もう始まっている”と。
アルベルトが私に向かって歩み寄ろうとして――足を止めた。
彼の足元の床に刻まれた魔力紋が、ひと筋。
すっと、消えた。
まるで“王子”の足場だけが、世界から引き剥がされていくように。
権威の象徴が、目に見えて剥落する。
「セラフィナ……戻れ」
声が変わる。
命令の音色が崩れ、焦りが混じり、そして――懇願になる。
「今すぐ契約を戻せ。これは国の危機だ」
私は、ほんの少しだけ考える素振りを見せた。
彼の目に一瞬だけ、希望が灯る。
――だからこそ。
私は首を横に振った。
「無理です」
「なぜだ! お前は聖女だろう! 民を守る義務が――」
「義務は、契約に書いてありました」
私は一歩、距離を取る。
近づけば、また“道具”として握られる気がした。
「でも、その契約はあなたが破棄しました。民を守る義務も、あなたが私から剥ぎ取った」
アルベルトの喉が鳴る。
言い返す言葉を探して――見つからない音。
背後で、貴族たちが扉へ殺到する。
逃げ道があると信じた顔だ。
けれど、その扉もまた結界の一部に繋がっている。
王宮の紋章が、薄くなる。
守りが薄れるほど、この城はただの石に戻っていく。
「待て!」
アルベルトが叫ぶ。
「セラフィナ、これは命令だ! 戻って――」
その命令が届く前に。
大広間の正門が、重い音を立てて開いた。
――ぎい、と。
祝祭の音楽を踏み潰すように。
ひとりの男が入ってくる。
黒い外套。無駄のない足取り。
肩口に銀の徽章――隣国バルハイムの外交騎士団。
彼は混乱を一瞥し、迷いなく一直線に私の前へ来て、片膝をついた。
「セラフィナ殿」
声は静かで、冷たいほど整っている。
だが、その静けさが逆に“大人が状況を把握している”圧になる。
「バルハイム王より。聖女契約の解除を確認しました。こちらへ」
そして短く――刃のように続けた。
「当国は、あなたの“労働条件”を提示できます。安全も、待遇も。今この瞬間から」
貴族たちの顔が歪む。
「隣国が……!?」
「最初から待っていたのか……!」
アルベルトが青い顔で叫んだ。
「ふざけるな! セラフィナはこの国の――」
騎士は、視線だけで返す。
その目は、感情ではなく“書類”を見ている目だった。
「“この国の”とおっしゃいましたが、契約は切れております」
淡々とした事実が、王子の喉を刺す。
刺さるのは言葉ではない。
自分が宣言した“婚約破棄”そのものだ。
反論の余地がない。
さっき、自分で切ったのだから。
私は、騎士の差し出した手に、指先を置いた。
その瞬間、警鐘がもう一段、切迫した音へ跳ね上がった。
結界崩壊までの残り時間が、皮膚の内側を押してくる。
「セラフィナ! 頼む!」
アルベルトが叫ぶ。
「戻れ! 戻ってくれ! お前がいないと――!」
私は振り返り、最後に一度だけ彼を見た。
怒りはない。憐れみもない。
ただ、区切りだけ。
「私がいないと困る国なら」
私は静かに告げる。
「最初から、捨てなければよかったんです」
騎士に導かれ、大広間を出る。
背後で、シャンデリアが落ちる音がした。
金と硝子が砕ける音。遅れて上がる悲鳴。
王宮の光が、ひとつずつ消えていく。
外へ出た夜風は冷たく、空には結界の薄膜が揺らめいていた。
星がやけに鮮明だ。守りが弱まるほど、夜空は近くなる。
城門の外では、隣国の馬車が待っていた。
扉が開き、私は乗り込む。
遠くで、また咆哮が響く。
王都が、何かを失う音。
騎士が小さく言った。
「……後悔は?」
私は首を横に振る。
「後悔するのは、契約を切った側です」
馬車が動き出す。
背後の王都は、まだ灯りを保っている。
けれど警鐘の音が、もう祈りの代わりになっている。
最後に、私は窓の外へ向けて、ひとつだけ言葉を落とした。
「返してほしいなら」
そして、ほとんど微笑んで。
「まずは、私の人生を返してください」
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