プロローグ
しばらく鳴りを潜めていた持病が、強烈な頭痛とともに再発した。
それは、俺がまだお菓子ひとつで駄々をこねるような年齢の頃の記憶。
──詳しい経緯は覚えていない。
気付けば目の前で父と母が膝をつかされ、首を垂れる体制で縛られていた。
両親を囲うようにして立っている黒服たちの背中が、視界から二人の姿を覆い隠す。
「おとうさん……おかあさん……?」
黒服の中の一人が振り返り、そいつの拳が俺の側頭部に突き刺さった。
頭が熱い。頭痛がする。
それが殴られたせいなのか、それとも自分の頭がこの状況を理解できない拒絶反応だったのかはわからない。ただひたすらに頭が割れそうだった。
黒服の一人が、銀色のケースから試験管を取りだす。黒服はその中の透明な液体を、うなだれる両親の頭上から、料理に調味料でも使うかのように垂らした。
俺は見た。
人体が、早送りのアイスのように、どろりと溶けていくのを。
「──っ! ──っ!」
幼いなりに、両親に取り返しのつかないことが起きているのが分かった。声が出るままに何かを叫ぼうとしたのに、その口は背後にいる黒服の手に塞がれてしまって、不発に終わる。
黒服に祀り上げられた二人だけが、悲鳴を上げることを許された。
この手が口だけじゃなく、耳もふさいでくれたらよかったのに、と思った。
聞きたくない。
聞き馴染みのある二人の声が。
聞いたこともない絶叫が鼓膜に届いてしまう。
割れそうな頭に、ノイズのような声がガンガンと響く。
熱い。顔が、身体が。燃えているのかと思うほどに。
しかし、その声が鼓膜を震わせていたのも、わずかな間だった。
髪が溶け、頭皮が溶け、頭蓋骨が溶けて──むき出しになった脳すらも溶けだした頃、二人は人語を発することすらできなくなっていた。
もはやそれは、反応を繰り返すだけの、両親の形をした人形のようだった。
すぐそこまで上がってきた胃液が喉を焼く。
人形の溶解は頭だけに留まらない。
まるで、シリコン製の身体が火に炙られているように。
連鎖するように、首、そして身体へと溶解は続いていき──
──気づけば、そこに父と母がいた痕跡など、ひとつもなくなっていた。
全身が軋むような感覚。
涙が溜まってよく見えなくなった視界の中に、姉の姿を見つけた。
姉は俺と三つしか変わらない。
それでも、姉の表情は俺よりは幾分か落ち着いているように見えた。
姉に、助けてと叫びたかった。
しかし彼女も俺と同じように、黒服の一人に捕まっていた。
殺されるのだ。自分も、姉も。
両親と同じように、跡形もなくこの世から消されるのだ。
幼いなりに、俺は死を覚悟した。
姉が、目を真っ赤に腫らしながらも黒服に何かを叫ぶ。
その一声が何だったのか、俺にはわからない。
姉の言葉が発端となったのか、俺の腕と口に自由が戻った。
助かったのか。 許されたのか。
「ねえちゃん! ありが──」
ありがとう、と、そう言いたかった。
しかし、俺に自由を齎したその人は、なおも捕まったまま。
ただ、悲しげに微笑んでいた。
姉が、俺に向かって何かを言った、気がする。
耳鳴りがやかましい。
姉の声は俺の耳に届かない。
鼓膜は震えていたかもしれない。だがそこから先を何かが通行止めにしていた。
黒服がぞろぞろと去っていく。
姉を連れて。
それが、記憶の終わりだ。
父も母も姉も黒服も、誰もがいなくなり、その場には俺だけが残された。
俺の頭痛と吐き気は限界を迎え──気を失った。