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#04 命、もうひとつ

#〇四 命、もうひとつ


      1

 息が荒い。とんでもなく息苦しい。まるでざぶざぶって水の中に無理やり頭を沈められてるみたいだ。

 それでもあたしは、じっと息を潜めている。

 だってあと二分もすれば、この劇が終るのだ。それまでは肩で息していようが、水飲まないと、ぶっ倒れちゃうかもしれなくても我慢だ。我慢なんだ。

 ひとりだけ、カーテンコールにいないなんて、ありえないぞ。

しかも今日は千秋楽で、その上、朔良ちゃんがあたしを見に来てくれてるんだ。

 最後の最後でヘマなんて、あたしにはぴったりだけど、それじゃ締まらない。ここは踏ん張って、いつものあたしを「脱」しなきゃいけない。

 初めて朔良ちゃんが、プロの舞台上のあたしを見てくれたんだ。

 そうだよ、だからこんなにも興奮してて、喉も渇いて、息も絶え絶えなんじゃないか。

 実際は演じている間、観客一人一人を見ている事なんて出来ない。あたしにそんな余裕なんてあるはずない。ただ、あたしは絶対的な観客の前で、あたしたちの世界にいる。

 舞台と客席は常にひとつでも、違う世界だと思う。

 だけど、その向かいあった世界には確実に朔良ちゃんがいるんだ。それは力だし、励みになる。

 今日は、だからいつも以上に出来たと思う。もちろん座長たちに聞いてみないと、はっきりした評価はでない。

 でもあたしは、少なくとも今日のアイナには九十点をあげたい。

 それこそきっと、朔良ちゃんパワーに違いない。

 やっぱりあたしには朔良ちゃんがいないとダメなんだ。

 そう再確認した所で、あたしの前で幕が下りた。

「うし、みんなもうひと踏ん張りだ! カーテンコールいくぞ!」

 今幕を下ろしたばかりだというのに、座長は汗を撒き散らしながら、率先して幕をあげるように指示を出す。

 こういうのは熱気だとか、その場のノリだとかいうのかもしれない。

 でもそれは悪い事じゃない。現にあたしの心臓はバックバックだけど、これは緊張とは違う。

 こういうのをきっと充実感って呼ぶんだ。

 あたしは今、すごく何かが誇らしい。

残念だけど、何とは答えられない。それは何かなんだ。

 ここにいる人間しか味わえないなんて言ったらすごく卑怯だけど、それしか伝えようがない。

 無理したら、こんな言葉。

 昂揚、緊張、安堵、汗、喜び、解放……ああ、きっと朔良ちゃんなら、あたしが言いたい事をぴたっとした言葉にしてくれるんだろうな。

 そう思うけど、汗臭いあたしの傍に朔良ちゃんはいない。

 でも朔良ちゃんはいる。あたしの目の前で、あたしを見てくれている。

 結局あたしはどんなに考えても、そこに戻っていく。

 まったく、朔良ちゃんなしで生きていけない体にしてくれて、朔良ちゃんはどう責任とってくれるんだ?

 また馬鹿な考えがシワの薄い脳みそをいっぱいにしていた時、ゆっくりと上がっていく天幕の隙間から、お客さんたちの歓声がもれてきた。

 やがてそれは波みたいになって、舞台の上のあたしたちにぶつかる。

「うう」

 それはもれたかもれなかったかっていうあたしの声だ。

 お客さんがあたしたちにぶつけてくれるのは、生の声で感想で、歓喜なんだ。それがあたしを圧倒して、一歩引かせてしまった。

 人間、一歩下がってしまうと結構ずるずるいくみたい。そんな気ないのに、左足に続いて右足が下がろうとする。

「そら、しゃんとしろぉ!」

 まるまった背中を円子さんが思い切りはたいてくれた。

「はい!」

 すくんだ心がひとはたきで消えた。

 さすがは円子さんだ。円熟の域なんていったらもう一発きついのを頂きそうなんで、やめて置く。

 そのかわり、精一杯に背筋を伸ばした。

「そそ、それでいいんだよ」

 手痛い一発はなかったけど、おでこをこつんとやられた。でもあたしには十分こたえた。

 そうだ、役者が縮こまっててどうする。今この瞬間の賛辞は、あたしたちに向けられてるんだ。それにこたえられないでどうする。

 それにそれは朔良ちゃんにもこたえてないって事だぞ。

 そう思えた瞬間、隙あらば引けそうになる腰と背筋に、鉄骨がバスンと刺さった。

 一本筋が通ると、案外気持ちいい。

 あたしはしゃんとした体で、引いていた分を取り戻すため、一歩踏み出した。

 そして、あたしの名前が読み上げられる。

「アイナ役は、今回が初舞台になります、笠屋雪緒です。拍手をどうぞ~」

 座長の紹介につれ、拍手がビッグマンデーみたく押し寄せてくる。それにあわせて徐々に顔をあげていくと、拍手の音量が飛びぬけて上がっていく。

 完全に顔を上げて入ってきたのは、眩しいスポットライト。

「ん……」

 口から漏らして手で日影をつくり、あたしはやっと観客席を正視する。

 キラキラ光って見難いのは、あたしの汗かな。それでもと、ゆっくり目をこすって視界をクリアにする。

「えっ……」

 歓声にこたえるのも忘れて、あたしは目を丸くした。

「そんなとこに、いたの……?」

 どうしてあたしは気付かなかったんだろう。

 こんなに近くで、こんなにしっかりとあたしを見ていてくれたのに、あたしは本当にダメダメちゃんだ。どんなにこの舞台の世界に入り込んでいたからって、この視線に気付かないなんてダメだろう。

 こんなに必死で、こんなに真摯なかわいい瞳に気付かないなんて。

「朔良ちゃん……」

 水を求めてカラカラな唇から、最愛の名前がポロリと落ちる。あたしは駆け寄りたくて震えだすひざを、必死で立てる。今は行きたくても行ってはだめだ。あたしはまだ、ここで役者の、アイナの顔をしてなきゃいけないんだ。あと十分程度だ、我慢できないはずがない。

 あたしは早く早くと座長にさえ口走りそうになって、慌ててわがままな口をつぐんだ。

「以上、劇団員の紹介でした。みなさんのおかげで、今日は最高の千秋楽になりました。どうも、ありがとうございました!」

 座長の短い挨拶の終わりにあわせて、みんなで「ありがとうございました」の合唱でしめた。

 そしてまた天幕が下りてくる。そして朔良ちゃんの姿を隠していく。この幕め、意地悪なことしてくれて……。

 待っててね、すぐに会いに行くからという願いをつばに変換して、あたしは喉をゴクリと鳴らした。

 幕が降りきると、あたしは楽屋へ駆け込み、衣装を全て剥ぎ取った。汗さえ拭くのを半分に、普段着に着替えて通路を走って、観客席に急いだ。

「おっととと!」

 でも、その廊下の途中で、見慣れた少女に出くわした。いや、立派なレディに少女なんて言っちゃダメなんだけど、万国そういう表現に落ち着くだろうから、仕方ない。

「朔良ちゃん!」

 あたしは思わず抱きつこうとして、指先が残り一センチのところで止まる。こんな汗まみれで朔良ちゃんに抱きつくなんて、許されない大罪だ。

 でも、あたしはとんでもない先制攻撃を受けた。

「雪緒ちゃん!」

 せっかく立ち止まったのに、朔良ちゃんがあたしに抱きついたのだ。

「すごかった、すごくよかったよ、雪緒ちゃん」

「ちょ、朔良ちゃん。あたし汗まみれだし、臭いよ?」

 言ったのに朔良ちゃんはあたしの胸から顔を上げない。

「ううん、そんなことないよ。雪緒ちゃんの匂いがするだけ」

 気にしないように朔良ちゃんは言うけれど、それだとあたしはいつも汗臭いことになるんだけど、それは納得してもいいのかな。

 でもいいや即決。朔良ちゃんの体温さえ感じていれば、そんなことはどうでもいいのだ。

「ねぇ朔良ちゃん。そんなにあたし、ちゃんと出来てた?」

「うん、すごかったよ。私、こんなに嬉しかったの久し振りだよ」

 嬉しいという感想は少し違う気もする。朔良ちゃんが褒めてくれて、あたしが嬉しいというのならわかるんだ。

 だから間抜けにも聞いてしまう。

「どうして、嬉しいなの?」

「はは、そうだね。ちょっと言葉がおかしくなっちゃうぐらい、感激してるのかな」

 朔良ちゃんは、はにかむだけに顔を上げて、またあたしの胸に顔を埋めた。

「でもね、本当に嬉しいんだよ? だって私やっと雪緒ちゃんの劇団での舞台が見れたんだよ?」

 そうだった。劇団の顔見せコンパに数合わせで無理やり来てくれた事は一度だけあった。もちろんそれだって奇跡みたいな確率なのに、今度のはその奇跡を二つ組み合わせたくらいなのだ。何せ、プロとしての初舞台なんだから。

 でも朔良ちゃん、やっぱり嬉しいっていうのは、あたしの感想だよ。

「うん、そうだね。あたしも嬉しいよ」

 言って、朔良ちゃんの頭を撫でた。そうするとお返しとばかり、あたしのおっぱいで顔をぐりぐりする。う~んこれって、朔良ちゃんの癖なのかな? だとしたら嬉しいんだけど。

「そうだ、ひとりで来たの?」

「ううん、今日はお父さんもお母さんも一緒よ」

 それなら安心だ。一般的に言ったら、この歳の娘が未だに親御さんと行動しているというのはおかしいのかもしれない。

 ま、それはあくまで一般論だけど。

「うへ~。おじさんやおば様にまで見られたのか~」

 あたしはバツが悪くなってしまった。朔良ちゃんもプロとしての舞台を見るのは初めてだけど、おじさんやおば様なんて、こんなことしているあたしを見るのさえ初めてだろう。いつも通りなあたしから見て、いったいどんな風に思っただろう。ちょっと心配だけど、少し面白いかも。

「うふ、お母さんもお父さんもすごいって言ってたから、安心してね」

「あははは」

 朔良ちゃんは触れてる人間の心でも読めるんだろうか? それとも、あたしだからわかるのかな……なんて考えるのは自惚れか。

「朔良ちゃんこのあとすぐに帰るの?」

「うん、ごめんね。今日はこれから病院なの」

「え、病院って」

 すでに一般診察時間なんて過ぎている。でもよく考えれば、朔良ちゃんなのだからそんな融通はきいて当たり前なのだ。

「そっか、ホントにありがとうね。また今度お家に行くからね」

「うん、待ってるよ雪緒ちゃん」

 名残惜しそうにあたしの胸から離れた朔良ちゃんは、ゆっくりと通路を歩いていった。

 あたしはその姿が角を曲がって消えるまで見送った。

「お~~い、雪緒っち、もういいか?」

「ひゃい!」

 突然背後で円子さんの声がした。急いで振り返ると、ものすごく出来上がった顔をして、円子さんが立っていた。

「ふふ~ん、雪緒っち。まるで恋人との密会だったねぇ……ラブラブだ。思わずよだれが出ちゃったよ」

 全く、いいこと言ったりこんな風だったり、どっちが素なんだろう。

「そ、そんなんじゃないですよ~」

 おどけて返すけど、言ってから本当にそうだろうかとも考える。

 朔良ちゃんの恋人か。

 それはそれで悪くない響きではある。あたしの知る限り、朔良ちゃんは誰ともお付き合いした事がないはず。朔良ちゃんのことを好きな輩はたくさんいただろうけれど、その辺の男どもが想いをおいそれと告げられるほど、朔良ちゃんは普通じゃない。

 普通じゃなくかわいいもんだから、逆に近寄り難いのだ。その点あたしなんて親しみやすいものなのだ。ただし、カレシなどいた事はないがね。というか、好きな人もいたっけ? そんなの朔良ちゃん以外に浮かばないぞ……。

「な、え?」

 軽く驚愕する。

「何? ヘンな声出して。みんな後片付けしてんだから、雪緒っちも早くおいでよ」

「あ、はい……」

 円子さんは軽くあたしの背中を叩いて、ステージの方へ引き返していった。

 でも、あたしの軽かったはずの驚愕が、いつまでも抜けやしない。

 そうか、あたしは朔良ちゃん以外に好きになった人なんていないんだ。もしかしてあたしはそういう人なのか? 異性より同姓がっていう……いや、でもあたしの中にある朔良ちゃんを好きな「好き」と、男の子を好きな「好き」とは違うはずだぞ……って、しまった。あたしはそれがわかんないんだった。経験がないのがこれほど悔やまれるなんて、まさに何てこったというのが正しい。

「うぐぐぐぐ……」

 あたしは唸りながらも、やっとステージの方へ歩き始めた。もちろん、何かがわかったわけじゃない。でもこういうのはきっと経験のないあたしが、ひとりで悩んで考えて、立派に答えが出てくるものじゃない。きっと誰かに聞いちゃったほうが、すっぱり解決するだろう。

「う~ん……」

 だったら誰に聞けばいいんだろう……そんな事を考えていたから、あたしはこれから向かうステージの後片付けで、遅刻のバツとしてとんでもない重労働をすることになるなんて、考えもしていなかった。



 舞台は変わらず初舞台千秋楽の日。ただし全て終って、団員たちはみんな帰ったあとだけど、あたしはひとりでステージをお掃除中。

 とりあえず、この感情をどうにか解決するためにどうしようと、罰ゲームみたいなのをひとりでやっている時だった。

「感心、感心。笠屋もやればできるじゃねぇか……」

「けっ、あんたにそんな事言われたって、嬉しくないっての」

 この夫婦漫才は間違いない。今あたしが確実に頼らなくてはならない二人だ。それにまだ帰っていなかったんだ。さすが責任者。

 よくよく考えるけど、あたしは人に頼る事に慣れてしまっている。それがいい事なのかって、朔良ちゃんに聞いたことがあったけど、「もちろんよ」と、返事が返ってきた。それはあたしが小さな時から朔良ちゃんにおんぶにだっこだっただけで、本当は難しい事なのかもしれない。時間が築く信頼だとかとは別に、その人自身の覚悟とかが、とってもいるんだろうな。あたしはそんな事考えなくていいだけ、きっと楽ちんなんだ。

 だから、朔良ちゃんにもみんなにもいっぱい感謝して頼らせてもらおう。

「座長、円子さんちょっと聞きたいことがあるんですけど……」

「ん、何だ? オレのスリーサイズなら教えんぞ」

「んなもん、いるか~!」

 えと、この人たちはとりあえず何でも漫才のネタにしちゃうのか? いや、でもここでめげてたらいけないぞ。頑張れポジティブなあたし。

「えと、ですな……」

 喋り方までヘンだが、この際気にしてはダメだ。

「女の子は男の子しか好きにならないものでしょうか?」

 質問がさすがにいきなりで脈絡なくてストレート過ぎたのか。座長も円子さんも漫才を中断して、あたしを凝視している。

「おお、おお! 笠屋、恋かぁ~」

「恋だね、恋だねぇ~」

 そうでもないみたいだ。あたしの取り越し苦労だった。ちっともそういう気配のなかった人間が、そういう話をすると、飛びつきがよすぎる。「待て」っていわれていたわんこみたいだ。

「んで、んで、どうしたよ? 何でも聞け」

「何でもって、もう聞いてんでしょ? えと、何だっけ? 男の子があれで女の子がなんたらって……」

 この二人は全く……あたしをネタくらいにしか考えてないな。でも、だからと言って、他に聞く人はいない。ここは妥協だ。

「ええと、もう一度言いますけど、女の子は男の子しか好きにならないんでしょうかって」

「ん~、どうなんだろうな。人としてとか、仲間として、友達としてっていうなら、男も女も好きだがな」

「私もだなぁ。でも恋愛になると、そうもいかないなぁ~」

「っていうのはこの世の中で、大部分を占めてるってだけの考え方だけどな……まぁ俺は、奇麗事を言ってる。実際俺は女の子しか無理だ。きっとそういう風に男に想われても答えられない」

「そうですか……」

「でもね、雪緒っち。想いに答えられないってのは、きっと男だからとか女だからとかってのは関係ないんだよ。これだって奇麗事で、投げっぱなしだけど、結局、自分が好きならどんな形だって受け止められるでしょ?」

 二人の切り替えはとても早かった。すぐに真剣な眼をして、あたしの疑問に答えてくれた。

「だからさ、結論言うと……」

「そうとも言い切れないってこと!」

「おま、俺のいいとこのセリフとるんじゃなぇよ」

「へへ~ん、あんたじゃ決まらないっての!」

 そうなのかなと、少し疑問が解けた気がした。ただし、あたしが朔良ちゃんを好きかどうかっていう疑問はちっとも解決していない。

 これはもしかして、誰かに聞いて答えが出るものじゃないのか?

「……なぜだろう。朔良ちゃんに聞けば一発で解決してしまいそうだ……」

「ん、笠屋。さくらちゃんって誰だ?」

「へっ!」

 ああ、またか。あたしはここがどこで横に誰がいるかがすっぽりと抜け落ちていた。

「ほほう……もしやさっきのあの娘がさくらちゃんなのかな?」

 円子さんは確認もしていないのに、確信したみたいに、わっるい顔をしてあたしの肩に手を置いた。

「なんだよ円子、知ってるなら教えとけ」

「いや~私も今わかったんだよ。そういやただならぬ雰囲気が……」

 随分と勝手に盛り上がっているが、てんで的外れでもないので、口を挟むに挟めない。

 でもって、あたしは知らなかった。こういう時黙ってると、よくないって。

「この罰当番だって、その娘といちゃいちゃしてて遅れちゃったせいなんだから」

「ほっほう。それは興味深いな……なるほど、それでさっきの質問なのか」

 あたしを置いて話がどんどん進んでるぞ。いい加減なにか言わないと、二人の中で、何かが決定事項になっちゃうぞ。

「ちょっと、まってください。朔良ちゃんはそんな……」

 じゃあ、どんなだろう……そんな事が頭の中を横切ったけど、今はおいておく。

「ちゃんと説明しますから……」

 少し長い話になりますよと言うあたしに、座長は奥からパイプ椅子を三つ持ってきて、座るように言ってくれた。

 それからわたしは、朔良ちゃんとの事をひとつずつ話した。出会いから小学生、中学生、そして今のこと。本当に長い話になってしまった。

 それでも座長も円子さんも途中で口を挟むでもなく、聞いてくれた。

「なるほどな……そりゃもう、好きとかいうレベルじゃないな」

「うん。もう長年連れ添った熟年の夫婦みたいだよ。私にゃ、そこまでの人っていなから、ちょっと憧れるぞ?」

「そうですか? んで、あたしは朔良ちゃんを好きなんでしょうか?」

 思い切って聞いてみた。あたしの話を客観的に聞いて、それでどう思ったのかが知りたかった。

「ん~、だから言ったろ? それはもう好きとかじゃないって思うぞ」

「うん、愛だね。しかも何か色々超越しちゃてる感じだ。きっとこういうのは、そんな言葉で区切っちゃうのはよくないんだよ」

「ほぉ、円子もたまにはいい事いうじゃねぇの」

 たまだけ余計だっての、と円子さんは鋭いツッコミをみせるけど、あたしはふたりの意見に胸がいっぱいになっていた。

 あたしの想いは愛だった。

 教えてくれたのはたったふたりの考えかもしれない。でも、こんなに嬉しいのはどうしてだろう。

 あたしの想いは愛なのだ。

 それは誰にだって誇れるものだ。誰にだって胸を張れるものだ。誰の眼にさらされても恥ずかしくないものだ。

 あたしは朔良ちゃんを愛している。

 そしてきっと朔良ちゃんもあたしを愛してくれてる。

 そう力強く思った瞬間に、何かがこみ上げてきた。

「う、う、く……」

「んおっ! どうした笠屋!」

「馬鹿が! あんたが変なこと言って泣かせたに決まってるでしょ! あやまれコノヤロ」

「えっ、そうなのか。すまん笠屋、俺が悪かった」

 突然泣き出してしまったあたしの横で、ふたりがものすごい勢いで慌てはじめる。

 そうじゃないんです。

 そう言いたかったけど、涙が邪魔して無理だった。こんなに泣いてるのは久し振りだ。

 そしてこの涙って、今までのどれとも違う気がする。

 それはきっとちゃんと、自分の気持ちに気付けたからだ。泣いたままあたしにどうしていいかわからずなふたりを見ているのは、いつも面白がられてる仕返しに思っておこう。

 でも、ちゃんとお礼は言おう。

 ありがとうございます、気付かせてくれて。


 あたしは、朔良ちゃんを愛しています。



      2


 無事に舞台もその打ち上げも終ったある日、突然朔良ちゃんから携帯に着信があった。

 簡単な用件や、会いたいってことなら、いつもメールのはずなのだ。それなのに、わざわざ電話してきた理由がよくわからない。

「なんて、言ったって行くんだけどね……あたしは本当に朔良ちゃんが好きなんだな」

 少し照れながら、自転車を朔良ちゃんの家の前に止めた。

 いつものように呼び鈴を押すと、スピーカからおば様の声がする。

「雪緒ちゃん。あがって頂戴ね」

「はい、おじゃまします」

 これもいつも通りのやり取りで、通過儀礼とかいうのによく似ている。そしてまた、ここにやってきた。

 朔良ちゃんの部屋だ。

「朔良ちゃん?」

「いらっしゃい、待ってたのよ。早く入って」

 姿が見えなくても、うきうきがドアの隙間から漏れている感じだった。ドアを開けたら、いっぺんにあふれ出してきて、あたしはうきうきの大波でどこかに流されていきそうだ。それでも開けないわけにはいかない。

 だって、朔良ちゃんの顔が見たいもの。

 まったく、ドアを開けるだけにどれだけ手間取っているんだろう。

「こんにちは~、元気?」

「うん、いっぱい元気だよ」

 朔良ちゃんは本当に元気そうで、でもベッドの中だった。だから、あたしは定位置に腰を下ろす。ベッドの縁を背もたれにする、あのスタイルだ。

「どうしたの、今日は? わざわざ電話なんてくれたから、何事かと思ったよ?」

「ふふん、雪緒ちゃんも何事かなんて思ってくれるんだね」

「ああ、随分意地悪だ。あたしはいつだって朔良ちゃんのこと想ってるのにな」

 なんだろう、本当に今日の朔良ちゃんは特別な感じがする。

「ふふ、ごめんね。でも、今日は特別な日だから、特別な事をしてみたんだ」

「特別?」

 何がそんなに心躍るのだろう。あたしにあえるから? とはちょっと聞きにくい感じまでする。なんていうのだろう。やっぱりウキウキがこぼれてる感じだ。

「ちょっとね、雪緒ちゃんに聞いて欲しい事があったの」

「そうなんだ、これだけうっきうきなんだから、とってもいい事なんだよね?」

「そう、本当はもっと前からわかってたんだけど、やっと報告できる時期になったから」

 なんだろう、本当になんだろう。朔良ちゃんがここまで言う事だぞ。頑張ってない頭を回して考えろ、あたし。

 これは前からわかっていたが、時期というもののせいで言えなかった。

 朔良ちゃんにとって時期というのが関係するとすれば、病気のことだろうか。まさか、また手術するのか? でも確か前に、もう手術はしないとか言っていたぞ……なら、なんだ、何なんだろう? もう、あたしの頭の中には答えみたいなものがないぞ。

「ねぇ雪緒ちゃん、聞いてくれるかな?」

「……うん」

 朔良ちゃんが言おうとしている事にはものすごい「特別」が含まれている感じがする。でも、特に口ごもる風でなく、軽快に滑り出した。そんなだから、あたしにはどれほどこれが「特別」なのか、わからなかったくらいだ。

「あのね、私」

 朔良ちゃんの言葉が途切れる瞬間を狙って、あたしも急いで呼吸する。

「……ごめん、やっぱりちょっと深呼吸」

 続くと思っていたので、あたしは少し拍子が抜けた。せっかくなので、あたしも朔良ちゃんと同じように深呼吸する。

 まぁ、こんなに朔良ちゃんの近くにいるので、深呼吸すると体中が朔良ちゃんで包まれたみたいになる。当然だけど、気分がリフレッシュするというよりは、いい匂いがいっぱいでぼ~っと、世界が霞んでいく。

「よし、じゃあ今度こそ言うね。ちゃんと聞いててよ雪緒ちゃん」

「う、うん!」

 朔良ちゃんの新たなる覚悟の前に、あたしはくにゃっとなっていた背筋を伸ばす。

 そして待った。

一秒、二秒、三秒。

四秒、五秒、六秒。

そして朔良ちゃんの喉の音が聞こえた。

「私ね、私……お母さんになるの」

 ん? なんだ? 朔良ちゃんは何て言ったんだ? お母さん? 演劇のお母さん役でもやるのか? いや、違うな……朔良ちゃんが演劇なんてやるはずないぞ。そうか、今度書くつもりの小説でお母さんが主人公だから、なりきってるんだ。そうだ、そうに違いない。それであたしに、ちゃんとできてるか見て欲しかったんだな。なぁんだ、そんなことかぁ……あたしをビックリさせようとして、朔良ちゃんは、悪戯が好きだなぁ。いや、これも違うだろ。確かこの間読ませてもらったのは、そんな話じゃなかったぞ。朔良ちゃんはいっぺんに二つも三つもお話を書くなんて言ってなかったぞ。そうだ、そうだ。んじゃ、何だ?

 お母さん、お母さんってのは何だっけ。ええと、あたしを産んだのがあたしのお母さんで、朔良ちゃんのお母さんがおば様で、あれ? じゃあ、朔良ちゃんは誰のお母さんになるんだ? んん、あたしのお母さんじゃないし、んあ? なんだ、何だ。わからないぞ、朔良ちゃんがお母さん? そうか、あれだ仔猫を拾って、飼うっていったらおば様がダメだって言ってあたしと一緒にお母さんになって、神社の境内で飼おうってことか、そうか、そうか。

 いやいやいやいや。違う、違う、違う。だいたい、おば様が朔良ちゃんのお願いを無碍になんてするはずがない。

 じゃあ、何だ? 朔良ちゃんは何でお母さんになるんだ? 何で……

「私ね、赤ちゃん産むんだよ……」

 そう、朔良ちゃんいいこと言った。それだよ、赤ちゃん産むからお母さんになるんじゃない。疑問解決。欺瞞氷解。すっきり解消。

 でも待て、あたし。よく考えろ。大事な事を落っことしてないか? 頭の中からすっぽり捨ててないか? 自分の中でありえない事だからといって、世界では日常的なことだってあるんだぞ。目を覚ませ、目を覚ませあたし。わからないことは口に出してみろ。空気に触れさせて、言葉にすれば、何とかなる事もあるんだぞ。ほら、言ってみろ。

「あ、かちゃん……?」

「うん、赤ちゃん」

「うえ? 誰の、赤ちゃん……?」

「だから私の。雪緒ちゃんもお母さんなるの?」

「いや、そんなはず……」

 ええと、口にしてみたぞ。だけど、得られた答えがこれか? やっぱりよくわかってないぞ。それに何にも解決してない。

 ぐわ、あたしはいったいどうすればいいんだ? 教えてよ朔良ちゃん。こういう時、朔良ちゃんはいっつもあたしに答えてくれたじゃん。

「驚いた? 驚いたでしょ?」

 そりゃ驚くけど、あたしは未だに何に驚いていいのかわかってない。えっと、何だ。朔良ちゃんがお母さんになるって言っているのに驚けばいいのか……でも、それってやっぱり意味がわかんない。

「じゃあね、証拠見せてあげるね」

 よくわかってないのに、さらに朔良ちゃんはわからない事を言い出す。これに何の証拠が出てくるんだ? それを見たら、こんなあたしも納得して、すっきり驚けるのか。

「ちょっと、待ってよ」

 朔良ちゃんは嬉しそうにベッドサイドの引き出しをごそごそとやる。そして、小さな手帳を取り出した。

「はい」

「うん」

 受け取ってみるけど、これは何だろう。本当にあたしはわかってないぞ。うん、まぁ手帳のタイトルみたいなのが、打ってあるので読んでみるか。何々……母子手帳って読むのか。んで、これは何だっけ? どうしたらもらえるんだ。

 そう言えば昔お母さんに見せてもらったような気がする。これがあんたと私の縁だよとかなんとか。

 それはつまりあれなのか。あたしに朔良ちゃんがお母さんになるって事をいいかげん認めて、素直に驚けってことなのか?

「どう雪緒ちゃん、私の母子手帳なんだよ? ちゃんと私の名前が書いてあるでしょ」

 確かに朔良ちゃんの名前は書いてある。

「うん」

 真実だから、そう答えるしかない。えと、でも、でも……本当、いい加減にしろって声が体の奥から響いてくる。いつまで目の前にいくつもいくつもぶら下がってる真実から眼をそらしてるんだ? いいかげんにしろ、あたし。

「ねぇ、どうかな雪緒ちゃん。すごいでしょ?」

「うん、すごい。えっとこういう時は、おめでとう……なのかな?」

 恐る恐る、一歩一歩確かめるように。

 それでもあたしはそう言った。認めたわけじゃないのに、言ってしまった。

 きっとそれはもっと真っ直ぐで、心の底から言わないといけないおめでとうだったのに。

「うん、ありがとう! やっぱり雪緒ちゃんに言ってもらうのが一番嬉しい!」

 朔良ちゃんはそういって、とんでもなくあたしにとって凶悪な笑顔を見せてくれる。

 そんなつもりはない。朔良ちゃんがそんな事思うはずもない。だけど、あたしはその笑顔があたしを責めているように思えた。

「でも、どうしていきなりお母さんなの?」

「いきなりじゃないよ、雪緒ちゃん。学校で習ったでしょ」

 まぁ、確かにそれはそうだ。あたしだってその程度の知識はある。赤ちゃんが生まれるまで十月十日っていうのは一般的な基本だろう。

「だから、いきなりどうして今なの?」

 そうだと仮定して、今朔良ちゃんは何ヶ月なのだろう。安定期っていうのが何ヶ月目からかはよく覚えてないけど、今がそれなのかな。どっちにしても、朔良ちゃんのお腹はさして目立ってないように思える。

 いやいやいや、まてまてまて、あたし!

 そうじゃないだろう。それより気になってる事があるんじゃないのか? でもそれは聞いてもいいのかな……少なくともあたしは朔良ちゃんにそういう人がいたのを知らないし、さらされてもいない。

 確かに普段のあたしなら、いくらダメダメでもこういう事は聞かないでいるだろう。

 でも、朔良ちゃんの告白のおかげで、あたしの脳みそはぐっちゃぐちゃなのだ。

 だから不用意な一言っていうのが出てしまう。

「そのさ、お父さんって?」

「ふふ、気になる、気になる?」

 そりゃ、一番気になるけど。そんなにわくわくすることなの? だって朔良ちゃんは結婚してるわけじゃないんだぞ? 嫌な言い方だけど、一般的にはそういうのをできちゃったとか言うはずだ。

「覚えてる、雪緒ちゃん? 四月の初めに一回だけ、劇団の歓迎会か何かでお呼ばれしたことあったでしょ」

 もちろん覚えている。だってあれは一度目の奇跡みたいなものだから。たまたま朔良ちゃんの一年に一回か二回っていう最良日とあたしが誘ったコンパの日が重なったのだ。

 そうだ、確かに覚えてる。あの日、朔良ちゃんはあたしが気付かないうちにいなくなっていた。あたしはそれをいつも通り、調子が悪くなったけど、あたしに気を使って、言わずに帰った。と、そんな風に片付けていた。

 でも実際、朔良ちゃんはあの日に、出会っていたんだ。

「あの日にね、私……」

 いいよ、いい。朔良ちゃん、全部いわなくったっていい。

「ねぇ朔良ちゃん、結婚するの?」

「ん、どうして?」

「だって、朔良ちゃんお母さんになるんでしょ?」

「うん。でもだからって結婚しなきゃいけないわけじゃないでしょ」

 確かにそうだけど、朔良ちゃんの言ったことは、あたしには理解し難いことだ。

「誰なの……ウチの劇団の人とか?」

 あたしはふつふつと心の奥の方が沸騰しかかってきていた。もし、そんな事になれば。あたしはその人をここまで引っ張ってきて、何ぞ申し開きをさせなくてはならない。

「違うよ。劇団の人じゃないと思うよ」

「思う?」

「うん。だってその人、あんなに賑やかな中で、ひとりっきりでいたんだもん」

 ちぃ、どうやらわたしの知る人間ではないようだけど、でも……朔良ちゃん、いったいさっきから軽く言っているその人って何なの? 疑問なんて考えているだけじゃ解決できない。聞かなきゃいけないことは聞かないとダメなんだ。

「朔良ちゃん、相手って?」

「うん、あんなに賑やかだったのに、あの人がいる周りだけ、時間が止まってたみたいだった。なんかね……周りは宴会で春なのに、その人のいる場所は、枯れた冬の林みたいで。お酒飲むでもなく、何か食べるでもなく、お箸でイカリングを突っついてた」

 朔良ちゃんが優しく笑う。それはあたしにくれるものに少し似ていた。けど、どこかが違うものだった。

「それで?」

「なんかねぇ、ほっとけなかった。すごい人ごみなのに、あの人の隣だけ、私のために空いてるんじゃないかって思えたぐらい。そこにだけ、私にだけ、天からおりる光がみえたの。だから自然に声、かけてた」

 朔良ちゃんはまた笑う。それにあたしは驚いた。なんと、朔良ちゃんから男の人に声をかけたのだと知ったから。朔良ちゃんは黙っててもほっといても、男から声がかかるタイプだ。その朔良ちゃんが自分から動いた。それはあたしのよく知る朔良ちゃんの強さみたいなものだろうか。

「あの人って、名前くらい教えてよ」

「うん、でもね実はよく知らないの」

 んん、何だ? またあたしのわからないことが目の前に発生したぞ。まぁ、あたしの朔良ちゃんに限って、その場のナンたらでと言う事はないだろう。それでも赤ちゃんができたってことは、愛し合った結果のひとつであるわけだ。だとして、相手の名前もよく知らないとは、どういうことなんだ。

「どうしてだろうね、あの人の名前なんてどうでもよかったの。どうしてもあの時、傍にいてあげたかった。いるべきだと思ったの」

 疑問符だらけのあたしを置いて、朔良ちゃんは遠くに行こうとする。まるであたしの知らない世界へ旅立つ車窓の中。

「それでね、ゆっくりお話したいなって思って、お店出ちゃったの。でもあんまりそんな静かにお話できるところなんて知らないから、近くに見えた、綺麗なホテルに入っちゃったの。そしたら……」

 ああもう、お決まりのパターンだな。確かに静かでお話するにはもってこいだろうけど。

 ま、残念ながらあたしはそんなとこへ行ったことなんてないので、本当はどうかなんて知らないんだけど。

「で、どうしたの?」

 たまに相槌を打ってないと、あたしもやりきれない。

「中ね、本当に綺麗で静かだった。それでお話したの。どうしてだろう、本当にわからない。初めて会ったのに、あの人私にすっごく色々話してくれるの」

「どんな話?」

 あたしはさして面白くもない話だろうと思っていた。

「うん彼ね、本当に寂しくて、本当に辛い思いしてきた人だった。家族もいて、両親健在で兄弟もいて、でもずっとひとりだったって、教えてくれた。一番愛されなきゃいけない人に愛されてなくて、一番大切にされなきゃいけない時期にたくさん傷つけられて、たくさん傷ついて。きっとね、私も辛かった事ってあったと思う」

 何を言うの。朔良ちゃんは人一倍苦労してるし、辛かったことを乗り越えてきたんだよ。

「でもね、私はその分いっぱい愛されてた。いっぱい抱きしめてもらった。お母さん、お父さん、それに雪緒ちゃん。いっぱいでいっぱいの愛が私にはあった。でもあの人にはなかった……」

 そこで朔良ちゃんの声が詰まった気がした。それでも朔良ちゃんは思い出すように、話を続ける。

「私の不幸だって、あの人の不幸だって、誰かと比べたら、たいした事じゃないのかもしれない。でもね、私はあの人を抱きしめてあげたくなったの。私がしてもらったみたいに、温かさを教えてあげたかった」

「朔良ちゃん……」

「雪緒ちゃんにもらった、たくさんのあったかをあげたかったの。彼、小さなときから家庭環境がよくなかったの。気付いたら抱きしめられる事を覚えるのには大きくなりすぎてたって……だから私しかいないと思ったの。いまでも雪緒ちゃんにいっぱいもらってる私ならしてあげられるって思った。そう思ったら、想いが止まらなくなってた。不思議だよね、こういうのを一目惚れとかっていうのかな?」

 そうはにかんで向ける顔は、ものすごくかわいかった。もしかしたらあたしの知る限り最高だったかもしれない。

 いや、あたしの知らない新しい笑顔だったかもしれない。あたしが体験した事のない気持ちや感情を含んでいて、少し心が歪んだ。

「まるで私が抱きしめるために、あの日あそこに居たみたいだったの。ううん、待っててくれたんだと思う。私がみんなにもらったものを返すチャンスをくれたんだと思う」

 朔良ちゃんはあたしのまどろみを無視して、力強く宣言する。こういう時の朔良ちゃんは本当に強いんだ。だから、あたしは従うしかなくなる。でも今は聞くことだけ。それだけに従う。

「ふふ……」

 どうしたんだろう。いままで真面目に話をしていたのに、朔良ちゃんは急に笑い始めた。これじゃ、せっかくの決意がぽきんと折れる。

「どうしたの?」

「ううん。ちょっとね、雪緒ちゃんにはじめて勝っちゃったのかなって思って」

 あたしは何の事か、またまたわからない。前にも散々言ったが、あたしが朔良ちゃんに勝つことができるものなんて、何一つないのだ。それをはじめて勝った? ありえない。あたしは全てにおいて負けている。

 逆にあたしは負けすぎていて、改めて何に負けているかわからない。

「あたしって、また何に負けたの?」

「だって雪緒ちゃん。男の人と、そのお付き合いとかしたことないでしょ? 私だってしたことないけど。ほら、その先は知ってるわけだし」

 朔良ちゃんはちょっと得意そうにして、あたしを見る。

 む、確かにちょっと悔しい気もする。だけど、やっぱり何かが根本的に違う気がする。

「どう、雪緒ちゃん。少しは悔しい?」

「確かに悔しいけどさ。そうじゃない気がするんだ」

 口にはしたものの、上手くその先へと続けられない。何かが間違っているとは思う。でも、それは朔良ちゃんが決めた事なんだから、否定したくないあたしがいる。

「どうしてそうじゃないって思うの? 私がお母さんになるの、褒めてくれない?」

「ううん、違うの。お母さんになるのはすごいって思うし、おめでとうだって朔良ちゃんが嫌っていうぐらい言っちゃうよ」

「だったらいいでしょ?」

「いい、けど……」

 そう言うしかなかった。でも納得なんていくわけない。だからあたしは立ち上がった。

「どうしたの?」

 突然だったから、朔良ちゃんも驚いたみたいだ。でも、今日あたしはこれ以上ここにいられない。

「ううん、もう帰る……今日は帰るね」

 あたしは朔良ちゃんの返事や挨拶を待たずに、部屋を出た。きっとものすごく悪い態度だろう。今度来たら、謝ろう。でも今はごめん。

 あたしは言わなきゃいけなかったことを、廊下の角っこに置いてある大きな壷の中にぼそぼそと呟いて蓋もせずに階段を下りた。

 そのまま玄関へ向かおうとしたとき、おば様があたしを呼び止めた。

「雪緒ちゃん、時間があるなら、こっちでお菓子でも食べない?」

 おば様がこんな風に呼び止めることは少なくなかった。子どもの頃から、どこかから頂いたお菓子のおすそ分けだと、帰りにはよく持たせてくれたものだ。

「はい……」

 もちろんお菓子に目がないあたしは、二つ返事。これも子どもの頃から変わらない。

 こんなお茶会では、おば様とふたりきりでよく朔良ちゃんの話をする。おば様はあたしフィルターを通して、朔良ちゃんの話を聞くことが趣味みたいなものだった。

 でも、今日はやっぱりヘンだ。そのお茶会には先客がいて、あたしを待っていた。

 それは色々見てる家政婦さんでもなければ、誘拐犯からの電話を待つ刑事でもない。

 朔良ちゃんのお父さんだ。

「おじさん……」

「雪緒ちゃん、久しぶりだね。こっちに来て早く摘もう。雪緒ちゃんの好きな、あのクッキーもあるぞ?」

 おじさんは娘を呼ぶように、あたしに優しくしてくれる。もちろん、それは今日だからではない。いつものことだ。

「う、はい……」

 あたしはゆっくりと近付いて、ふっかふかのソファーに沈み込んだ。

「紅茶、まだ?」

「はいはい……今もって行くから。雪緒ちゃんはミルクティーでいいのよね」

「はい」

 あたしはよくわからないままに、いつものお茶会の要領を踏んでいく。あたしがぼ~っとしてるうちに、お茶会の準備は整い、おば様も席についた。

 そして軽いのにしなやかな歯ざわりのクッキーをぽくぽくやりながら、お茶会は進む。特に会話がなかったのは、やっぱり異常だった。

 それでも、あたしが最後のクッキーに手を上したとき、おじさんが口を開いた。

「なぁ雪緒ちゃん」

「はい……」

 見ると、いつの間にかおじさんもおば様もカップを置いて、あたしをじっと見ていた。

「朔良から、聞いたかい?」

「…………」

「その、赤ちゃんのこと。あの娘、雪緒ちゃんに言ったかしら?」

「はい……その、驚いてます。それに何だか信じられなくって……」

 あたしはクッキーを掴んで、口にも入れずそのまま手に握った。

「ええ、そうね。私たちも聞かされたときは信じられなかった。でもね、事実病院へ行っていれば、そんなことはすぐに信じなきゃいけなくなるの」

「はい……」

 あたしはまるで叱られているようだなって思った。分からず屋に、ちゃんと順序だてて、ひとつひとつ教えていてくれる。そんな風だった。

「朔良はどんな風だった?」

「とても、嬉しそうでした……あたしにやっと勝てたって喜んでました……もともとあたしなんて、朔良ちゃんに何一つ勝ってないのに……」

「そう、それはよかったわ。嬉しそうだったのね。でもね雪緒ちゃん。あなたが負けてるなんてことはないのよ。だってあなたはあの娘のヒーローなんだから」

「そうだぞ、ヒーローが一般人に負けるわけない」

 あたしは慰められている。でも、今そんなことはどうだっていいはずだ。

「違うでしょ……おじさんおば様。今はそんな事じゃないでしょ!」

 あたしはちょっと声を荒げていた。みっともなく、本当にダメダメっぷりを発揮していた。

「そうだな。雪緒ちゃんの言うとおりだ」

「……朔良ちゃんの言ってた通りだとしたら、おじさんやおば様は怒らないんですか? 朔良ちゃんを……ううん、むしろそんな原因になっちゃってるあたしを!」

 あたしは八つ当たりをしている。朔良ちゃんがあたしをちっとも責めてくれなかったから、それをおじさんたちに求めてる。

 いっそ楽なのだ。そうやって責められるほうが。ゆっくりと噛み締めて理解する必要がなくなる。単純に怒られて、責められて、その時はすごく痛いとしても、とてもすっきりとする。そして、すっぱりと忘れられる。

 でも、そうしてくれない。誰もそうしてくれない。

「そうか……でもね、俺たち驚きはしたけど、怒ってなんていない。なあ?」

「ええ、朔良はね今まで生きてこられただけで、本当は奇跡なの。きっと雪緒ちゃんに会えなかったら……私たちだっていっぱい愛していると思ってるわ。でもあなたがいてくれなくちゃ、朔良は頑張れなかった。そうして、また奇跡を起こそうとしてる。それはあなたが運んできてくれたのよ」

「でも! 病気はどうするんですか。朔良ちゃんの病気……そんなのがあるのに、お母さんになるなんて、大変すぎます! もしかしたら、朔良ちゃん……朔良ちゃんが! それでもいいんですか! あたしは嫌です、そんなの嫌、嫌、嫌!」

 苦し紛れだった。あたしの言ったことに、おじさんもおば様も凍りついた。

「……雪緒ちゃんは、あの娘から聞いてないのか?」

「え?」

「あの娘ったら……赤ちゃんの事で頭がいっぱいだったのね。それだって今まで我慢してたんだもの。仕方ないわ」

「え?」

 あたしは話が全く見えなくなっていた。今までは単純に責められればいいと躍起になっていたけど、今はなんだろう。いきなり籠の外に出されて、どうしていいかわからない鳥みたいだ。

「雪緒ちゃん」

「はい!」

 真剣なおじさんの声があたしの意識をしゃんとさせる。

「その事は、また朔良が話すと思う。だからちゃんと聞いてやって欲しい」

「ただね、私たちはどんなことでも、どんな結果だろうと、朔良が望んだ事はどんなものだって受け入れてあげたいの。だから雪緒ちゃんも受け止めてあげて……」

 あたしはなんと答えればいいんだろう。考えてみたけれど、結局「はい」というしかない。でもあたしは声に出して言葉という現実を作るのが怖くて、コクンと頷くだけだった。

「ありがとう……」

 なのに、夫婦ならではのシンクロを見せて、声を重ねてあたしなんかに頭を下げてお礼をくれた。

 もう帰ると言ったあたしに、残ったクッキーの缶と、もうひとつ新しいのまで包んで持たせてくれた。

 その紙袋を自転車のハンドルに引っ掛けて、もう暮れた空を時々眺めながらしょんぼりな帰り道を押し歩く。

 あたしは薄々だけど、おじさんとおば様が言った事を理解していたんだ。

 朔良ちゃんの病気はそんなに軽いものじゃない。

 そしてお母さんになる事、出産はそんなに軽いものじゃない。

 二つは重い。重い二つが重なれば、もう沈み込んでいくしかない。数学みたいに二つのマイナスを掛け合わせればプラスになんてなりはしない。たとえ心がそうなっても、体まで都合よくいきはしない、

 ただ沈むだけ。朔良ちゃんの命をどこかへ落とすだけ。暗い暗いどこかの底へ。

「命……落とす……」

 思考からノイズのようにもれ出てしまった言葉が、あたしに現実を押し付ける。

 それは朔良ちゃんが死ぬということだ。

 それは朔良ちゃんがいなくなるということだ。

 あたしの前からいなくなる。あたしの声が届かない場所へいってしまう。

 現実味は帯びていても、現実じゃない分まだ耐えられる。

「あたしはその時、どうすればいいんだろうね、朔良ちゃん……」

 あたしはさっき別れたばかりなのに、今すぐ引き返して、朔良ちゃんを抱きしめたくなった。

 いつもなら迷わずそういていたと思う。でも今日はできなかった。月と電灯が作るあたしの黒い影が、何かでアスファルトに打ち付けられてるみたいに、動けなかった。

 それなのに、家へは順調に足が進む。本当に進む。よどみなく、足早に。やがて耐え切れなくなって、自転車にまたがり、精一杯の力でペダルを踏み締め始める。一刻も早く家に帰りたい、お風呂に入りたい、自室に行きたい、そしてかたーく目をつむって、思い切り寝たい。

 あたしはそれを「逃げる」って言う事を、初めて知った。




       3


 どんな勢いかは知らないが、あたしは二日も劇団の稽古をサボってしまった。

 そしてさすがに三日目は自分的にも許せなかったので、こうして坂道を下っている。

 しかしながらペダルこぎにもいつもの精彩さなどないわけで。まるでどろんこバレーなみの重さです。元気だけが取り得の癖に、これじゃ形無しってやつだ。

「全く、どうしたもんだろ……」

 正直、たった二日サボっただけなのに、ものすごく気が引けている。先輩たちの中にはバイト続きで、公演の谷間など、一週間に一回しか来れない人だっている。

 もちろん、それと比べられないなんて、言われなくてもわかってるよ。

 自発的に行かない人と、必然的に行けない人じゃ、どうしようもない差がある。あたしはいつものダメダメちゃんぶりを遺憾なく発揮しているわけです。

 というわけで、いつもならノーブレーキでさらに加速までして下っているルートを、今日はブレーキを酷使して、トロトロ進んでいる。秋の空は無駄に高くて綺麗で、道端に吹きだまっている黄色や赤の落ち葉も、なんだかしっかり目に入って、痛いぞ。ホント、綺麗なもの全部があたしを責めてるみたいだ。

 別に劇団に行くのが嫌なわけじゃない。むしろ色々体を動かして、すぱっと切り捨てたい気分の方が大きい。それなのに、右手も左手も必要以上にブレーキを握りやがる。この、ご主人の気持ちを察せ!

「って、察してるからこうなんだよな……」

 ひとりでにぎゅーぎゅーやってるわけじゃない。あたしの意思で明確に従順に動いてるのだ。これはあたしの意思なんだ。

 いや、意志というより迷いなんだろう。

 あたしはやっぱり、まだ悩んでいるんだ。

 でもそれは当然だろう。今、朔良ちゃんが言ってる問題はそう簡単に、はいそうですかと納得なんてできないものだ。あたしは最後まで納得なんてせずに、闘わなければいけない。

「そうだよ、この納得できない現実とさ……」

 あたしはそう口に出す。少しはそれで決意が固まると思ったからだ。その通りかどうかは知らないけど、ペダルをこぐ元気は出てきた。秋の朝の風はそろそろ冷たいけど、まだまだ暑い。

 あたしはそれに負けないよう体を倒しこんで、自転車を飛ばした。


 とはいえ、その勢いは稽古場につく頃にはすっかり萎えていて、稽古場に入るのも、億劫になっていた。

 あたしはそろそろと覗くように、入り口でまごまごしていた。だがその背中がばち~んとリズムよく叩かれた。こんなことをするのはもちろん、あの人しかいない。

「いったいです、円子さん!」

「にゃははは。サボリ少女にはこれくらいでいいのだよ」

 う、それを言われると反論できない。病気でもなんでもない以上、サボリ以外のなにものでもない。弁明のしようなんてないのだ。それに、こんな風に明るくしてもらえれば、気分も晴れる。

「ま、気にしないことよ。役者が何らかの理由でサボるってのは、よくある事だし。気分転換気分転換」

 円子さんは笑うけど、本当にそうなのかは、わからない。でも、そう言ってくれているんだから、あたしはそういう事にしておけばいいのだ。ここは円子さんの優しさに甘えておけばいい。だってあたしはそういう役回りなのだから。

 もう、そういうのが朔良ちゃんのおかげで染み付いてる。特にそれが嫌だっていうわけじゃない。甘えていいよと言われて躊躇できるほど、大人ではないのだ。

「ほら、入った入った。みんな待ってるよ」

「はい」

 円子さんに後押しされて、あたしは稽古場に入る。そうでもしないといつまでもあたしが、中に入らないと思ったのだろう。

 事実、あたしは甘えることに慣れていても、気持ちの整理とかは苦手なのだ。

「おはようございます……」

 あたしはいつものようでなく、語尾を下げて挨拶してしまう。それに反応するのは、円子さんと同じく座長くらいだ。もちろん他の先輩団員たちも心配してくれる。

 演技っていうのは悩むものだ。これでいいのかっていう葛藤は常にある。だから、ナンにしたって、他人の悩みとかには、とっても敏感なのだ。

 特に座長や円子さんは劇団じゃ、それこそ相談役みたいなものだ。下っ端のあたしだって放って置かないのが、この劇団のいいところ。というか、二人の性分なのかもしれない。

 だからなのか、これはチャンスなのかわからない。忘れるチャンス、整理するチャンスとか。その日のあたしは一人特別メニューだったみたいだ。

 でも、汗を流すくらいで出て行けばいい。

 でも、体を動かすくらいで出て行けばいい。

 でも、無理だった。

 いや、だけど無理だった。

「うし、今日はもういいぞ。みんな上がりだ」

「おつかれさまでした……」

 あたしの声は枯れていた。別にそれほどの発声練習をしたわけではない。それに、あたしの喉の強さは自慢できる唯一のものと言ってもいい。なのに、枯れている。

 練習だってミスばかりをして、みんなの足を一人でひっぱった。二つの手しかないくせに、千手観音か? というくらい、引っ張った。

 だからあたしは自発的に掃除をしていた。

 体を動かして汗を流しても消えないものが、床磨きの単純繰り返し、ベルトコンベアー系作業でどうにかなるとは、到底思ってない。でも、言わばこれは罪滅ぼしなので、あたしの抱えてる悩みとかとは、別物だ。

 だから、当然何も期待なんてしていなかった。

 でもあたしは随分、神様に愛されているらしい。その愛は朔良ちゃんに分けてあげたい気分満点だが、今は素直に甘えたい。

 あたしは背中に近付いてくる気配に、とても安心した。

「やってるな。自発的なんて、みんな見習わなきゃな」

「そそ、綺麗好きで、掃除の得意な女の子はポイント高いんだぞ」

「なるほど。だからお前はモテないんだな?」

「ほっとけよ!」

「あはは……」

 あたしは今日、はじめて笑ったのかもしれない。この二人は、朔良ちゃんとは違う、あたしの安心のツボを押してくれる。

「お、笑ったな。う、うん……笑った顔、いいと思うよ……」

「ぶ、何いきなり作ってんだよ! 今、真顔で言われたって面白い以外何もないっての!」

「そうなのか?」

 自身消失の座長を、円子さんがそうそうと相づちをうって慰める。ホント、いいコンビだ。どうして男女の関係を切っちゃったのか、あたしにはわからい。

「んでさ、どうしたんだよ?」

 急に座長は話を本題にする。全く唐突だけど、とってもナイスなタイミングだろう。

「ほんとだよ。つまんないミスばっかでさ。ぜんぜっん、雪緒っちのいいトコが出てなかったよ」

 まぁ、図星なんだけど。逆にここまで見抜かれていると気持ちいい。何を話しても大丈夫な気さえする。どっちみち、あたし一人じゃ整理のつかない話なんだから、聞いてもらえばいいと思う。この二人ならあたしに答えを導いてくれるかもしれない。

「また、長いのか?」

「……はい」

 あたしは呟く。ここにはパイプ椅子も見当たらないので、あたしはその場にぺたんと座り込んだ。

 それを見て、座長も円子さんも座る。

「赤ちゃんってどう思います?」

「おっと、唐突だな……ん、まぁかわいいぞ」

「だね。たまに電車とかで見かけるけど、すごく幸せそうだね」

 それはきっと見た感じの印象だろう。あたしが知りたいのはその先だ。

「じゃあ、お母さんになるってどうなんですか?」

 特に不用意な一言ではないと思うけど、二人が一瞬顔を伏せた気がした。でも、あたしは続ける。だって、疑問はこれからなんだ。

「前に言いましたよね。あたしの友達なんですけど……」

「ん、ああ。朔良ちゃんだっけ?」

 気を取り直したように、円子さんは言う。

「ホント、すごく体が弱くて……その娘がですね……その、お母さんになりたいって言ってるんです。それにはすごい覚悟が必要で、何にしたって、命の危険性っていうのが出てくるんです」

 二人はさすがに面食らっていたみたいだ。

「む、なかなかハードだなそれは……ちょっと腰据えるか……」

「うん……そうだね」

 どうしたのだろう。いつもの感じが二人から一瞬で消えた。

「で、笠屋は何が気掛かりなんだ? その友達の命か、それとも出産か?」

「もちろん、どっちもです」

 答えてからあたしは気付く。もしかしたら、あたしの中でその二つは、天秤にかけたとき、明確な結果が出ているものなんじゃないか?

 あたしの中で一番気掛かりなもの。

 それはやっぱり、朔良ちゃんの命なんだ。

もちろん、新しい命が大事だって十分にわかってる。でもあたしはまだ見た事もない命を朔良ちゃんと比べるなんてできない。

 たとえそれが朔良ちゃんの赤ちゃんだって、あたしは……そう思っている。

「ううん……友達の命です」

 あたしは力強く言った。間違いだって構わない。これは今のあたしの真実なんだ。

「そうか……これはな、きっと簡単じゃない。どっちにしたって命なんだ……」

 座長は急にトーンを落とす。それはさっきよりも、もっとだ。本当に役でさえ聞いた事ないほど、深くて染み渡る声だった。

「あんた……」

 そして、なぜか円子さんまで深刻に声を落とす。もちろんあたしの言った事はそんなに軽いものでもない。でも、二人がここまで深刻になるものでもない気もする。何と言ってもこれは相談なんだから。親身になってくれるのは本当にうれしい。でも、はっきり言って、今の二人の形相は異常だ。

「雪緒っち、これから言うのはさ、まぁ体験談みたいなもの。これを聞いたからって、あんたの今の感覚を変える必要はないよ。でもね、考えるためのスパイスとでも受け取ってね」

 円子さんは、あたしをまじまじと見つめて言う。演技のアドバイスをくれるときと、また違う。真剣である事に変わりはないけれど、なんていうのか、道が二つあってそのどっちかってもので、比べる事も出来ないものだと思った。

「はい……」

 あたしも腰を据えなければいけないのだろう。尋ねたのはあたしなのだ。

「昔あるところにバカな男にだまされたかわいらしい女の子がいました……」

 真剣なわりに、語り口調だった。でも、あたしはこのほうが聞きやすいので、放置。座長も突っ込まないし、これでいいのだろう。

「その女の子は男が大好きで、親の反対を押し切って、同棲を始めてしまいます。男はバカだけど、女の子を愛していました」

 合いの手なんて、入れる暇もなく、円子さんはあたしと、もっと違う何かを見ながら話しているみたいだった。

「もちろん、結婚も考えます。しかし、女の子には一つの欠陥があったのです」

「……欠陥じゃないだろ」

 また低い声がする。それは後悔にどっぷりとつかったものだ。でも、円子さんはそれさえも無視する。安いプレハブの屋根が、柔らかな風にさえ、ガタタっと不気味な音を立てる。それはこの場にいて、誰の心だろう。それはあたしでもあるし、二人でもある気がする。

「その欠陥は赤ちゃんが産めないというものでした。女の子は男の赤ちゃんが欲しかったのです。でも、そうとわかった男は、赤ちゃんの分まで愛すると言ってくれました」

 あたしは単純なので、それでいいんじゃないかと思った。別に赤ちゃんがいなくたって、女の子を愛するって言っているのだから。

「でも、女の子にはその男の優しさが、重かったのです。その女の子にとって、好きな男の赤ちゃんを産むということは、本当に特別な意味を持っていたのです。新しい命を紡げない自分が酷く惨めでした。世界にいて、自分がどれだけ無意味かとも思いました。女の子にとって、赤ちゃんを産むということは、当たり前で、当たり前の幸福だと思っていたのです」

「それでも、男は女の子を愛していました。言った事にも、一片の嘘もなかった」

 耐えかねたように、座長の語りが割って入った。

「でも、重かった。何もかもが重かった。命を育めない自分の運命、それでも愛するといった男の愛。だから女の子は逃げ出したのでした」

 いい終わって、円子さんはパチンとひとつ手を打った。

「はい、お話は終わり。要するに私が言いたいのは、本人にとって、赤ちゃんを産むっていうのはそれなりの覚悟や、願いなんかが詰まってるってこと。だから、実は外側からってのはよくわからない」

「でも、男が言ったのも、やっぱり本当なんだ。新しい命がなくたって、その人の命だけでいいってな。今の笠屋に似てるかもな」

「はい……」

 あたしは頷く。円子さんのお話はとても考えさせられるものだった。人にとって、命を紡ぐってことは、とても大切な事だ。あたしだって、そうやって生まれたんだから。そして、あたしも女なのだ。もしかしたら、いつかそういう事になるかもしれない。その時、あたしならどうするだろうか。もしお話の男のような人がいて、あたしの命だけでいいって言ってくれたら、あたしはどうするだろうか。

「笠屋、悩むんだ。俺だって今も悩む。役者にとってな、一番重要なのは想像力だ。役の全てが全て、体験できる事で出来てるわけじゃない。人を殺した事なんてなくても殺人鬼の役を振られる事はある。そんな時どうするよ? 人でも殺すか? できねぇだろ。じゃあ実際殺人鬼に話しでも聞きに行くか? とてもじゃねぇが、知り合いでも門前払いだ。だから、もしもで考えるしかないんだ。自分に置き換えたり、想像上で人に代役してもらったりな。だから、お前も想像するんだ。それで出した考え方や結果なら、自信もて。お前は間違ってない……」

 座長はあたしを見据えるようにして言う。そして急に立ち上がった。

「行くぞ、円子」

「ちょ、智、待ちなよ!」

 連れ出すように円子さんを呼んだ座長は、そのまま稽古場を出て行った。

 あたしは一人になったステージに、ごろんと寝転がる。少しも高くない天井を見ながら、じっと朔良ちゃんの事を考える。

「へぇ、座長の名前って、ともって言うんだ………」

 口にはできるだけくだらない事を浮かべながら、考える。

 朔良ちゃんの命と、赤ちゃんの命。朔良ちゃんにとってはどっちが大切なのか。言うまでもない、赤ちゃんだ。

 はっきりと朔良ちゃんもおじさんもおば様も言わなかった。でも、朔良ちゃんの体はもう一度のメスに耐えられるものではないのだ。

 なら、どうして? 帝王切開ってのにすれば自然分娩より、遥かに楽なんでしょ? いやそもそも、一度のメスに耐えられない朔良ちゃんが、帝王切開に耐えられるの?

 あたしの考えはまわりだす。歩行者に優しい路線バスなみだけど、ゆっくりとまわりだす。

 でもまわるだけ。想像しろとか悩めとか、それが大事なのはよくわかる。でも、答えが出るってわけじゃない。

「きっとあたしは、あの時朔良ちゃんにきちんと聞くべきだったんだ。どうしたいのか、どういう結果をあたしに見て欲しいのか……」

 だったら、こんな所で、汚い天井をぼんやり見ている場合じゃない。

 あたしはあたしの考えをどうするか、朔良ちゃんの答えを聞かずに決める事は出来ないって、やっとわかった。

「よっと……」

 あたしは首を持ち上げて、その力に逆らわずに立ちあがる。小さなプレハブなのに、ステージから誰もいない空間を見ると、ものすごく広く見えた。それは広いっていうより、空虚とかいった方がいいのかもしれない。

 だから気付いた。朔良ちゃんはいつもこんな風だったのかもしれない。ここに比べたら、さすがに朔良ちゃんの部屋は小さいけれど、それでもひとりには広すぎる。そこに、小さなベッドを並べて、新しい命とすごせたら、それはとても素敵なことなのかもしれない。

 おば様たちは、あたしがいるって言った。でも、本当はあたしなんて、あまり役にたっていない。だって、いつも朔良ちゃんの傍にいたわけじゃない。いつも手を握っていたわけじゃない。

 でも、いつも求めてくれる小さな手があったらどうだろう?

 それは力になるんじゃないか?

「考えて出た結果だ……それなのに、どうしてこんなにもあたしは気持ち悪いの? ねぇどうして朔良ちゃんには一つの選択肢しかないの? どっちもっていうのがないの? あたしの想像の中の小さな手は誰が握り返すのよ! ねぇ、ねぇ、朔良ちゃん!」

 誰もいないのはいいことだ。あたしは心の底から腹式呼吸で言い放ってやった。残念なのはここに朔良ちゃんがいないってことだ。

 朔良ちゃんは逃げているのだ。自分が赤ちゃんを産んだ後の世界から逃げているのだ。

 お母さんでいる世界から逃げている!

 自分の命から逃げている!

 それは「これから」から逃げているんだ。

「だったらあたしに、何ができる?」

 それはとても簡単なこと。友達が間違った事をやろうとしていたら、どうするか。それは止めなきゃ。ましてあたしを助け続けてくれた朔良ちゃんだぞ。何を迷ったり、ためらったりする必要がある。あたしは全力であたしの意見を言って、間違いを教えなきゃいけないんだ。

 いつもいつも、朔良ちゃんが正しいわけじゃないぞって。

「でも、本当にあたしはどっちもが天秤でつり合ってるって思ってるの……」

 張り上げた声が、プレハブの中に拡散していく。反響もしないで、誰にも届かないで、ただ消えていく。

 静かで、とても静かで、そんなあたしが張り上げた虚勢を誰かがクスクスと笑っているみたいだった。

 でも、だからあたしは行かなきゃいけない。朔良ちゃんの答えをこの耳で聞いて、もう一度考えて、そして、あたしを朔良ちゃんに叩きつける。

 そうしないと、本当に朔良ちゃんが消えてしまいそうで、怖かったから。


      4


 だからあたしは走った。もちろん自転車なんだけど、朝の吹き溜まった落ち葉を全部空に舞い上げてやるくらい走ってやった。

 秋の夕べってやつは、本当に暮れるのが早くって、あたしは自転車のLEDライトをつけている。その光軸はあたしの背中を見つめてる、まんまるお月様とおなじで、すごく明るい。

 やっと難所の坂道頂上まで上ったあたしは、辛くなった呼吸を整えるため、豪快に息を吐いた。そして、夜空になっちゃった上を見る。

 そこにあるのは、やっぱり綺麗な満月。

「もちろん、後押ししてくれてるなんて、思ってないからな!」

 あたしは今までいっぱい誰かの力を借りてきたんだ。だから、これは自分ひとりでやりとげる。

 ちっぽけであやふやでも、決意をしてみると意外に勇気とか出てくるもんだ。満月さえ、童話みたいに、にっこりスマイルした気になってくる。

「ふふふ、そうまでしてくれるなら行くさ。ダメダメちゃんの一大決戦だ」

 あたしはペダルに足をかけて、朔良ちゃんの家まで残り七百メートルに精一杯をぶつける。秋の風を斬って、落ち葉を吹き飛ばして、満月を背負って、柔らかい金木犀の香りの中を走り抜ける。そして大きな門の前に、あたしは自転車を止めた。長袖のカットソーとTシャツの重ね着だけでは、さすがに寒いはずなのに、あたしの全身の肌には薄っすらと汗の幕が張っているみたいだ。それはとても心地のいい汗だ。これから決戦へと赴くあたしにとって、それはほら貝の音みたいなもんだ。

 あたしはこんばんはもそこそこに、どたどたと、二階へと上がった。おば様はきょとんともせず、あたしのぷらぷら揺れる尻尾を見送ってくれた。

 いつもは長い廊下に面食らっていた。いつもはでっかい額にはまった油絵に臆していた。いつもは高そうな壷にビビっていた。

 でも今日は違う。

 そんなものにあたしは目もくれない。真っ直ぐにぺたぺた歩いて、朔良ちゃんの部屋のドアをノックする。

「はぁい……」

 ノックに朔良ちゃんが返してくれる。

「あたしだけど……」

「えっ? 雪緒ちゃんなの!」

 そりゃ驚くだろう。あんな最悪的な別れをやっといて、まさに舌の根も乾かないうちに、こうしてのこのことやってきているのだから。

「入って、はやく!」

 朔良ちゃんはすごく興奮したみたいで、豪華なドア越しにも、はやる声が漏れてくる。

 それはあの日となんだか同じみたいで、あたし自身リベンジ魂に火がつく。もちろんそんな軽いことでも簡単なことでもないっていうのはわかっている。でも、こういうのはテンションも重要なのだ。

 だからあたしはちょっとおおげさにドアを開いて、部屋に入った。

 全体的に白い朔良ちゃんの部屋が、夜と優しい蛍光灯の光で、さらに幻想的で柔らかく淡い世界になっている気がした。でも、この柔らかさにあたしは負けちゃいけない。きっとこれからするのは、下手すればあたしと朔良ちゃんの、初めての大喧嘩になるかもしれないのだ。

「今日はどうしたの? 突然来てくれて」

「うん」

 疑問はもっともだ。だってあたしは見るからに元気そうだし、やる気が溢れてる。どっちかっていうと、突発的に朔良ちゃんの部屋をあたしが訪れる時、総じてありえない酷い顔をしている。それは外傷じゃないけど、もう、中身の傷がじゅわっと、外に出てきてしまっている感じ。

 もちろん今日だって、お腹の中にしまってある気持ちはそうとうな重傷。

 でも今日のあたしには、やらなければならないことがあるのだ。だから、引けない顔をしていられる。

「座っていい?」

「そんなの聞く必要ないでしょ? 早くこっちに来て……」

 あたしを呼ぶ朔良ちゃんは、ベッドから少しだけ覗かせたかわいい手招き。

 もちろん、あたしはいつもの通り、ベッドの側面を背もたれに、ぺたんと座る。

 それを待っていたかのように、あたしの尻尾を撫で始める朔良ちゃんまで、ワンセット。

 だからって、気は抜かないぞ。さわさわしてくれる手が気持ちよくったって、しっかりと意識を保つんだ。

「ねぇ朔良ちゃん……」

「ん?」

 名前は呼んでみた。でも、やっぱりどこかしり込みしているんだろうか。続けなきゃいけない言葉が、どうしても出てこない。

 その間にも朔良ちゃんのサワサワ攻撃は続いているわけで、あなどれない。しかし髪の毛なんて根元にしか神経ないくせに、どうして撫でられると、こんなに気持ちいいの?

「ああ、もう! 朔良ちゃん」

「ん、だからなぁに?」

 あたしは振り向いて、つるんと朔良ちゃんの手から尻尾を取り上げる。そしてそのままベッドの縁にすがって、朔良ちゃんを見る。

「あたしね、あれから考えたんだ……」

「何? 赤ちゃんの名前?」

「って、いや、違うよ……いやいや、たいして違わないけど……」

 ホント、朔良ちゃんは話の腰を折る天才かもしれない。だが、あたしだってめげないぞ。

「ねぇ、朔良ちゃん。正直に答えてね……」

 あたしはここで区切って、もう一度しっかりと息を吸い込んだ。そうしないと、絶対に途中で言葉に詰まってしまうと思ったからだ。

「朔良ちゃん、赤ちゃん産んじゃうと、死んじゃう可能性ってあるの?」

 こういう事は一気に言うに限る。ただでさえ現実にはなって欲しくない言葉が混じっているのだ。ためらっていたら、ただの言葉が現実を引き寄せちゃう。

「うん、多分ダメだね。私は赤ちゃん産む自信はあるけれど、生き残る自信はないな」

 本当にさらっと言った。口ぶりが一杯目のおかわり頂戴みたいな気軽さだった。

 そんな事言われて、あたしはどうすればいいんだ? もしかして、こんな時に怒らなきゃいけないのか? なら、とりあえず反論だ。

「朔良ちゃん、どうしてそんな事言うの? 死ぬとか……なら、赤ちゃん産むのやめようよ」

「それは無理。だって、もうやめられないし。そんなつもりないよ……前にも聞いたけど雪緒ちゃんは私がお母さんになるの嫌? 結婚もしてないから嫌?」

「違うよ、違う! そんなんじゃない。あたしは朔良ちゃんが大事なだけなんだよ。赤ちゃん産むことがどんなに幸せで、どんなに大事な事かってわかるよ。でもね、それで朔良ちゃんがいなくなるのは、耐えられないよ」

 あたしはベッドの縁に半分隠れながら、告げる。本当は荒い言葉を吐いてる口元や、顔なんてまんま朔良ちゃんに見せたくないんだ。

「ありがとう……きっと雪緒ちゃんはそういうことで悩んでくれてるって思ってた。だから私は雪緒ちゃんが大好き。私の事、本当に大事にしてくれる……あ~あ、どうして雪緒ちゃんは女の子なんだろうね……」

 朔良ちゃんの声が、初めて後悔みたいなのに染まった気がする。

「朔良ちゃん……あたしのこと好き?」

「うん、もちろんだよ」

「だったら、あたしの気持ちわかるでしょ? あたしだって朔良ちゃん大好きなんだよ」

「うん……でも、でもね、この子は産まなきゃいけないの。私、欲張りだから……あの人も救ってあげたい……」

「救う? どうやったら救うになんてなるの? そいつ連絡先もわからないんでしょ? それじゃ自分の赤ちゃん生まれたって、それさえ知らないしわからないんだよ? そんなので救うなんてなるの!」

 あたしはついにキレちゃったのかもしれない。もう、ベッドの縁に隠れている余裕もなくなった。

「そうだね……そうかもしれない。でもね、私があげたもので、あの人はきっと少し救われたと思ってる。もちろん確認なんてしてないから、私の勝手な想像……希望だけど……だったら、せっかくこんな奇跡が巡ってきたんだもん、残したいの。私の想いを」

 朔良ちゃんはお腹をゆっくりとさすりながら、あたしに言う。それは本当にお母さんみたいだった。

「だからって、あたしは納得しない! あたしには朔良ちゃんが必要なの! 朔良ちゃんだってあたしが必要なんでしょ! だったら簡単に死ぬなんて言わないで!」

 それだけ荒げて言っても、朔良ちゃんは優しい手つきを崩さない。それより、あたしの声なんて聞こえてない風だった。だから、余計に腹が立った。

「聞いてるの、朔良ちゃん!」

 思い切り叩きつける声だったと思う。あたしが朔良ちゃんを怒鳴ったのは、これが最初だった。

「うん。聞いてる……もちろん雪緒ちゃんの気持ちもわかってる……ねぇ、お父さんとお母さんとも、お話したんだよね。何か言ってなかった?」

 あたしは荒い息をひとりでバカみたいにぜぇぜぇやりながら、あのお茶会を思い出す。さして時間もたってないので、思い出すのは簡単だった。

「確か、今も奇跡だって……」

「そうなの。きっと私が今まで生きてこられたことも、奇跡なの。本当、あの時砂場で雪緒ちゃんと会ってなかったら、その次の日に死んでたかもしれない」

 朔良ちゃんは、目だけをあたしに向ける。

 それに言葉なんて要らない。もう、目で全ての感情が受け取れる。それはありがとうの意味だ。

 でもそれは受け取っちゃいけない。それを認めちゃうと、あたしは現実に負けるんだ。

 どんなに優しくても、気持ちよくても、あたし以外の全ての人が朔良ちゃんの言う事を肯定したって、あたしは逆らってやる。

 じゃあないと、朔良ちゃんは自分の言っている事を胸張って本当にしちゃう。

 赤ちゃんを産むからって、胸張って死んじゃう。

「だめだよ、ダメ。あたしそんなの許さない。どんなに朔良ちゃんが優しく言ったってダメ。あたしわがままだもん。死ぬ死ぬ言ってる朔良ちゃんなんて大嫌い! 産めばいいよ、赤ちゃんだって! それはとっても大事だってよくわかったよ。朔良ちゃんは自分の命よりも大事だって思ってるんだから! でも、あたしは朔良ちゃんが大事なの! あたしは朔良ちゃんが大事なんだよぉ……生きてよ、生きるって言ってよ。赤ちゃん産んでも一緒に生きるって言ってよ……お願いだから、あたしに聞かせてよ……朔良ちゃんの声で」

 前半の勢いが台無しな風に、あたしはしゅんとしてしまう。でも本当なんだ。朔良ちゃんからきちんと聞きたいんだ。否定的なことじゃなくて、希望的なこと。

 前に向いてる感情。あたしにいつもくれた朔良ちゃんの言葉みたいに、きらきらしてて、ずっと遠くまで行けそうなもの。

 一言、生きるよって言って欲しい。言ってくれるでしょ? 言ってくれるんでしょ? いつだってそうだったでしょ? あたしが欲しいものいつだってくれたじゃない。

 だから頂戴。

 だから頂戴。

 お願いだから、頂戴。

 頑張れと同じくらいの軽さでいいよ。

 言ってくれるんでしょ……かわいい桜色の唇動かして、白くて小さな歯を覗かせて、綺麗な目を細めて、すべすべのほっぺた桃色にして、言ってくれるんでしょ?

 あたしの尻尾撫でさせてあげるから。おっぱいだっていくらでもぎゅーってさせてあげるから。ずっと抱きしめててあげるから。

 だから言ってよ。

 あたしの一番欲しい言葉言ってよ。

「朔良ちゃん……」

 やっと出てきたあたしの一言、朔良ちゃんを呼ぶ声は白い部屋に広がる。部屋がアナログ時計にちっこちっこ動く一定のリズムを取り戻すまで、ほんの数秒。朔良ちゃんがうっすら息を吸い込む音が聞こえた。

「雪緒ちゃん……」

「うん!」

 あたしは期待にこたえてくれると思ってうきうきしてくる。

「私ね……きっと、嘘が下手なんだ……」

「んん?」

 だけど、その言葉の始まりはちょっとあたしが想像していたものとは違っていた。

「だから、きっと何を言っても、本当には勝てない……」

 はじめは小さな違いだから、気にもしなかった。それにそんなのは、十分に修正できるものだと思っていた。無視したっていいものだと思っていた。でもね、昔の人はよくいったもんさ。ホント、でっかい城壁だって、石一つ抜いちゃうだけで、壊れ始めるって。

「雪緒ちゃん、私ね……奇跡は一つだから奇跡だって思うの。二つの奇跡は重ならない。でも一つの奇跡は続いていくって」

 あたしには朔良ちゃんの言ってる意味がよくわからなくなってきた。どういうことなんだ? 朔良ちゃんは何が言いたいんだ?

「きっと、私が雪緒ちゃんにもらった奇跡は終るわ……私は死んじゃうと思う」

 何だろう、このもう取り返せないぞって、銀の杭を心臓へ打ち付けられた感覚は……こんなの朔良ちゃんがあたしにくれるものとは思えないぞ。誰だ、朔良ちゃんになりすましてるのは? だってそうでしょ。朔良ちゃんはいつだって、辛くたって何だって笑ってたんだぞ? 強いんだぞ、あたしの朔良ちゃんは最強なんだぞ。それがこんなこというはずないだろう。

 今、なんだ? 死とかいうのが聞こえたぞ? いやいや、あたしの聞き間違いだ。うん、続きを聞いてみよう。きっと朔良ちゃんのことだ、文章的修飾の倒置法とかで、大事な逆接があとで、ぽろっと出てくるに違いない。

「雪緒ちゃん、私ね……死ぬと思う……でも奇跡を続けていく自信はある。私が死んじゃう絶対と同じで、この子は絶対に生まれてくる。そして、また雪緒ちゃんと出会って、奇跡を続けていってくれる。だから、ね……雪緒ちゃん」

 朔良ちゃんの両手が、お腹から離れてあたしの両頬を捕まえる。柔らかくて、細くて、あの頃と同じで……でも少し冷たい。

朔良ちゃんはそのまま、あたしを抱えるように、お腹に誘導する。そこはちょっとだけ膨らんだお腹だった。数えれば約妊娠六ヶ月って辺りの割には、小さかった。でも、本当に、あたしが今まで触れたものの中で、一番あったかくて、一番優しくて、一番柔らかくて、一番気持ちのいい場所だった。

そして、微かに音が聞こえる。

もしかしたら、あたしの幻聴だったのかもしれない。でも、聞こえた。心臓の音なのか、いっぱい蹴る音のなのか……でも、聞こえた。

これはきっと奇跡の音。

朔良ちゃんが言った奇跡を告げるリズムなんだ。


「雪緒ちゃん……私を愛してくれたように、この子も、いっぱい愛してあげてね……」


 あたしはそれになんて返せばいい?

 折れない心を持っているつもりでも、どうする事もできない。

 この音を聞いたあたしに回避は不可能。

 気持ちが口の動きに負ける。

 負けちゃう、負けちゃう……誰も助けてくれない……負けちゃう、負けちゃう。

「うん、いっぱいいっぱい、呆れるぐらい愛してあげるよ……」

 負けちゃった……こんな嘘、ばれるに決まっているのに……。


 でも見上げた朔良ちゃんは、重い曇り空から、光が一筋降りるみたいに……また奇跡みたいに笑ってた……。


 この時あたしは確かに二つの奇跡を聞いていた。片方の耳で朔良ちゃんの奇跡を、もう片方の耳で、赤ちゃんの奇跡を。


 だから信じていた。自分の耳を、自分の感覚を。二つの耳を。だってこの時、あたしは初めて耳が二つある意味を知ったと思ってたから。

 そして別の所で嫌って気持ちがきっと何かを助けてくれる事だってあるって思ってた。

拒否することが希望になる事だってあるって思ってた。

 でもあたしの予想や希望だけは外れちゃった。

 神様のやつは、綺麗で儚くて自分好みの女の子のお願いしか聞かないみたいだ。


 だったらさ、

奇跡を二つあげてもいいじゃない。


 それから四ヶ月後、出産なのに入院したのは大学病院。あたしは薄暗い廊下に立ったまま、透明な自動ドアの向こう、聞こえるはずもない奇跡の音を聞いた。

 いや音じゃない。それはきっと歌。

 新しい奇跡の、祝福の歌。


 そして同時に、もう一つの奇跡の終わりを送る鎮魂歌。


 でも、あたしはそれを歌わなかった。歌えずに、泣く事も拒否した。一つの奇跡に泣いて、一つの奇跡にまた泣いてる、おじさんもおば様も置いて、あたしは逃げ出した。


 あたしは逃げ出した。


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