不音な門出
或る旅の話
或いは彼らの話
雨の国の一角にて
お前、本当にそれでいいの。
平坦としていながらも驚いた声が降ってきた。僕には応えようもなかった。
息は荒く、吸っているのに出て行ってしまう。
身体の中心近い何処かから生暖かく、赤く命が流れ出ていくのを感じた。
出てくるほどに身体が濡れ染まっていっては、打ち付ける雨によって冷やされていく。
雨の国の、降り止まぬ雨。どこの国のどの雨より、格段に冷たい。
それでいいのだ。まったくもってこれでいい。
このままでよい、抵抗する気など毛頭ない。
もはや瞼を押し上げている必要すらなく、もう彼の姿を目に収めることはない。
つまるところ、満足している。
未練などあるはずがない。よって走馬灯も無粋だ。
無論開くべき口などなかったし、もとより彼との間に声など存在し得ないものだった。
……そう。お前はそれでいいんだね。満足なんだね。
現身を有意義に使いきったというんだ。僕には到底理解できないことだけれど。
たったこれだけのことでもお前が十二分だというなら、僕はそれを讃えよう。
この世に於いて……いや、どの世に於いても、その命を十全に扱えたものがどれだけいたことか。
まったくもって稀少なことだよ。それは。豊かで、羨まれるべきことだ。
それをお前は十二分だという。この贅沢者め。
……僕には何も残さない心算なのかな。お前だけで独占するのかい。
ああ、酷い、惨い、悍ましい。お前、とっても幸せっていう顔だ。それこそ傷ましいくらいだよ。
死出の道中もその先も、お前はきっと幸せだろう。
お前は僕の幸せを置いて、自分だけ幸せになりにいくんだ。
恨むよ。こんなにも愛おしいせいで、悲しくて哀しくて愛しいっていうのに。
酷いな、僕は見送ることしかできないんだ。お前がそうさせるんだよ。
恨めしげな声音を溢す彼に、わかっているだろうに、と応える口はもう動かなかった。
彼がどれだけ恨み言を言ったところで、もうどうにもならない。
彼の幸せが僕の幸せ。それすら彼は知っている筈だ。
幸せになるつもりも、するつもりもないようである。一緒くたに不幸せになることを望むらしい。
彼の旅は続いていく。途中で僕が他の旅路に就いても続いていく。
僕の幸せは僕の幸せ。君の幸せじゃない。それだけを君に伝えたい。
どうかその先で幸せな旅を。
彼はよくよくわかっていた。彼に言葉が届かないことを。
彼はよくよくわかっていた。彼に言葉が届かないことを。
見下ろす彼は雨の染み込む彼の首元に据え付けられた鈴をそっと外して、袖裾で拭き取った後、懐にしまい込んだ。
濡れた身体に六ほどの価値の通貨と少々の食糧をばら撒いた。
「ああ、そう。こんな雨の日だ。止んでからいくといい。」
そう言って、彼は被っていた笠を被せた。
「いつの日か、迎えにくるよ。」
それでは、良き旅を。
雨の止まぬ国の一角の出来事




