初めての…
朝の冷え込んだ空気が残る湖で、アルシェは自然の持つ圧倒的佇まいに感銘を受けていた。人の身では決して抗えない……荘厳で恐ろしくも雄大な景色を心に刻み、感性を育んでいるところだった。
東西南北あらゆる装飾や美術品を献上され、超一流の絵画に慣れ親しだ彼女であってもこれは筆舌に尽くしがたい。むしろ人の手が付けられてないからこそ心揺さぶられるのだと理解する。
「ふふっ…帰ったときの楽しみがまた一つ増えました。皆にもこの感動を共有してあげないと」
その時の様子を思い浮かべ秘かに胸踊らせる。沢山心配をかけた後の償いは多いに越したこともないだろうと。しかしその前にやるべきことがある。これを果たせずには城へと帰れない。
「……ハァ」
呆然と佇む彼女を狙うものがいた。それは水中に身を潜め、アルシェが逃げられなくなる絶好のポジションまで波音たてずに移動する。
魔物の正体は〈湖王鮫〉
全長にして十メートルを越す巨体には鋭く光る鱗と、そして何者をも噛み千切る強靭な顎を兼ね備える。水中に限ればアトラスの魔境に棲息する魔獣でも屈指の実力を誇るだろう。だが湖の中だけの捕食だとすぐに獲物が尽きてしまう。そのため最近ではこうして浅瀬にくる陸の生き物にも牙を向けていた。
今回もその時が来るまで警戒心を持たせず静かに移動、そして目的の場所まで着いたところで一気に加速し距離を詰める。陸の生物は水中での動きに不馴れであることを知っているため、あまり深いところまで行ってしまうと湖王鮫から逃げることも儘ならなくなる。
今回の相手もその類いか、もう自分の存在に気付いてる筈なのに逃げる素振りすら見せない。もしや恐怖で脚が竦んでいるのではと思うとひどく滑稽で、嗜虐心を擽られる。それなら先ずはその脚からいただいて、それから時間をかけて痛ぶってやろうと画策する。
“シャアアアーーーク!”
目にも止まらぬ速さで獲物に辿り着き、大口を開けて思惑通りに脚だけを喰らおうとする。その際にどんな怯えた表情をしているのかと興味本意で眼を向けた先には――
「“凍てつけ” 《氷獄牢》」
雪白色の槍を構えた湊がその矛先を〈湖王鮫〉に向け、詠唱を終えていた。するとアルシェを喰らうため水上に押し出た身体からピシリという乾いた音が響き、それからすぐに表面の体温が生命維持の限界にまで落ち込んだ。
攻撃を受けた〈湖王鮫〉は、氷漬けのまま魔法で蛇のようにせり上がってきた水柱に全身を包まれる。その時既に意識も消えかかっていて、己がどういう状態にあるかまで頭が回らない。ただ捕らえるように巻き付いてきた水も瞬間的に凍っていくのだけは感覚情報として伝わってきた。
“――ッ…”
それでも最後に残った僅かな余力を振り絞り、自分が喰らおうとしていた少女の顔を窺う。その先――眼が合った時の彼女には想像していた怯えの表情など欠片も存在しなかった。それは自分が喰われることを微塵も思ってないばかりか、この湖の主たる己を脅威とすら認識していないかのよう。まるで予めこうなると知ってたと言わんばかりに、それだけ彼女からは動揺の色が見て取れなかった。
「云ね」
そんなことを考えているとは露ほども知らない湊は手首の動きだけで槍を回す。そこで得た遠心力を使い、氷漬けにした湖の主を氷ごと叩き斬った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
討伐完了っと。
戦闘とも呼べない瞬殺劇を終えて神器を収める。それにしても勿体ない事したな今のヌシだろ。
生態系が崩れると水面下で生命の奪い合いが激化する。そうなればこの美しい湖面が血に染まることになり非常に勿体ない。青く透き通った湖面を眺めながらふうっと息を吐き、いっそ全部凍らせてこの光景ごと冷凍保存しようか真剣に考える。
ちゃぷん。カチャッ…ぎゅっ。
自分でも物騒なことを行動に移そうとした……その直後だった。後ろから接近し、振り返る間もなく背中に柔らかな感触と確かな重みが押し付けられる。
「嬉しい…やっぱりカナエ様が助けてくれた♡」
甘えるように手を伸ばしたかと思うと身体に絡み付かせてきた。命を狙われたにしては落ち着き払っていることから予め「予知眼」で未来を視ていたのだろう。俺を体よく利用したことに思うところはあるが、まあ先程のお詫びとして追及しないでやる。
身長差のせいで傍から見たら抱き着いてるというより動きを妨害しているにしか見えないが、俺はしっかり意図を理解してるので正面に向き直りその唇にキスを落とした。
「んっ……ふ…♡」
アルシェの身体が小さく痙攣し悦びを表現する。このまま本番にと一瞬思ったが、それでは先程と同じ轍を踏むことになるため自重しておいた。代わりに舌を甘噛みする。
「それで? いきなり抱いて欲しいとかどういう心境の変化だ。お前はもっとその辺尻込みすると思ったんだがな」
召喚されてからずっと一緒に過ごしてきた。だから気付いたのだが、彼女は『王女』と『聖女』という自らの肩書きで理想とするイメージ像を基に行動することが多い。
例えば自分は王女なのだから身だしなみは完璧にし、聖女だから勇者のお世話も自分がしなくてはといった使命感を抱いてるらしい。前者はだから一回の身支度にかける時間も長ければ頻度も多く、後者に至ってはわざわざスキルまで使って料理やら洗濯を一から学ぶほどの徹底ぶりだ。
こんな話を聞いたことあるだろうか。人は誰しも仮面を持っていて、他人と接するときも外向けの人格越しに関係を築いていくのだと。
表面的に取り繕うための演技。当然嘘を見抜くこの眼は悉く反応するし、それ等を退けるために俺も幾度となく仮面を被ってきた。人間はコミュニティを形成する生き物であるから、皆多かれ少なかれ関係を構築・保つために本音を隠して生きるものだ。
ただ、アルシェの場合は少し事情が異なっていて、本来の用途で使うよりも行動の指針とすることが極めて多い。すなわち彼女本来の性格のまま、しかしイメージに即した行動を取るのにその2つを使い分けているのだ。例外は盗賊相手に交渉を持ちかけた時だけか。後は聖王女のイメージに準じた振る舞いに努めていた。
話が迂遠になったが、簡潔に纏めるとアルシェが自ら聖王女のイメージから逸脱していることに驚いたというわけだ。先にも述べたように一般的なペルソナが仮面の役割を担っているとするなら、彼女のソレは聖書に近い。
ヒトは仮面を被るとまるで演技しているかのように大胆かつ多様な言動を発揮できる反面、時に自制が効かなくなるなど暴走染みた感情麻痺を引き起こすことが儘ある。普段大人しい女子が偽りの自分を創造して俺に告白してくるようなやつだ。アルシェの場合は聖書に抵触しないように立ち回り、その範疇で己を曝け出すことはあってもここまで大胆にアプローチしてくることは今まで一回も無かった。何かキッカケでも有ったのか?
「遺言を…」
「――?」
「部下との最後のやり取りを思い出したんです。姫や聖女である前に、私も一人の女の子なんだって」
あの葬儀によって臣下の死を受け入れると共に、彼等との思い出を今一度振り返ることが出来た。記憶には己の命を擲ってでも敵から逃がしてくれた二人の護衛の姿もあった。その中で私が彼等を置いていくことに罪悪感を感じないよう励ましてくれた台詞が、いつかサーナに同じことを言われた時と重なる。
『ねえサーナって本当に結婚しないんですか?』
『私が生涯仕えるのはこの国と……アルシェ様だけです。父上は既に諦めているのでご心配なく』
『でも貴族に生まれたからには家を発展させる義務があるのに、それを放棄したら侯爵にも迷惑が掛かるんじゃ』
先代巫女の血を引き、大国の王女として生まれ、女神から聖女の称号を賜った。一人の少女が背負うには重過ぎる使命に潰れそうだった時、身分の壁はありながらも必死に励まして重圧を和らげてくれたものだ。
『わ、私の事はお構いなく。そういうアルシェ様はどうなんですか』
『私は……そういうのはお父様か姉さまが決めてくれると思います。二つ名を授かった時点で私だけの人生ではないのだから』
ノブレス・オブリージュ……高貴な者ほど果たすべき義務は重くなる。
フィリアムの後継問題は姉か弟が担うので、王位継承権が低いアルシェは教会との関係強化のために向こう側が指定した相手と生涯を添い遂げるだろう。二人の事だからアルシェが不利になる相手は事前に弾くだろうが、そこに当人の意思は介入しづらい。どこまで行っても彼女は国と教会を繋ぐ架け橋でしかないのだから。
『確かにそうかもしれません。ですが御身は聖女や王女である前に一人の淑女です。使命どうこうより自身の幸福を願うぐらいは許されるでしょう……そうだなお前達!』
『おお勿論でさ! 何なら俺がアルシェ様と添い遂げても「喧しい」ホギャアッ!?』
冗談交じりに賛同し、サーナに扱かれるいつものやり取り。それを笑って見ながらも内心でそれは無理だろうと冷静に否定していた。
国を……ひいては世界が不利益を被るかもしれないのに一人の意思が優先されるなど有り得ない。況してやそれが肩書きだけは立派なお転婆王女なら尚更。戦う力も、政治的手腕も無い自分が一番役に立てる時だと前向きに捉えてすらいた。聖女姫として使命を全うするのが最大の幸せだと自らに言い聞かせながら。
そう、思っていたのに――
アルシェから(強制的に)事情を聴き出した俺は、頭痛が痛いレベルの莫迦莫迦しさに内心で頭を抱えた。
過去から続く国同士のいざこざ、それに巻き込まれる勇者と、王女と聖女どちらにも振り切れないアルシェの立場。今までは使命に殉じていれば良かったのに俺を好きになってしまったことで己の在り方に満足できなくなってしまったこと。
その他諸々の情報を吐き出させた後の感想はと言えば「呆れ」のみ。唯一面白かったのは俺に恋心を見抜かれていたと知った時の反応だけだ。
「難しい顔をしてると思ったらとんだ拍子抜けだ。そんなことに時間と心労をかけるなよ」
なに唖然としてんだそんな事だろ所詮。地位も実力もあるお前が下々に気を遣ってたら自分たちの方が偉いと勘違いして付け上がるぞ。向こうの世界で何度も同じ光景を見てきたんだから間違いない。
「厳格化されてない為来りなんぞ無視しろ。暗黙でない了解なんか突っ撥ねてしまえ。お前にはそれを成せるだけの力があるんだから」
自分を押し殺してまで人に尽くせるのはアルシェの美点だが今回はそれが足枷になっていると忠告する。前にも話したがアルシェを良く知る人間は聖女でも…王女でもなく一人の少女として見てくれてるだろうし責務を果たせない程度で見捨てないと。
「それでも踏ん切りがつかなかったら俺に言え。正しい権力の使い方を見せてやる」
俺からしたら世間の評判や評価などどうでもいい。それよりも世界を隔てた先で見つけた番を逃がす方が大変だ。ここは多少面倒でも一肌脱いでやるか。
「たくさんの人達から糾弾されるかもしれません」
「口先でしか反抗できない奴らとか知るかよ」
「そもそも大臣たちが婚姻を認めるかどうか…」
「俺が許すんだから外野が騒がしかろうが関係ない」
要は政治と宗教、2つの手綱を操りながら迷宮攻略も進めていけば善いだけだ。ヒトってのは単純だから俺が功績を打ち立てていけばその度に召喚したアルシェの名声も上がっていくだろう、正直気乗りはしないが。
で? 他に問題ごとがあるか?
「……良いんでしょうか本当に。使命より自分の気持ちを優先しちゃって」
「問題ない。結果的に両方果たすことになる」
湊に肯定され、心のしこりがスッと消えていく。
元より引く気は無かったが、ずっと理性で縛り続けていた枷が外れるのをそっと噛み締めながら身体を預ける。
「こういう形で純潔を捧げるとは思いませんでした」
「もっと素敵なシチュを想像してたか?」
「カナエ様がいなければ疵物になっていた身です。どうぞ心ゆくまでお使いください」
上目遣いで見るアルシェの顔は、羞恥に染まり色付いてた。蕩けた雰囲気を醸しながら服に手が掛かったその時、幾度か躊躇う素振りを見せながらも意を決したように理性に働きかける誘い文句を発した。
「私を――カナエ様の女にして」
その日、湖の畔で聖女姫の嬌声が何度も響き渡った。
野盗に襲われる本来の運命からは大きく外れ、涙まで流すほど心配する姉に罪悪感を抱きつつも、この瞬間だけは大人の女になった多幸感に身を委ねるのだった。
もう少しだけ主人公サイドを進めた後、再び各地に視点が移ります。
よければ感想、または高評価お願いします。




