人間じゃない少女が羽を使って飛んだら悲しいことになってしまう話【人外少女シリーズ】
その村は深い森に面していた。モンスターが跋扈する森を村人は恐れ、子供にはなるだけそこに近づかせないためによく怪物の話をした。
『森に入ったら虫の羽を持つ大きな怪物に殺されてしまうよ』
それがいつからか、子供を怖がらせるためのお話のパターンであった。どんな子も、この話に震え上がり、たとえ少しくらいの恐れ知らずであっても、村の家々が見えなくなるほど森の奥に入ろうとはしないものだった。
だが、どこにでも吹っ切れた者は存在するもので……。
ある日の早朝、十六歳のコラルはお手製の連射式ボウガンを持って森に分け入った。村人が薪拾いで入るよりも奥へ……。仕留めたモンスターはすでに数頭。好奇心の塊のような彼はちょっとした調査のつもりだった。
「危険なのはわかるけどさー、なんか言い伝えの『虫の羽の怪物』っていう具体性が気になるんだよねー」
子供の頃から言い聞かせられた伝説も、単なるしつけの道具と断じず、自ら実地調査に乗り出す科学的精神が彼にはあった。
ーーどのくらい進んだだろう。持ってきていたたくさんの矢も尽きかけた頃、太陽は頭上、真上に輝いていた。辿り着いたのは森の中には不自然な広場だった。
「ここは……」
自然にできたわけでも、人間が均したわけでもない、不自然な空間。何か大きな生き物が寝床に使っている、そんな感じだった。
「大当たりだな」
すると、コラルの前方で茂みがガサガサ言った。
現れたのは、体高が人の背丈ほどもある巨大な狼の姿をしたモンスターだった。
「何!? ただの狼かよ!? つまらね……うわっ!」
そうコラルが言うが早いか、巨大な狼は急速に距離を詰めて来た。連写ボウガンを使う。バネ細工で四連射と半自動装填を可能にした逸品。彼の自信作だ。発射した矢で鉄板を貫いたこともある。
四本の矢の一本は狼の目に当たり、突進の狙いがずれた。
間一髪、コラルは攻撃を避けたのだった。
「危ねえ……」
再び距離を取った大狼と睨み合うコラル。次の四本を装填する……しかし。
「あ、まず……」
動作不良。ボウガンは鍵がかかったように作動部が動かなくなり、どれだけ力を込めて動かそうともびくともしなくなってしまった。所詮、天才発明家とはいえ職人ではない彼の加工技術では、半日の使用にも耐えられないシロモノだったのだ。
大狼が、吠えた。今度こそコラルを仕留める気だ。
「うわあ!?」
コラルは思わず目を瞑るという、自殺行為をしてしまった。無理もなかった。しかし、十秒経っても、それ以上経っても、彼は生きていた。恐る恐る目を開けた。
「いっただきーっ!」
そこには、巨大な異形の虫羽を持つ生き物と、倒された狼とがいた。
※※※※※
「えーっ! じゃあ森の外から来たの!? すごいねえ!」
ラクシャラ・パララータ。彼女はそう名乗った。この、おおよそ人間の形をした上半身と、巨大な蛾の下半身をした、手も足も三対ずつある、触覚を頭に生やした女の子は。女の子? コラルはその単語を思いついて思わず苦笑する。しかし、この元気溌剌さは同世代、いや、それ以下の女の子のそれだった。
「森の外で何してたのー? 森から出て大丈夫なのー?」
「はは、むしろ、森の中の方が危険なんだけどな、俺らにとってはよ。なあ、ラクシャラって言いにくいから、ラクって呼んでいいか?」
順応性の高いコラルは大狼の体に腰掛け、すぐにリラックスできた。ラクシャラ改め、ラクの純粋さがそうさせたのもある。
「おまえが、伝説の虫羽の怪物だとはな」
「かいぶつー? ってなにー?」
「いや、忘れてくれ」
彼の中に、この「怪物」、いや、少女を、傷つけたくないという感傷が急速に育っていった。それは狼から助けてくれた命の恩人ということもあるが、それ以上にラクという存在への興味の方がまさった。
「んー? その体、どの生き物とも似てないよな……昆虫と人間の合いの子なんて、他に例がねえ。一体どうなって……」
「キャハハ! くすぐったいよー!」
蛾のふさふさした毛の生えた甲殻をまさぐるコラル。無遠慮が過ぎたが、ラクは怒るでもなく楽しんでいる。コラルは半透明の巨大な羽が気になった。
「なあ、飛べるんだろう? よくそんな巨大な体で飛べるよなあ。ちょっと飛んでみてくれないか?」
その瞬間、ラクは大きく笑った。さっきからずっとこんな風に興奮して笑っている。人間部分の見た目は自分と同年代の女の子に見えるのに、少し精神的に幼いのだな、とコラルは思った。
「お母さんが言ってたのー! 空を飛んじゃいけないって! お日様に近づいたら焼け死んじゃうよって!」
「なんだそれ」
今度はコラルが笑った。ラクはキョトンとした。
「はは、まさか。だったら鳥はどうしてあんなに高く飛べるってんだよ。太陽の発光原理はわからないけど、少なくともちょっと近づいたくらいでどうなるもんじゃねーのさ」
「えー! そーなのー!?」
それ以来、コラルは森の中のこの広場に通うようになった。村の仕事の合間を見つけては森に分け入り、ラクに会うようになった。ラクは常に森の外の話を面白がったが、森の外に出ようとはしなかった。コラルはそれを賢明だと思った。いつか、彼にとっても、ラクにとっても、この二人きりの時間は、かけがえのないものになっていった。
※※※※※
「これで、よしっと」
村のみんなには秘密で、彼は実家の納屋であるものを完成させていた。実家は裕福な豪農だったが、これだけの布を集めるのは大変だった……。
「名付けて、熱気球ってか」
そう、熱気球である。まだこの世界の誰も実現させていないアイディア……。それを文化によってはまだ少年と呼べる年齢の彼は度重なる実験の末に完成させていた。気球部分には豊富に手に入るモンスターの皮を補助に使い、燃料は貴重な魔法物質である燃える氷を使う。
村のみんなには内緒であったが、見られても何をしているかはわからなかっただろう。
「飛び立つのは……明日の朝にしておくか。ラクにだけは知らせてやろうっと」
熱気球のことを彼女に知らせると、猛反対に遭った。
「ダメだよダメだよ!」
例の、太陽に近づいたら死んじゃう理論だった。どうもそれはラクの考え方の根幹にあるらしく、何度説明しても仕方がなかった。コラルもついにはムキになる。
「お前、せっかくそんな羽を持って生まれて来たのに、一生飛ばずに過ごすつもりかよ!? 俺は嫌だね! 絶対飛んでやる!」
心配するラクを無視して、次の日、彼は熱気球の初飛行を決行した。初めは順調だった。重りの砂袋を落として、どんどん上昇していくのを、コラルは面白がった、眼下に慌てふためく村民たちが見えると、指差して笑った。しかし……。
それも、係留用のロープが切れてしまうまでのことだった。
「やべえな……」
どんどん流されていく。風の強さは予想外だった。森の奥の方へとどんどん流れていく。
墜落か、落ちてもモンスターの餌食……。
「やべえ、やべえぞこれは。どーする? ……考えろ……」
しかし、妙案は浮かばなかった。彼は今や、何もできずに風に流されるままの風船のようなものだった。
※※※※※
それを見上げていたのはラクであった。森の広場から見上げても、熱気球は豆粒のようにしか見えない。だが、はっきりと、ラクの感覚にはあそこにコラルが乗っているのがわかった。
「どうしよう、どうしよう、助けた方がいーかなー?」
ラクの中でお母さんの言いつけは絶対である。母親を亡くしてもうずいぶん時間が経ったが、一度もそれを破ったことはなかった。飛ぶな……。理由もわからず、今まで盲信して来た。コラルの言葉が思い出される。
(なあ、ラク。信じるのはいいけど、この世には理不尽な言いつけもあるんだ。ちょっとくらい、破ってもいいんじゃねーのか? 大丈夫。そうそう取り返しがつかないことにはならないさ。何度も破って来た俺が言うんだぜ?)
ラクは意を決した。一度も羽ばたかせたことのない羽だったが、やり方は体が教えてくれた。
我々の世界でいうところのレシプロエンジンのような、バリバリブロロロというけたたましい音を立てて、彼女の巨体はゆっくり飛び上がった。
その音は上空のコラルにも届いた。
ラクが熱気球と同じ高度に達する前に、彼は彼女の勇姿を発見した。
「お、おおう、おめー、飛ぶとケッコーうるせえんだな」
「それ以上お日様に近づいたら焼け死んじゃうよ」
「はは、まだ言ってんのかよ」
ラクは熱気球を掴むと、ゆっくりと村の方に降下し始める。
「お、おい! いいのかよ。それじゃあ村の奴らに見つかっちまうぜ!?」
「いーのいーの」
母からの言いつけは他にもあった。人間に見つかるな、森から出るな……まあ、要は自分の存在をバラしてしまうなということである。ラクはもうそれ全部を一編に破るつもりだった。
村は大騒ぎになった。何せ上空から、得体のしれない丸い大きな物体と、虫羽の怪物が入りてくるのだから。
「おーい! みんなー! 心配は要らねーよ!」
コラルはまだ宙にいるうちから、ラクのことを弁護していた。
※※※※※
村の反応はコラルにとって意外なものだった。
みなラクのことを口々に神の遣いだと言ったのである。怪物伝説はコラルの知らないところで信仰へと昇華していたのだ。ラクは喜んで村中を飛び回った、いく先々で驚きと尊崇の念で持って迎えられ、彼女は満足した。
夜はコラルの家の納屋に泊まった。熱気球がしまわれていた場所である。
「えへへー! 今日は楽しかったなあ!」
「ああ、よかったなあ、オイ」
二人は夜遅くまで語り合った。
※※※※※
「ゲホ!ゲホ!」
翌朝、事態は一変していた。村中で誰もがひどい咳に襲われ、立ち上がるのもままならなかった。
「なにこれ……どーいうこと?」
コラルも止まらない咳に襲われ、唯一元気なのはラクだけという有り様だった。
「そう……か、ゲホ! 鱗粉、だ……ゴホ!」
蛾の鱗粉……そう、なぜ気付かなかったのだろう。コラルは自分のうかつさを恨んだ。目に見えない大きさの鱗粉が、ラクが羽を羽ばたかせるたびに周囲に飛散し、毒の粉として村人の健康を蝕んだのだ。毒性の程はわからないが、おそらく、死……。
「ねえ!? だいじょーぶ?! コラル! コラルぅ!!」
ラクは必死になって立つことも出来なくなったコラルを揺さぶったが、解毒の方法など分かるわけがなかった。誰にも。村のそこここで、息絶えるものが増えていった。
死んでいく村を眺めて、絶望的になるラクだった。
「わたし、飛んじゃダメだったのかなあ……」
ボソリと呟いたその言葉を、朦朧とした意識のコラルが拾った。
「ゴホ……。いや、オメーは悪くないよ。人間には馬鹿みたいなやり過ぎをする権利があると思うんだよな、オレ……ゲホゲホ! ……じゃないと俺が親やみんなから許されてるのが意味わかんねーし。だからさ、オメーは悪くない。悪くねぇよ……ゲホゲホ……」
「じゃ、誰が悪いの?」
「……神様?」
神、という概念を、彼女は理解することができなかった。お母さんのようなものかと思った。しかし、彼女には母を呪うことはできなかった。結局、やり場のない大きな感情を涙に変えることしかできず、彼女は森の中に戻り、二度と人間とは関わらなかった。滅びた村はやがて交易の商人に発見されたが、全滅の原因に関しては結局分からずじまいだった。