第39話 定食屋の常連席、誰も座れない理由
駅前の定食屋「ひまわり食堂」は、どこか懐かしい匂いがする店だった。昭和の名残りを色濃く残した内装に、木の擦れる音。昼時にはサラリーマンと学生で賑わい、夜には一人飲みの客がちびちびと酒を煽る。
俺は週に三回、ここに通っている。唐揚げ定食か生姜焼き定食、時々カレー。変わらない味と、変わらない店員の笑顔が心地よかった。
だが一つだけ、変わらない“異物”があった。
角の席――入口から一番奥の、壁に面したL字カウンターの端だけ、いつも空いている。どんなに混んでいても、誰もそこに座らない。注文も運ばれず、片付けもされず、ただ湯のみと割り箸が整然と置かれていた。
都市伝説か? 幽霊? 見えない常連? 冗談のつもりで何度か聞いてみたが、店員たちは皆、笑ってごまかすか、視線を逸らした。
ある夜のことだった。 その日は珍しく客が多く、他の席はすべて埋まっていた。仕方なく、俺はその“角の席”に腰を下ろした。
「すみませ――」
声をかけようとした瞬間、店主が血相を変えて飛び込んできた。
「だ、駄目です! そ、そこは……“常連様”の席ですので!!」
常連様? 俺だって常連のつもりだったが、この様子は異常だ。なぜそこまで必死に止める? しかも、その席には誰もいない。
「でも、空いてたんですよ?」
そう言いかけた俺の視線が、あるものを捉えた。
テーブルの端に置かれた、小さなタブレット。 電源が入っている。何かの映像が流れていた。
画面には、真っ暗な部屋の中、机に座る男が映っていた。スーツ姿。顔は不鮮明なのに、目だけはやけに鋭い。
「……見えてるのか?」
男が、こちらを見て言った。
「ついに、見える者が現れたか……現実の壁を越える者が」
声が、タブレットのスピーカーからではなく、直接脳内に響いたような錯覚を覚えた。
「な、なんだこれ……冗談だろ?」
俺が呆然としていると、男は言った。
「ここは“狭間”だ。君はこの席に座ったことで、常連としての資格を得た」
「何の常連だよ……!」
「この世界と、向こう側の世界を繋ぐ観測者の席だ」
意味がわからない。だが次の瞬間、俺の目の前で、タブレットの映像が切り替わった。
見覚えのある光景。 それは、俺が昨日コンビニに立ち寄った映像だった。
俺は確かに、あのとき買った弁当の内容で迷っていた。そして……のり弁を選びかけてやめた。
「やめたな。君は、あの時、ほんの僅かな“選ばない未来”を見た。つまり、分岐点を通過した」
男が淡々と語る。
「この席は、分岐を観測する“特等席”だ。だが……その代償は小さくない」
その瞬間、湯のみがガタン、と揺れた。茶がこぼれる。
店内の空気が、急に冷たくなった。
「やがて、君も気づくだろう。この現実が“選ばれた結果”でしかないことを。だが気をつけろ、分岐を知りすぎると……現実に帰れなくなる」
店主が再び近づいてきて、無言でタブレットをタオルで隠した。
「……今日は特別に、見逃します。でも、もうあの席には、二度と座らないでください」
そう言った彼の手は、かすかに震えていた。
その日以来、「ひまわり食堂」には通っていない。 だが、夜になると、ふと視線を感じる。
角の方から。




