一日の終わり
雪那は、俺が晩飯を食べ終わる時間まで──念のため記しておくが、さっき頼んだペペロンチーノは昼飯だ──オムライスをお代わりし続け、ようやくスプーンを口に運ぶ手が止まった。
服を買い与えた時よりも散財することになるとは思わなかったが、腹を撫でながら言っていた「二百年分食べましたー」という言葉を信じたい。その遅れを取り戻しただけで、今後食べる量は一般的女子と同じくらいになると。
結局雪那は俺の家で一晩眠ることになった。
”唯”と会い、話をする約束が明日になったからだ。
中島の家は二人がいろいろと盛り上がって居場所がないだろうし、そこら辺のホテルに泊めるにしても俺の金が減る。クロネがいつ襲ってくるかもわからないので、監視体制が整っているうちで引き取ることに決まった。
「あ、そこの色が違うタイル踏むなよ。底が抜けるからな」
「全然ボロそうには見えないのにそんなことあります? 修理してもらったらいいじゃないですか……」
そんなに長くもない廊下を、雪那を連れて歩いていく。
そういや、この家に他の人間を呼んだのは初めてかもしれなかった。一応、定型文を言っておく。
「一人暮らしの男の部屋だからな。人をあげる予定もなかったから片付いてないかもしれん。いろいろと察してくれ」
「いえいえ、泊めていただくのにとんでもないです。ちょっと散らかっているくらいで文句は言いませんよ──」
雪那が大して広くもないワンルームを見回して呟く。
「普通に綺麗……というか、あんまり何もないですね」
最初に視線を引いたのはパソコンデスクだろう。6枚のモニターにはいろいろな場所の監視カメラ映像を映し出しており、それぞれで顔認証プログラムが忙しなく動いている。モニターに表示されている数倍の映像を処理しているのだが、その無茶を可能にしているパソコン本体は全く悲鳴を上げていない。
他には数日分の服をしまってあるだけのクローゼットと、ペラペラの布団がかかったパイプベッドくらいしか目立つものがない。
大きな窓を塞ぐ遮光カーテンは閉まりっぱなし。
あとは別室にトイレと風呂があるくらいの、いたって一般的なワンルームだ。
「そうですよね、食事があれだとキッチンはいらないですよね……」
何故か、雪那が肩を落としたように見える。
「悪いが寝床も二つはないからな。ほら、羽織ってるの寄越せ」
「あ。ありがとうございます」
雪那がジャケットを脱ぐと、ノースリーブの白い肌が露わになる。俺は吸い寄せられる視線をごまかしながら、雪那からスーツを受け取り、ハンガーに通してクローゼットにしまった。
「そういや、そろそろ聞いてもいいか? クロネのこと」
俺はカフェで聞き損ねた話をぶつけてみる。
「あ、はい。そういう約束でしたからね」
雪那はベッドに腰かけた。体重を受け止めたパイプがきしむ音。
「まず──クロネは、クローン人間です」
「クローン……なるほどな」
「……あ、あれ。この時代だと、あんまり驚くことでもない感じですかね」
雪那が思ったよりも薄い反応に肩透かしを食らっている。
だが正直驚きよりも、納得の感情が大きかった。
俺の記憶の中の黒服。その全てが同じ顔をしていたのも、そういう理由ならばうなずける。
「クローン技術自体はあるらしいが、人間のクローンを作り出すことは禁止されている。人道的に問題あるって話だし、そもそもクローン化の成功率が極端に低いようだからな」
「私の時代でもそんな感じです。羊とかはその頃からクローンが作られていたみたいですね。寿命が短かったり、病気になりやすかったりと課題はあったようですが」
考えてみれば、cloneを無理やりローマ字のように読むとクロネとなる。なんとも安易なネーミングセンスだ。
「加えて、彼女たちは長く生きることはできません。人間に限らず、クローンは極端に寿命が短いのです……生まれてから半月程度で、全てのクローンが命を終えます」
「半月か……」
「はい。ですが、彼女たちはあの頭にある機械で記憶や情報を共有しているんです。今までに死んでいったクロネの記憶を、今生きている全てのクロネが持っていることになります」
その言葉に、疑問が浮かんだ。
「……ただの記憶領域にしてはデカすぎないか? 指の先に乗るチップでコピー用紙何千枚の情報が保存できるんだぞ」
「いえ、機能はそれだけではないんです。他のクロネとの通信や、何者かからの命令を受け取る役割もそうですが……むしろ、本質はクロネの、人間としての機能を制限するためのものです」
「……どういうことだ?」
人間としての機能を制限。どう受け取ってもまともな話には思えない。
「例えば、クロネは怪我をしても痛みを感じているようには見えなかったでしょう? あれはそういうフリをしているのではなく、痛覚をあの機械によって遮断されているんです」
雪那は耳や肩を示す。クロネは耳を撃たれようとも脱臼しようとも何とも感じていない様子だった。痛覚が通っていないのならば、あのような無反応となることもありえるかもしれない。
「クロネの自由意思を衰弱させる効果もあるようです。このあたりは詳しくは知りませんが……たくさんのクロネたちが誰かの命令に従って動いていて、その誰かの傀儡のようになっているということです」
眉をひそめ、固く腕を組む。
「そんなことが可能なのか……それで、その誰かについては?」
「すみません、それは分かりません。二百年前に彼女たちを操っていた人物ならば知っているのですが、彼は流石に死んでいるでしょうから。この時代で同じことをしているのが誰なのかまでは……」
「いや、待て。そもそもなんでお前が狙われていて、お前はクロネのことを知っている? 200年前も、お前はクロネたちに狙われていたってことか?」
「……私はかつて、クロネを指揮する人物に捕まっていました。私が眠りから覚めてすぐにクロネが現れたので、今クロネを従えている誰かも同じ目的なのだと思ったのです」
「なるほどな……」
俯き足元を見つめる雪那の様子に、これ以上は聞けず、俺は黙り込んだ。
「……」
「……」
なんというか、気まずい。
さっきまでは、中島やエカテリーナが俺たちをいじって会話を回してくれていたのだということに、今更気づく。
「あの……私、お風呂いただいてきてもいいですか?」
重い空気に耐えかねたように、雪那が切り出してくる。
「あ、ああ。廊下を出て左の扉だ。お湯は赤いボタンを押せば出る。バスタオルはカラーボックスから好きに使ってくれ」
「ありがとうございます」
その姿が風呂場に消えていくのを確認して、俺は椅子に腰かけた。
気まずさが解消され、心に少しの余裕が生まれた。
気を取り直してモニターに向かい、マウスを握る。
画面には監視カメラから得た映像がいくつも並んでいる。ネット上で公開されている映像もあるが、殆どは公にはされていない企業の防犯用カメラをこっそり拝借している。
パターンさえ網羅してしまえば、このAI時代にセキュリティの穴を見つけ出すことは容易い。大抵の企業は防犯カメラ程度の情報を高レベルの防壁で守ったりはしていない。付け焼刃から始まった俺程度の技術でも出し抜くことが可能だ。
その映像に映った人間を、自作のプログラムが瞬時に顔認証していく。みるみるうちに、認証ウインドウには人々の顔画像が溜まっていくが──
ヒットなし。
「ま、いつも通りだな……」
このプログラムは一日中、365日動かし続けているが、俺の求める人物を見つけられたことはない。
デスク横に置いてある、小さな写真立てに視線が移る。
そこには、古く画質の悪い家族写真が一枚、飾られている。
何を考えるでもなく、俺はしばらくの間それを眺めていた。
「……そういえば、雪那に使った金を少しでも補填しなくちゃな」
多重起動していた映像ウィンドウをすべて閉じ、別ブラウザでタスク一覧を開く。昨日は受注欄にあった項目がいくつか確認欄に移動しているので、内容をヒューマンチェックしていく。
こんな時代でもデジタル化に対応できていない人口はある程度いるようで、AIに飲み込ませておけば自動で書き起こしや処理してくれるような事務仕事を、わざわざ人間に限定して依頼している奴らがいる。結局俺のような人間がAIを通して書類を完成させているのだから皮肉な話だ。
ウェブ上に落ちているそういう依頼を拾ってきてAIに任せておけば、意外と簡単に小銭は稼げる。
依頼数に対してハイエナしている連中は少なくないので、あまり効率がいいとは言えないが──とはいえ稼がなくても生きていける世界では、特に問題もない。少ない手間で稼げるとなればやらない理由もない。
とはいえ、雪那の食い扶持で所持金がごっそり減ったことには不安もある。
自動で吐き出された書類を適当に手直しして、メールに貼り付けて送信予約しておく。明日の昼頃には報酬が入っていることだろう。
「千野さーん? シャンプー終わったんですけど、コンディショナーどれです?」
「男の一人暮らしの部屋にそんなもんは存在しない」
風呂のほうから聞こえてくるエコーのかかった声に答えてやる。
「もー、そんなだから髪の毛くるくるになっちゃうんですよ……」
それきり、また水の流れる音だけが届くようになる。
俺もまた、今日届いたメールを確認する作業に戻った。
ほどなくして、雪那がTシャツ一枚の姿で出てきた。昼間に買ってやった背中に文字入りの白シャツだ。とは言っても男ものの中でも大きいサイズなので、肩は片方出てしまっているし、太ももも半分くらいが隠れていて、ほぼワンピースと変わらないように見える。
「お風呂、いただきましたー」
「ああ」
自分がそれなりに劣情を煽るような恰好をしていることも気に留めず、雪那は風呂に入る前と同じようにベッドにぽふんっと座った。Tシャツの丈より長い髪が揺れる。
「そういや、ドライヤーの音がしなかったが……」
雪那ほどの毛量ならば乾かすのにとんでもない時間がかかるだろうに、入浴込みで20分もせずに戻ってきたように思う。にも拘わらず、つやつやとしたその髪はまったく濡れている様子がなかった。
俺の疑問に雪那はにやりとした笑顔で答えた。
「そこはですね、裏技を使いました」
「裏技? 髪は洗ってないとか?」
「年頃の女の子になんてことを。コンディショナーの有無を聞いたじゃないですか……違います」
雪那は自分の髪の毛に手櫛を通していく。毛先に到達するまで引っかかる様子もない。 髪の毛の表面がしっかりとコーティングされている証拠だ。
「洗面所にあったバリカンをお借りしまして。洗って濡れた髪の毛は全部刈って、自己再生でもう一回生やしました。便利でしょ」
「生き返れるくらいすげぇ力をそんなことに使うなよ……」
「あ、刈った髪の毛は消滅するので、洗面所が散らかってはいませんからね。そもそも、女の子の髪の毛とはいえ、コンディショナーなしじゃこんなにツヤツヤに仕上がりませんよ。ヘアオイルも男物しかなかったですし」
「そりゃそうだ」
一人暮らしの男の部屋に、突然女が上がり込んでくるような想定はしていないわけで。
「てか、それなら風呂に入る必要すらなかったんじゃないか? 汚れた髪を刈ればきれいな髪が生えてくるわけだろ? 身体についた汚れだって勝手に落ちるんじゃないのか?」
「気分の問題なので……それより、千野さんも入ってきたらどうですか?」
「ああ、そうだな」
促され、俺はパソコンを休眠モードにして風呂場に向かった。
服を脱ぎ、シャワーを全開にしてバスチェアに腰かける。
水音だけが響いている。
湯に打たれていると、どうしても頭が回ってしまう。
今日あった自分の常識を超えすぎた出来事が、一つずつフラッシュバックする。
「いろいろありすぎだ、一日で……」
永久機関が崩壊したこと。
謎の力を持つ神薙雪那という少女。
トラウマを揺さぶる、クローン人間、クロネ。
そしてそのクロネは、家族の死や拉致された姉と関係があるかもしれない。
何かが動き出したのかもしれない、とは思う。これまで自分なりに姉の捜索を続けてきたが、何の手掛かりも得ることはできなかったのだから。
しかし。
ぬるいお湯が顎を伝って床に落ちていく。
同時に、とんでもないことに巻き込まれる予感もひしひしと感じる。自分の日常ではない世界に踏み込むことになる。
クロネやその上で命令を下している誰かに命を奪われてもおかしくないし、殺された上でその事実が知れ渡ることすらなく消えていくことになるかもしれない。
高揚と迷いが同時に襲い来る。
シャワーから流れ出る湯は一日の汚れを落としてくれるが、それらの不安までも流し去ってはくれない。
俺は自分の気持ちを決めきれぬまま、しばらくの間、頭から降り注ぐ湯の流れを感じていた。
突然、風呂のドアが開け放たれた。
「し、失礼しますっ──ひゃあ!?」
「お?」
背後で上擦った声。それに反して、ゆっくりと風呂場に入ってくる気配。
「ああああの、お背中流しに来ました……」
片目を開けて振り返ってみると、頬を染めてできるだけこちらを見ないようにしながらも、しっかりとスポンジを握っている雪那がいた。
こいつ……エカテリーナと初対面のときもそうだったが、自分の裸を見られることには抵抗がないくせに、ほかの人間が露出の高い恰好をしているのは直視できないらしい。
「お前の中の羞恥心はどうなってるんだ……?」
「だ、だって自分以外の裸なんて見る機会ありませんから……逆に千野さんは恥ずかしくないんですかっ」
「いや、普通に恥ずかしいが。お前が恥ずかしいなら無理して入ってくることないだろ」
「いえ! エカテリーナさんが、お世話になった方にはお返しすべきだと教えてくださったので、私にできることでお返ししようかと思って……」
「お前ら、そんな話してたのかよ」
なおも俺をまっすぐ見ることができない雪那。しかし出ていくつもりもないらしかった。
「本当はお料理でも、と思ったのですが、キッチンがなかったので……あ、もちろんご迷惑なら出ていきますので遠慮なく言ってくださいさあ!」
恥ずかしさでテンションがおかしなことになっている。
「はあ……」
俺はため息を吐き出し、観念して背中を向けてやった。
「ほら、やるなら早くしてくれ」
「は、はいっ。失礼しますっ」
華奢な手から飛び出すサイズのスポンジを取り、ボディソープを垂らして揉み込む。やがて、柔らかい泡と、スポンジが微かに当たる感触がした。
「もっと強くしていいぞ。逆にくすぐったい」
「わかりました……んしょっ」
心地よい強さでスポンジが背中を撫でていく。
人に背中を洗われるなど、いつ以来だろう。少なくとも、ここ数年は一人で生きてきたので、とても懐かしい感じがする。
「背中、おおきいですね……」
「まぁ、無駄に背がでかいからな」
「なんか言葉遊びみたいですね」
「そうかもな」
「……」
ぽたり。目の前で前髪から水滴が落ちる。
会話が途切れてしまった。
また気まずくなってしまったかと思い、慌てて何か話そうとしたが、違った。
雪那は次の言葉を選んではいたが、それを言い淀んでいただけだった。
「あの、私」
彼女の手が止まる。それは力のない声だったが、静かな浴室によく響いた。
「……明日になったら、出ていくつもりです」
「……何?」
思わぬ方向の言葉に、動揺が声に現れてしまった。
雪那は静かに続けた。
「クロネは私を狙っています。ご存じの通り殺すことはできませんから、動きを止めて捕らえるつもりだと思いますが……とにかく、私といたら危険です。いつ襲われるかわかりません」
「……」
「千野さんには助けていただいて感謝しています。だからこそ、これ以上私の問題に巻き込むことはできないです。今は、背中を流すくらいのことしかできませんが……いつか、いつか機会があったら、改めて一宿一飯の恩を返させていただきたいと思っています」
お前が食べたのは一飯と呼べる量ではない、と言える雰囲気でもない。
その声色は、微かに震えているのを隠そうとしているようだった。
「あのな」
俺は後ろを見ずに告げる。
「出ていったとしてどうするつもりだ? お前は一人じゃ飯も手に入れられないし、移動手段も寝る場所もない。それとも行くあてでもあるのか?」
「……ありませんが、しかし」
「お前を狙ってるクロネの相手は? 今日はたまたま一人だったが、クローン軍団が徒党を組んで襲ってきたらどうする? いくら格闘技術があっても、集団の相手は難しいだろ」
「そ、それは……ですが、これ以上迷惑をかけるわけには」
言葉を濁す雪那を、俺は無視して続ける。
「とにかく、お前の無事を確保するまでは協力してやる。一人じゃ何もできないって、本当はわかってるんだろ?」
俺は半身で振り返って、俯いている雪那の頭にポンっと手を載せた。
「俺にも事情がある。今のところは黙って協力されとけ。心配しなくても足引っ張ったりしねぇよ」
「……きゅっ」
「ん?」
返事がおかしい。
「雪那? 雪那さーん?」
反応がなくなった。
スポンジを握った手は空中で止まっている。
横から俯いた顔を覗き込んでみると、
「きゅー……」
雪那は固まったまま、顔を真っ赤にして目を回していた。
その視線の先にあったのは……
多分、俺の股間。タオルすらもかかっていない、丸裸の、生まれたままの。
「あー……」
俺は未だ水滴の落ちる頭をぽりぽりと掻き、ブルースクリーン状態になってしまった雪那をベッドに運ぶのだった。