前編
咲が一件のメールに気が付いたのは受信から約三週間後のことだった。
「会わね?」
スパムや広告メールに囲まれた差出人のあいつの名前を見た時、一瞬時が止まったように感じた。
返信するとノータイムで返ってきた。
あいつが指定した病院近くの喫茶店は大層お洒落なお店で、咲が席に着いた2分後に入店してきた。
店員がドアを開けて、入ってきたのは車椅子に乗った男の子。
すごく痩せた男の子。見覚えのある顔だった。
出会った三年前と比べてちっとも変わっていない、ちょうど同い年のくそがき。
成長期の男子だ、身長は少し伸びただろうかと思ったが、車椅子に座っているので分からない。
そんなクソガキと目が合った。
「久しぶりじゃん」
やつは咲の顔を見てヘラッと笑った。
正直笑えなかった。別に望んでいたわけではない再開だったから。
「うん、でもなんで突然……」
「訊かなくてもわかるだろ」
心当たりはあった。けれど、どうも納得がいかなかった。
「仕事を頼みに来た」とやつは言った。
お母さんくらいの年齢の店員さんが、車椅子の為に椅子を移動させてくれている。
どうして、なんて聞けるはずもなかった。
メールを見てからやつのことで頭が一杯だった。
やつと初めて会ったのは三年前の5月、咲が中1のことだった。
場所は病院だった。大きな病院。
ある日の体育の時間、鉄棒から変な落ち方をした咲は右脚を折った。
激痛のあまり失神して次に目が覚めたら病室で寝ていた。
目が覚めた時、隣には誰も人はいなかったがドラマでよく見る光景に、すぐに病院だと判断できた。
咲にとって、それから5日くらいは最悪だった。
足はアホみたいに痛くて、その上、一日中ベッドの上という退屈な毎日。
痛いうえに退屈だと何も手につかないからどうしようもなかった。
どちらか片方ならまだマシだと何度も思えた。
唯一仲のいい友達が見舞いついでに貸してくれたiPodで退屈をしのいで5日やり過ごしてから手術をうけた。
咲は手術がまた、たまらなく嫌だった。医師に手術の説明を受けた時はショックで足の痛みを忘れられるくらいに。
足切って中に金属仕込むと言う。
女の子の咲にとって傷跡が残ったらどうしようという思いと、
なにより説明された金属がどんなに小さいとはいえ、身体に埋め込む不安が大きかった。
手術は無難に終わり、麻酔がとれたころに医者が松葉杖をくれた。
手術を終えたばかりの足を見て、ああ金属が入っているのかと少し気が沈んだ。
傷跡は完全になくなるだろうか。
けれど、約一週間ぶりに動ける嬉しさも同時に咲の中で存在していた。
慣れない松葉杖でひたすら院内を歩いた。
やつに会ったのはそんな時だった。
やつはガラの悪そうな中年男性三人と喫煙所兼の談話スペースで麻雀をやっていた。
やつはこの時すでに車椅子だった。体はガリガリだった。
どう見ても副流煙にまみれて麻雀って感じの少年ではなかった。
物静かそうで、クラスでも教室の端っこで本を読んで過ごしていそうな、そんな第一印象。
けれど、どうも様子を見ているとボロ勝ちしているのは三人の中年男性ではなく少年の方だった。
その日は話しかけられなかった。ただただ面白いなあと思って遠巻きに見ていた。
夜、ベットに横になりながら、咲は、いずれ一人でいるところを捕まえようと思った。
前の咲なら、あんな危なそうなことをやっている少年に近づこうとは思わなかっただろう。
反動みたいなものだと思った。
どうせならちょっとアウトローっぽい人と関わりたい、と。
というのも手術後動けるようになってから看護師がやけにうるさかったのだ。
「小児病棟に同い年くらいの子がいるから遊びに来ないか」
とか
「あなたくらいの歳の子が来ると小さい子たちが喜ぶ」
とか
咲にとって別に構わなかったが、押しつけがましく言われると、正論だったとしてもどうにも聞く耳持てな
かった。
昔からの悪い癖だとつくづく咲は思った。
そんな理由で咲は病院内で同い年くらいの子と全然関わりがなかった。
基本的に一人だったけれど、別に好んで一人だったわけでもない。
そんな時にやつを見かけたのだった。
話を聞いているとどうも看護師も医者もやつには手を焼いているようだった。
そりゃそうだと思った。
小学生の少年が一見すると堅気かもあやしい大人と麻雀をやっている。
それも賭けているという話だから余計だった。
「リョウくんはねえ……」
看護師はどうにも話題にしたがらない感じだった。
咲が唯一知れたのは、少年の名前がリョウということだけだった。
「リョウくん」
二日ほどしてチャンスがめぐって咲は少年に話しかけた。
少年は一人で談話室のテーブル陣取って、缶コーラ飲みながら『チェックメイトの技法』という本を読んで
いた。
「誰お前?」
少年は本からちょっとだけ目を上げて不機嫌そうに言った。
第一印象は最悪だった。まさか初めて会った人に対してそんな口のきき方とは。
まあ、そんな人だと思ったからこそ話しかけたのだけれど。
今思えばこの時が「少年」ではなく、「やつ」呼びに変わった瞬間だった。
「何読んでるの?」
「見りゃわかるだろ」
「麻雀だけじゃなくてチェスもやるんだね」
「なんで麻雀のこと知ってんだよ。」やつは本を閉じた。「なんでもやるけどチェスが一番だなっていうか
もう一回聞くけど誰お前?」
咲は自分の名前を言った。
けれど、やつが言いたいのはそういうことではなかったらしいことは表情で読み取れた。
「暇つぶしにつきあわせるために話しかけたなら他をあたってくんないかな」
ずいぶんな言い方をされてちょっとムッとする。
咲は思わず勢いづいて
「バカ言わないで、あんたの退屈しのぎにつきあってやるって言ってんのよ」
なんて言ったけれど、声が震えていたかもしれない。
やつは品定めするみたいな目で咲の顔を見た。
「なにができんの」
「……オセロかトランプ」
やつは呆れた顔をしたけれどちょっと考えてから
「それなら一回チャンスやるよ、退屈しのぎになってもらおうか」
と言って車椅子を動かしはじめた。
やっぱり暇だったんじゃない。とは言わなくて正解だろう。
咲はその後ろを松葉杖でついていった。
小児病棟の最上階にやつの病室があった。
ちょっとしたデザイナーズマンションかってくらいきれいな個室だなと咲は思った。
窓からは何もない街がよく見えた。
やつは棚からオセロボードを引っ張り出す。
テーブルに置いたオセロボードをはさんで咲たちは座った。
結論から言うとお話にならなかった。
「オセロなんて五年ぶりくらいだ」
なんて言ってたくせにリョウはボロクソに強かった。
というより、やってるうちにどんどん歯が立たなくなっていった。
たぶん、あるゲームのコツをつかむ勘みたいなものがずば抜けているんだと思った。
しまいにはハンデをもらったけれどそれでも負けた。
咲は角をとればオセロは有利になるという知識は当然ながら持っていた。
だから最初から二つの角をもらった状態で始めたけれど、それでもありえないくらい負けた。
それはもう、面白いくらいに。
リョウにはどんなに優勢だろうと容赦というものがなかった。
クソガキのクソガキたる所以をそこに見た気がした。ちっとも大人じゃなかった。
ハンデをもらっているから良いではないかとも思えたが、何故かそう思えなかった。
結局一回も咲はリョウに勝てないままその日は終わった。
勝負の勝敗に関しても悔しかったが、なにより、
「いい暇つぶしになったろ」
自室に戻ろうとした時、そうリョウに馬鹿にするように笑いながら言われた。
その事が咲には堪らなく悔しかった。
三日間のあいだ咲は自室から出なかった。
看護師が具合でも悪いのか心配したけどそんなものではなかった。
咲だってそれなりに負けず嫌いだし意地はある。
付け焼刃は承知でひたすらオセロの戦術を勉強した。
勉強してみると基礎のキソでも知らないことがたくさんあってびっくりした。
なんでもいいから一回はリョウに勝たないと気が済まなかった。
三日後
咲はリョウの病室に押しかけた。
やつはパソコンを鬼みたいな目で睨みつけて何かをしていた。
邪魔できる雰囲気では到底なくて、咲は仕様がなく突っ立っていた。
リョウにようやく気づかれたのは小一時間たったころだった。
「また来ると思ってたぜ」
小一時間気づかなかったくせによく言うもんだ。
「このあいだの続きをしにきた」
「三日間なにもしてなかったわけじゃないよな」
咲はうなずく。
テーブルにはこの間から片付けられていないのであろうオセロボードが載ってた。
今回は初戦からハンデをもらうことにした。
咲の黒番でゲームを始める。
リョウは開始三秒で目の色が変わった。
「三日間何もしてなかったわけじゃなさそうだな」
リョウは笑いながら言ったけどたぶんほんとは死ぬほど悔しかったんじゃなかろうか。
そう思うと嬉しかった。
ゲーム終了。
わずかに黒が白を上回った盤面をリョウはじっと見下ろしていた。
「もう一回だ」
リョウが言うままにもう一度ゲームを戦う。
リョウが白番、咲が黒番をとって。
結果はリョウの完勝だった。
その日はじめてリョウは咲にコーラをおごった。
自販機で350ml缶を二つ買って、病棟の廊下のベンチに座って飲んだ。
「リョウって絶対コーラなんて飲んじゃダメそうな体してるよね」
咲はずっと思っていたことを言った。
失礼なこいつには気を使わないと決めていた。
「飲んでも飲まなくてもどのみちダメだから関係ねーんだ」
「?」
「イチローが毎朝カレー食うのと一緒だ」
「???」
「イチローはな、毎朝カレー食って毎試合ヒット打ってんの」
「あぁ、リョウの場合はそれがコーラなわけだ」
「そういうこと」
「でも飲むのもやはりよくないと」
「そう」
リョウはため息をついた。
「俺ハタチになる前に死ぬからさ」
リョウの病気はもう治る見込みのないものだった。
生まれて間もなくそれがわかって、リョウの親は彼を病院に放り込んだ。
手切れ金であるかのように高い金を払って。
けれどそれ以来ほとんど病院に顔を見せに来たこともないらしい。
生まれつき欠陥を抱えた心臓と、ガラの悪い勝負事好きの中年連中と、世界のどこにもつながるパソコンと
に恵まれて、リョウは病院で12年間すくすくと育った、のだとそう咲に話してくれた。
それを聞いて、咲は傷跡がどうの金属がどうので悩んでいた自分が恥ずかしくなった。
以来咲はときどき暇を見て彼とつるむようになった。
オセロをやり、コーラを飲み、話すことがあれば話をした。
医者も看護師もいい顔はしなかった。
回診のたびにずいぶん冷たくされたものだった。
一人でいるときはオセロの定石を勉強し、iPodで音楽を聴いた。
リョウ相手だといくら勉強してもし過ぎにはならない。
リョウのほうは片手間でやってたのかもしれないけれども。
咲の入院生活はそんなふうに回っていった。
手術から数週してリハビリが始まった。
その頃にはリョウのほうからも暇があると咲のところにやってくるようになっていた。
リョウは何が面白いのか咲のリハビリの様子をずっと眺めていた。
「歩けるようになるのか、お前は」
「いずれ、順調にいけばね」
「俺はめんどくさいから歩くの諦めたんだよね」
リョウが訊いてもいないのにそんなことを言うのは珍しい気がした。
「俺ね、死ぬまでで一回、チェスでてっぺん獲ろうと思ってる」
「てっぺん?」
「世界一とかなんとか」
「本気?」
リョウは無言でうなずいた。
現実問題として世界一なんてとれるのだろうか。
世界一、なんて響きがあまりに慣れないものだから咲は面食らった。
それに、リョウはその当時すでにオンラインでは世界上位10%に入ってたのだから驚いた。
伸びしろを考えれば不可能とは言い切れないだろ、とリョウは冷静だった。
それでも咲の脳裏にちらつくのはリョウの寿命のことだった。
自分でもよく分かっていたと思うけれどリョウの命はもって10年弱だった。
だからこそやつは真剣だったし負ければ焦りもした。
そう、やつは負けるのが本当に大嫌いだった。
本当にときどき、50回に1回くらい咲がオセロで勝つと、リョウは小一時間口もきかなくなる。
「利かないんじゃなくて利けなくなるんだよ」って言ってた。
負けたのがムカついてたまらないうえ、負けた試合の反省で頭がいっぱいになってしまうのだそう。
それも、咲に負けたと言ってもあくまで大きなハンデをつけたうえでの話なのだ。
そんな態度が馬鹿にされているようで少し嫌な気もするけれど。
目標が目標だから仕方ない。
それに、咲に負けるだけならまだ良かった。
やっぱりリョウと互角とか、それ以上の相手になってくると、リョウも負けが込んでくることがあった。
そんなときリョウは個室にこもって出てこなかった。
そんなリョウを全く気にせず個室に入る看護師や医師を見て、個室にカギがないのがかわいそうだなって、
そういうときは咲も少し同情した。
病院だから仕方ないんだけれどね。
一回だけ連敗期に入ったときのやつの様子を見たことがあった。
やつはベッドの布団にくるまって親指を血がにじむくらい噛みながらガタガタ震えてた。
それでぶつぶつ小声で何か言ってた。
それこそ咲には聞き取れないくらいの小声で。
咲はそれ以来負けが込んだリョウには近づかないようにした。
励ますとか無駄なんだろうなって、リョウの焦点ぼけたみたいな目を見てたらわかったから。
けれど、励ませないのが悲しいとは思わなかった。
いずれ勝ち星がめぐってくるしか元気になる方法はないわけだし、そのためには早く立ち直るしかないことは、
リョウは自分が一番よく分かっていたと思ったから。
何もしてやれないのがつらい、なんて思わずに
「さっさと立ち直ってさっさとまた勝ちまくりなよ」
って、心のなかで言っとけばいいってのは、咲にとっても救いだった。
リハビリが始まってから3週間くらいだっただろうか。
咲は3歩くらいだったけれど自分の足で歩けていた。
歩けてしまった。
そう、リョウに言ったら
「歩けるんだったら車椅子でも押して楽させてくれよ」なんてぬかした。
やつは褒めるってことをてんで知らないのだ、と思った。
けれど、咲は車椅子押してあげられたらなとは内心ずっと思ってた。
リョウのほっそい腕がステアリングを回すのを見てると、なんで自分が松葉杖なんかついてるんだろう。バカみたいって毎回思うのだった。
だから
「いいよ」
と、松葉杖ほうりだしたら、リョウのほうが珍しく焦りだした。
咲はリョウに一泡吹かすことができた気がして、少し嬉しかった。
そのまま歩き出したら三歩も歩けずにころんだのだけれど。
「バカたれ」
とリョウは言ったが声が優しくて咲はうるさいな、と笑った。
それから順調に咲の足は回復していった。
松葉杖をつきながらだったけれど、咲はひとまず退院した。
退院の朝、リョウも玄関までちゃんと見送りに来てくれたことは嬉しかった。
「くたばんないでね」
リョウは眩しそうな顔してうなずいた。そんな顔、初めて見れた気がした。
それから咲はリョウを一回抱きしめた。
座ったままだから咲のお腹のあたりにリョウの頭がきて、
やつは咲の腰のあたりにしがみつくようにしてしばらくじっとしてた。
そうして咲の入院生活は終わったのだった。
これが咲の三年前の話。