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#03 それはツヨサ

 #〇三 それはツヨサ


     1

 ぱちぱち、パチパチ、ぱちぱちぱち。

 拍手かって思えるような音が、ナイロン生地を叩く。

「梅雨がおわ~れば、夏が来る~♪」

 なんて、何のひねりもないくだらない歌詞だ。

それを雨音に忍ばせて、あたしはいつもの坂を下っている。体にはレインスーツ(浸透圧実験保証書つきムレない!)。

こいつは釣りが趣味なお父さんからもらった、なかなかの優れものだったりする。普通、お父さんがくれるっていう時点で、地味で味気もなくって、色は紺なのが相場だけど、コイツは違う。

何か、いつでもエマージェンシーなくらい派手なオレンジ色。しかも所々が赤色との切り替えのオマケつき。

まぁ、雨とか視認性が悪い時に着る物だから、これくらいでいいのだろう。それにオレンジはあたしのパーソナルカラーって事にしているので、悪くはない。五黄土星だし。

だから名前はオレンジ頭巾。特に意味はないけどね。

モノに名前をつけるなんて変だとか、名前なんて記号に過ぎないなんて台詞は、いろんな台本読んでれば、出くわす思考ではある。

でもあたしはよく、モノに名前をつける。ちなみに乗っている自転車は「ウンちゃん」という。言っておくけど、あたしが運動できない人なわけじゃなく、まして毎朝出ると健康な証拠のウンちゃんじゃない。美しき水野妖精「ウンディーネ」の「ウン」だから。

かっこいい名前だけど、雨の日に買ったからってだけ。あとは、つけたはいいけど、長いから今風に略した。

それはいいとして、名前の話。確かに名前っていうのは認識するための記号なのかもしれないので、その点はあたしも認める。

でもちょっと違うとも思う。認識するだけなら、雨合羽は雨合羽でいいし、自転車は自転車でいい。でもあたしは、そのモノを大事にしたいって気持ちから、愛着できるように名前をつけたりする。

そんな事をしないと、モノに愛着がもてなかったり、大事に出来ないって考えてる時点で、あたしはダメなわけだけど、それはまた別の話。

じゃあ、人の名前はどうなんだろう。

愛着を込めるみたいに解釈すれば、ニックネームってのもある。でもそれは得てして、嘲笑とかを込められたものの方が多かったりする。だから答えとして却下。

「う~ん」

 あたしは声に出して唸ってみる。変わらずオレンジ頭巾を叩く雨粒は、それなりに激しい。そのリズムまでが、答えを出せと言っているみたいだった。

 答え、答え、答え……適当とはいえないけど、妥当ではあるのもが浮かんだ。

 人の名前っていうのは、きっと付けられた時点で、確かな愛を込められ、愛着があるものになってと願うもので、改めて確認するようなものじゃない。さすがに、悪戯に変てこな名前を子どもにつける親は少ないでしょ。

「個人的に無宗教なあたしにしたら、神様のお告げでって決めちゃうのも、何だか微妙な、だけど……それはそれで、信心の元だから、愛がないともいえないか……」

 と、雨の日お決まり「哲学者ぶってみる」を終えると、稽古場についていた。この遊びのよくないところは、大概あたしの出した答えは間違っているってこと。まぁ、だから遊びなんだけど。

「それはもういいって……」

 あたしは駐輪場っぽいスペースに自転車を止めながら嘆息する。

 名前の話に戻ると、あたしはどこにいっても本質的には「雪緒」なんだけど、ここでは最近、「雪緒っち」とか「笠屋」とか呼ばれるより、「アイナ」なんて呼ばれる事のほうが多い。

「愛という名を呼びなさい!」

 それが決め台詞のお嬢様。あたしの配役。しかし、その台詞の使いどころは不明。カタカナ表記だけど、れっきとした日本人。

そして肝心のお話のストーリはというと……。

至極簡単に説明しよう。

大正時代末期、戦争成金のお家騒動を、これから向かう昭和初期という戦争の時代にかけた、随分とウィットにとんだ、あたしには正直、難しすぎるお話だ。そのわりに、随所にくすりと笑わせるところがある。

ざっと、そういう台本だ。

 役名のことに戻るけど、あたしは客演なんてもちろんした事がない。ので、他の劇団がどうかってことは知らない。

 けど、ここ「QQQ」は、配役が決まった人間は、その公演が終了するまで、稽古中は役名で呼ばれる。

 一応、稽古中だけという決まりはあるけど、みんな必死でそれをものにしようという気迫みたいなものが勝手に働いて、いつもそうさせる。

「おい、アイナ入りだぞ!」

「はい!」

 こうして稽古が始まってしまうと、さっきまでの暇と憂うつをつぶすだけの遊びが、まるで楽園だったかみたいに感じてしまう。

 それくらいあたしにとって、初舞台の稽古はハードだった。

 なぜかって?

「おら、アイナ! そこは溜めがもっといるだろうが! 後のこと考えて動け!」

 看板俳優でもあり総合演出も兼ねる座長の指導は厳しいの一言。普段は優しいのに、舞台のこととなると人格変貌。もう、ジキルとハイドか狼男ばりだと思うくらい。

だから、それだけ真剣だっていうことはあたしにもよくわかる。

「でも、これはきつい……」

 台詞の隙間にこっそりと、あたしは愚痴をこぼした。

 アレがダメだ、これもダメだ、と言われるたびに、あたしには痛みがたまっていく。

 もちろんその痛みっていうのは、プロとして耐えなくちゃいけないものだし、自分の理想に近付くために、楽しさにさえ変換しなきゃいけないものだ。

 望んで歩いている道で、痛みが辛いなんて、そうそう言ってられない。いや、言ってはいけない気が激しくする。

 山のぼりなんて結局どのルートをとっても、それぞれに難所があるもんだ。

 今のあたしはそんな感じ。

 でも、そんな風に解釈できていたとしても、あたしの演技スキルが大幅アップするわけじゃない。逆に頭でっかちになった分、演技が追いついていない自分がもどかしい。

 そしてカム、カム、カム。台詞をまたかむ。

 そうやってミスを家内製手工業で大量量産。わかってても、それは辛い。もちろんミスを犯すことは自身の中でもペナルティだ。けれど、一番辛いのは自分自身が自分自身のイメージ通りに動けない事。

 そうやってミスを犯すたび、あたしは嫌な汗を稽古場の床に落とす。落とした汗のしみが消えないうちに、次の汗が落ちる。

ポタポタポタポタ、とめどない汗は、雨粒がプレハブの安い屋根材を叩くよりスピーディだ。それがどんどんと重なって、あたしの立ち位置だけ一際、床の色が濃い。

「はぁはぁはぁ」

 と大げさに肩で息をする。顔をそこに落としこむと、今にも暗い染みからドロドロの手でも出てきて、あたしの足首でも掴みそうだった。

 あっははは。なんだかもう、自分で自分を笑うリアクションしかとれないぞ。

「どうしたよ? そんなに言いにくいなら、ニュアンス変えない程度に台詞いじってもいいぞ」

 見かねたのだろう、座長はあたしに助言をくれた。

「えっ、いいんですか?」

「おう、かまわねぇぞ。好きに言葉作れ」

 ちょっと以外だった。

 それは台本の台詞を変えることじゃなくて、あたしにもそれが許されたってこと。あたしは新人だし、まずは台本の通りにできるってことが先なのだと思っていたからだ。

「じゃ、じゃあ……塚原はわたくしを好いているのよ……にしてください。それなら間が作りやすいです」

「よっしゃ。おい、みんな聞いたとおりだからな!」

 座長の声に、みんなが「はい」とスタッカートの効いた返事を返す。

「うし、次行くぞ! ああ、アイナ」

「何ですか?」

「こういう事は先々、いくらでもあるからな。対応できるようにしとけよ……まぁ、ただ、そういうのは書いてあるセリフ、マトモに言えてからの話だかんな、今回は特例だ」

 座長は言って、自分の立ち位置に帰っていった。

 そう。

言ったけど、舞台とかで台本の台詞が現場で変えられる事は多々ある。

 というより、そんな事は取り立てる事でさえない。返せば台詞の変えられない台本などないということだ。もちろんシナリオの大筋が変更される事はないけれど。

 短大時代にやってたものでさえ、台詞が一言も変わらなかった台本はなかった。

 それだけ日常的で、些細で、取り立てることではないのだ。

 もちろんそれは台本を軽視しているという意味じゃない。現場で舞台をよりよくしようという役者の努力なのだ。もちろん、座長が言ったように、そんなのは書いてある事をマトモに言えてからのお話――だけど、弁明や釈明じゃないよ、これは。哲学遊びも大概間違っているあたしだけど、これは間違いじゃないって胸を張れる。それを実証できるだけの気迫がここには漂っている。外見はぼろっちいプレハブでも、その中に住まうは白虎の魂、がお~ってなもんよ。ぴりぴりと空気が振動しているのがよくわかる。

 でもあたしは、虎の威を借る狐。いや、狐って言うよりハムスターぐらい。

 そんな大きな志で意志を隠そうとしても、小物過ぎて、隙間からコロンと出てしまう。

「でも、でも、でもと、理由をつけて責任逃れをすることはあなたの専売特許ね!」

 アイナの台詞があたしの後ろ暗い感情と重なり、妙な気持ちになる。

 きっと台詞を変えたりして台本をいじることは、少なからず書いた人間の心をないがしろにしている行為なのだ。

 でもそれは、ある程度の経験をつんだ書き手なら、覚悟している事だ。

 そう、経験をつんで、プロであって、それを受け止めるくらい年輪を重ねた大人ならば……だ。

 そう考えたアイナの顔を借りたあたしの表情が歪んでいく。台詞と合致していて、誰もおかしいとは思わなかっただろう。でもあたしはこの時まったく別のことを考えていた。

 注意力散漫もいいところ。戦場なら味方の銃撃に間違えて突撃、そして即死。

 それでも誰にも気付かれなかったとしたら、この時のあたしの演技は完璧だったのだろう。まさに日本人初オスカー級。

 あたしが観客総スタンディングオベーション演技のなか、考えていた事。

 それは台本の変更ということ。

 みんなに乞われて生み出したものを、無残に切り刻まれて、ばらばらにされて無残に霧散にされること。

 初めからなかったくらいにロードローラーで粉微塵にひかれちゃうくらいの事実。

 ここでは当たり前の事象であって、受け止められる大人の話でも、それが中学生ならどうなの?

 あたしが稽古中にも関わらず、立っているのはそういう記憶の扉の前。

 そしてあたしは、それを臆面もなくコンコ~ンとノックして、開けちゃうタイプ。

そこに何があるかなんて、想像も確認もしないダメダメちゃん。

どうしてあたしの扉は、こんなにも鍵が甘いのだろう。ふとした事ですぐに開いちゃうんだから……全く。



     2

ぎぃぃぃっと厳かな音も立てず、潤滑スプレーでもさしたのか、やけに軽快に開いた扉の向こう。

そこは中学二年生だった。

あたしは背丈と胸がおっきいだけの女の子。まぁ小学生の時とあんまり変わってない状態だった。

一方、朔良ちゃんは……。

「ねぇ笠屋さん、倉持さんって今日も休みなの?」

「ホント、長いよねぇ。そろそろ文化祭のこと考えるような時期なのに」

「あ! 私、前に見たのって、確か二学期の始業式だったよ」

「あんたがそうなら、あたしらみんなそうだっての」

 その後には、ぎゃはははと、男子がいないのをいいことに、ちょっと分別のない笑い声がする。

 この話になると、あたしの態度が明らかに不機嫌になるのをわかっているくせに、彼女たちはお構いなし。

 普段は身長が高くて、力も強そうなあたしにビビってるくせに、こういうことだけは忘れるんだ。

「っとに、便利な頭だ」

 あたしは彼女たちに聞き取れないように、口の中でガムでもかむように、呟く。

「……朔良ちゃん、こんな勝手言わせてていいの?」

 中学に入ってからの朔良ちゃんは、さらによく学校を休むようになっていた。

 一年生の時は、一年間の三分の一くらい。

 それが二年生になると、さらに増えた。

今だからいえるのはそれが一年間の三分の二……は言い過ぎでも、五分の三くらいは休んでいたということ。進級できたのはある種、特別な計らいだったかもしれない。

 それさえも、一時期はなにやら囁かれていたけど、本人不在の噂なんてものの寿命は極めて短い。

 それにあたしは、朔良ちゃんとは学校じゃなくても、よく会っていたので、そんな有象無象の虚実妄言などは、どうでもいいものだった。

 だからって、朔良ちゃんのことを悪く言うやつらに、いい気持ちなんてするわけがない。

 こういうことがある度に、不機嫌からちょっとむくれてたりすると、自然に人垣があたしから遠ざかって行くことが常になっちゃって、そのせいであたしは、あずかり知らぬところで、ちょっとした番長扱いされてたみたいだった。

「ちょ、もうやめようよ……」

 言い出したくせに、その娘は話を切りたいように身をすくめた。当然、あたしの顔を見たからだろう。

 別にあたしは誰かを特定して嫌っていたり、酷いことしちゃいたいわけじゃない。

 今までだってそんな事はしてないはず……小学生の頃は朔良ちゃんを悪く言った男子をよくぶっ飛ばしてたけど。

 中学になって、そんなお転婆をやらかした事はない。

 かえって、日に日に美しくなっていく朔良ちゃんに見惚れて、そうなろうと憧れていたんだから。ちょっこっとだけど、努力だってしてたし。

 まぁ、そんなわけで、あたしは体よく仲間はずれっぽいことになっていたんだな、きっと。

 実際、頼みもしないのに、彼女たちは会話を止めて、あたしの言葉でも待ってるみたいだもの。

「でもさ、実際、文化祭近いわけだし……文化祭には出てこられるといいよね、ね、笠屋さん?」

「うん、そうだね」

 あたしはきっぱりと言った。

 それは迷う事なんてないくらいに願っている事実だから、そう言っただけだ。

 でも、凄みでもあったのか、みんなは「ひっ」と小さな悲鳴みたいなのを口々にこぼして一歩下がった。

 はぁぁっと大きくあたしは嘆息する。こっちはゆるぎない信念みたいなものを表現したつもりなのに、何だかきついぞ。

 この勘違いのされようは、本当にきつい。

 何がきついかって、その誤解はすごい流布性を持っていて、全ての人があたしをそんな風に見てしまう可能性があるのだ。

 それは冗談じゃないマイナスだろう。あたしだって年頃女の子なんだから、男子にまでそういうキャラにされてしまうのはきついぞ。

 どうする? もしあたしが男の子にチョコレートとかあげて、それが帰りにトイレのゴミ箱に捨てられてたら……まぁ、あたしは一目散にその場から逃げ出して、朔良ちゃんのベッドにもたれて体育座りだろう。

 でもそれが妄想じゃなくって、現実のものになるのはきついを通り越して、痛くないか?

「あたしってそんなキャラだっけ?」

 言うと、朔良ちゃんはくくくと、柄じゃない笑い方で返してくれた。

 チョコレート云々がなくっても、こうして、その日の放課後には朔良ちゃんに泣きつきに行っているあたし。何だろうね、これ。

 パターンというか、王道って言ったほうがいい。安売りの雪平なべくらい、あたしは底がしれている。

 そう落胆するけど、ともかくその羞恥心を映画のカットバックみたいに切り捨てられるあたしは、ちょっと素敵に前向きかもしれない。

 いやいや前言撤回。やっぱりそれって学習能力がないってことだから、ダメダメだ。

「で、今日はどうしたの雪緒ちゃん? また体育座りじゃない」

 朔良ちゃんは、あたしの長いポニーテイルをさわさわしながら、お母さんみたいに呟く。ホント見透かされてますわ朔良様。

 だからって、何も出来ない。あたしは今日のホームルームであった事を伝えるだけだ。

 手紙とかなら、もっとロマンチックで、素敵な事も起こるかもしれないけれど、あたしの口は違う。

 いつもいつも、飽きるぐらいに、残酷な真実を伝えるだけのもの。

 ああ、だから、真実の口っていうのかな?

「あのね、もうすぐ文化祭じゃない?」

「そうね……」

「それでさ、演劇やる事になりそうなんだ……でさ、来週のホームルームで、その配役とか、作業分担とかも決めるらしいんだ」

 あたしは言いよどむ。いつもは自分勝手なくせに、今はやけに感情に従順だぞ、あたしの唇。

「なぁに? 言いにくい事なの」

「そうじゃないよ……ただ……」

 これはあの時と同じことだ。

 エッチな委員長の顔が勝手に思い出せるぞ。まったく、私立の中学に行った彼女はどんなエロい中学生になっているのか、若い男性教師とデキてそう……なんて、脳が違う道に広がる問いまで用意し始めちゃったぞ。これは、あたしにとって、そこまで労力のいる事なのか?

「あのさ、また、朔良ちゃん欠席裁判で面倒な仕事を回されそうなの……」

 そんな事を言ったのに、朔良ちゃんはあたしの髪を撫で付ける優しい手つきを崩さない。

「そっか……それで、雪緒ちゃんそんなに悲しそうなんだ……ゴメンね」

「ど、どうして謝るの!」

 悪いのはあたしなのに。こんなに大好きな朔良ちゃんをいつも守ってあげられない、臆病なあたしなのに。

「だって、雪緒ちゃんは私が矢面に立たされてるのが辛くって、そんな顔してくれてるんでしょ? 心配してくれてるんでしょ? そういうのは私のせいって言うんだよ」

「や、面……ってよくわかんないけど、違うよ。あたしはあたしが情けないだけなんだ。学校じゃ、イチバン朔良ちゃんのこと、わかってるしイチバン近くにいる。いや、これには自信あるよ! でも、だからこそね、イチバン肝心な時に、誰よりも声を張り上げなきゃいけないのに、あたしはずっとそれが出来なかった」

 あたしがカクンとうな垂れると、朔良ちゃんの手からつるんと、あたしの尻尾が抜けた。

 それはまるで、生きているみたいに、ぺちんとあたしの後頭部を叩く。

「いた……」

 全く情けない、不甲斐ない、入れる穴もないから今から掘ろうかな。

 本当に、それぐらい打ちひしがれた。

「雪緒ちゃん……」

 するすると肌触り抜群なシーツのかすれる音が聞こえたと思うと、やけに耳の傍で甘い声が囁いた。脳髄がしびれるというか、なんというか。やったことないけど、全身麻酔ってこんな感じかな?

 いやいやそれにしたって、これは何ともいえないぞ。罪悪感でじんじんしていた感情が、どんどん鈍っていくのがわかる。桃を流水で洗って産毛を取るみたいにあたしの心がつるんできゅっきゅとしていく。

 ほわ~っとしていたあたしに、また衝撃が走る。

 細い腕が後ろから絡んできたのだ。それはもちろん朔良ちゃんのものだ。だから、より朔良ちゃんの香りが強くなる。強いって言うより、これは濃厚な感じだ。しつこい感じはなく、芳醇でとろけそう。最高のソースがからまったお肉とか、そういう例えがいいかも。そんな変てこな言い方がしっくり来るほど、ぴったりと体を預けるように、朔良ちゃんはあたしを抱きしめていた。

 そして、また囁く。

「……大丈夫だよ。もうそんな顔しなくていいからね……雪緒ちゃんが悲しまないようにするからね」

「えっ? それって……」

 あっ……と、名残を漏らす前に朔良ちゃんがあたしからはがれていく。

 急いで振り返ると、朔良ちゃんは微笑んでいた。そしてベッドサイドのテーブルの上においてある、メモ帳を一枚ちぎった。

 そしてすらすらとペンを走らせる。

 もちろんあたしには、朔良ちゃんが何をしているのかがわからない。まぁそれはいつものことなので、大した問題じゃないんだけど。

「雪緒ちゃん!」

「ひゃい!」

 ペンを置いた朔良ちゃんは、あたしに折り畳んだ紙を渡す。

「私、明日は学校に行くわ。絶対なんていえないところが情けないけど、もし私が学校に来なかったら、その中身を見てね」

「う、うん……」

 決意。

 そんな言葉がよく似合う。この上なくよく似合う。

 朔良ちゃんはそんな目であたしを見ていた。



 次の日、朔良ちゃんは本当に学校へやって来た。肩で風を切るみたいにじゃなく、自然に風と一緒に歩いているみたいに、教室のドアを開けて入ってきた。威風堂々というよりは颯爽という言葉がとってもよく似合う。意味なんてよくわからないとしても、知っている難しい言葉の中ではそれしかないと、確信があった。

 みんなは一様の驚きリアクション。あたしだって少しは驚いた。もちろん、朔良ちゃんが学校に来ると言ったんだから、あたしは来ると思っていたけど、あんな風にだとは想像していなかったんだ。

「よかった。これから文化祭の役割分担決めるんでしょ?」

「う、うん」

 委員長さえ気おされている。でもそれは仕方ないかもしれない。見るに久しい朔良ちゃんなのに、その人物が身構える前から戦闘を開始しているんだ。

 あたしはひとりでニヒヒと笑う。

 でも何で笑ったんだろう。学校でこんな風に笑ったのは久し振りだと思う。

 でもその疑問はすぐに晴れた。

「……考えるまでもなかった」

 まさにその通りだ。

朔良ちゃんが学校に居る。

同じ制服を着て、同じホームルームを過ごして、同じ教室で同じ空気を吸って同じことを楽しんで、同じ事で笑って……あたしはそれが単純に嬉しくて仕方ないんだ。

「あたしって単純だな……」

でもそれでいいと思った。委員長にすごむように意見を言っている朔良ちゃんを見て、あたしは和む。

それだけが嬉しい。それで十分。

「委員長、私が演劇の脚本を書くわ。それが私の仕事でいいでしょ?」

「え、倉持さんが?」

 あたしはやっぱり単純で、自分の楽しさと嬉しさを噛み締める事に手一杯で、朔良ちゃんが何と言ったか聞き逃していた。間抜けを絵に描くと、あたしの顔になるらしい。

「ええと、じゃあ、決をとるけど……倉持さんが脚本でいい人は挙手してね」

 あたしの視界に、にょきにょきと制服の手が現れて、気味が悪くなって正気に戻った。

「えっ? えっ!」

 見ると、手をあげてないのはあたしを含めた少数派だけだった。そして口々から声援に聞こえるものが飛ぶ。

「倉持さ~ん、期待してるよ」

 それが彼らの言い分を代弁した一言、一台詞。要するにそういう事だった。

 演劇部っていうならまだしも、クラスでのステージ演劇なんて、率先して何かの役に回ろうなんて既得な人はそうそういない。あたしだって出来れば逃げたい。

 それを朔良ちゃんは誰もが面倒がる脚本なんてものに立候補したんだ。そりゃ、声援を送りたくもなるはずだ。ましてや朔良ちゃんだぞ? そんなの当たり前すぎだ。朔良ちゃんが、頑張るぞっていうのに応援できないやつなんかいるもんか! ちなみにあたしの小さな世界に、そんなやつが住めるスペースはない。あたしは心が極めて狭いんだ。

「ええ、頑張るわ。せっかくだからオリジナルのお話にするね。それと、一つ提案があるの……実は脚本の大方の筋って考えてあるんだけど、ヒロインを雪緒ちゃんにしたいの」

「はぁ?」

 それはあたしの大声。と言っても疑問符だから力はない。そんな声を尻目に、委員長はさも当たり前だと言わんばかりに、黒板にあたしの名前を書いた。

「誰か、意義ありますか?」

 むうう、わざと難しい言葉を使いやがって、それで勝ったつもりか!

 なんて反論していたのも、四畳半風呂なしトイレ共同なあたしの心だけだった。

「うん、笠屋ならステージで見栄えもするだろう。先生は賛成だぞ」

 畜生、鬼教師め。あんたは朔良ちゃんの登校にも目の色を変えなかったくせに、あたしをちゃっかり窮地に追い込みやがって!

 と、怒りを露にするけれど、発案者が朔良ちゃんである以上、あたしは頷いてみせる。

「じゃあ、一応他の役回りも決めますから、立候補なり推薦なりしてください。ただし、何もしないっていうのはありませんから、必ず何かの係りになってください」

 委員長は言い切ると、みんなの出方をうかがうように、ぺたんこな胸の前で腕を組んだ。

 あたしはというと、頷いてみせると言ったくせに、惚けたままだった。言い切った自分と、恥かしがりな自分がバトル中。

 その間にクラスメイトたちは次々と係りを決めて行く。

 雑踏の中で、朔良ちゃんが急に耳打ちをしてきた。

「ふふ、これで雪緒ちゃんも肩の荷が下りたね」

「?」

 あたしは朔良ちゃんが何でそんなことを言うのかちょっとわからなかった。それよりも声が耳にこそばゆくて、変な気分になった。

 なんだったっけ? なんだったっけ? 思い出せ。思い出せ。すごく大切な事だったはずだぞ。朔良ちゃんのこの言葉は、とても大切なはずだったぞ。

 あたしは変な気持ちを消すよう自分に暗示をかけ、記憶を必死で巻き戻す。

「そうだ」

 そうだ、そうだと、あたしのなかで、ちっちゃいあたしたちが「そうだ!」と連呼する。

 朔良ちゃんはあたしのために、打って出てくれたのだ。

 昨日、あたしが泣きついたから、助けてくれたんだ。

 あたしの心が痛まないようにしてくれたんだ。

欠席裁判にやりあげられる自分を悲しむ、あたしを助けてくれたんだ。あたしはそんな事にもすぐに気付けずに、グズグズしていたんだ。

「朔良ちゃん!」

 あたしは頭が幸せで弾けた瞬間、所構わず朔良ちゃんに抱きついていた。

 立ち上がった瞬間、椅子が激しく倒れた。でも、教室はすでに文化祭の役割分担を決めるというゴタゴタの中にあって、あたしの事なんてもう、見向きされる事でもないみたいだった。

「あはは、雪緒ちゃん、痛いよ」

 朔良ちゃんは長いあたしの尻尾を撫でる。どうやらお気に入りみたいだ。

 そしてその先っぽを掴んで、あたしの頬をくすぐる。

「ありがとう、ありがとね……朔良ちゃん……」

 あたしは思い切り甘えて、でかい図体を華奢な朔良ちゃんに預ける。

「ううん。そんな事ないよ……私は私のためにやった、ただの卑怯者なんだから」

「卑怯者?」

 おかしいぞ、そんなのはあたしにイチバンしっくりくる代名詞のはずだぞ? 朔良ちゃんに譲っていい二つ名じゃない。

 あたしが思考を停止させていると、朔良ちゃんはまた耳元で囁く。何度聞いてもいいなぁ、コレ。

「だってね、私は待つ事も出来たんだよ。雪緒ちゃんが今度こそ勇気を出して、私を守ってくれる事を待っていてもよかった。でもしなかった……それは私が雪緒ちゃんを信じなかったってことなんだよ。雪緒ちゃんを信じない自分なんて、卑怯者としか言いようがないじゃない」

 甘い声のようだけど、言っている事は甘くない気がする。気がしてるだけで、これだって言えないのは、朔良ちゃんがあたしの尻尾であたしをくすぐっているからだ。

 でも朔良ちゃんはやっぱり卑怯者なんかじゃない。だまされないぞ。こんなふにふにしてる自分の尻尾なんかにごまかされないぞ!

 そうだよ。卑怯者って言うのは、あたしのように何度も何度もチャンスがありながら、その度に何も出来なくて、朔良ちゃんを守れなくて、ぼ~っとしてる奴の事を言うんだ。

 一度の過ちのために立ち上がる人は、きっと勇者って言う方が正しい。

 うん、朔良ちゃんが勇者。ぴったりだ……いや、お姫様の方が似合うに決まってるけど。

「やっぱり朔良ちゃんは卑怯者なんかじゃないよ。あたしの勇者様だ」

「雪緒ちゃん……そのセリフもらうね……でも私はやっぱり卑怯者でいいよ……」

 何て強情な勇者様だろう。でも朔良ちゃんは昔から、変にこういうところがある。絶対に譲らないってところ。

 例えば紅茶にはミルクしか入れないとか、目玉焼きにはあまいソースだとか。まぁ取り立てて言うほどのものじゃないんだけど、それはあたしの中の朔良ちゃんを作っている、重要な部分だ。

 言ったけど、それは一般的には強情なんていう。でもあたしの中の朔良ちゃんには、意志が強いという言葉のほうがぴったり。

 別名、強さ。

 それはあたしが朔良ちゃんに憧れる事のひとつだ。

 だからここもあたしが折れるしかない。だからって全部肯定は出来ないけど、あたしは頷く代わりにもう一回しっかりと抱きしめた。

「雪緒ちゃん、私ガンバルからね……」

「うん。大丈夫……すっとあたしが見てるから……」

「ふふ……見てるだけじゃだめよ。雪緒ちゃんは主役なんだから」

 朔良ちゃんは何だか不吉な事を言ってるみたいだけど、今は忘れよう。

 長い事、あたしたちは抱き合ったままだ。きっとこんなあたしたちを見たら、誰かが何かと誤解するかもしれない。

 でもそれは誤解かな? きっと違う。あたしは朔良ちゃんが大好きだから。朔良ちゃんのためならどんな事だって、やり遂げてみせる。

 朔良ちゃんの為なら強くなれる。今までは本当に弱っちかったけど、明日からは強くなろうとする。

 それがあたしのツヨサだから。



     3


 文化祭まで残り三週間ぴったりの日。

 その日を境に、朔良ちゃんの登校はぴったりとやんだ。

 もちろん休みがちだったけど、本当に日をつめて登校していたんだ。

 それはもちろん台本を進めるためだ。そして、まるでやり遂げたからなのかというほど、綺麗に登校が終った。

 つまり台本が完成したのだ。完成した台本を先生に提出した次の日、それがまさに今日であって、朔良ちゃんが来ていない日、休み始めた日だ。

 そして今は午後のホームルーム。お決まりだが、教壇には委員長が陣取っている。

「えと、倉持さんが担当していた台本があがりました。けど倉持さんは、今日から少しお休みするそうです。一応、役者分だけは刷ってみたので、読み合わせして見ましょう」

 みんなの反応を待たず、委員長は役者に台本を配る。

 実はあたしも、内容を見るのは今日が初めてだった。意地悪なんかじゃないけど、朔良ちゃんは途中でお話を見せてくれなかった。

 だから当然ドキドキが最高潮だ。朔良ちゃんのお話だって思うと仕方ないけど、あたし自身にも配役がある。それは経験したことないドキドキだからだ。小学校の時なんて、わかめや立ち木、村人その一、なんてのも回って来たことがない。

「それじゃ、はじめてね」

 委員長の号令で、危なっかしい初読み合わせがスタートした。


 朔良ちゃんのお話はこんな風だった。

 とある時代のとある王国の、とあるお姫様のお話。

 その姫は双子なんだけど、その時代に双子は悪魔の子だと言われていた。本当は生まれてすぐ、片方が殺されるはずだったんだ。でも大臣の温情で、十五の成人まで地下牢で過ごした片割れの姉姫。それを事あるごとに訪れるもうひとりの妹姫。

 そんな妹姫も恋する年頃。だが王国の姫は事もあろうに、下級騎士団の青年に恋をする。しかしそれは認められぬ恋。妹姫は隣国の皇太子との政略結婚が決まっていた。そこで妹姫は、囚われの姉姫に相談する。

 姉姫が出した答えは、自分が身代わりとなり、隣国に嫁ぐ事だった。

 一見美談にも聴こえる話だが、囚われ続けた姉姫は、その解放のために妹姫を利用したのだ。その身代わり行為は、妹の幸せであると同時に、姫という地位の剥奪と同義だった。

 姉は妹に復讐したかったのだ。

 自分が生かされていることに一片の感謝なく、大臣を怨み、妹を怨み、母を怨み、王国を呪って生きてきた。地下牢の十五年という年月はその温床になるには十分な理由だった。

「野に放たれる愚かしくも愛しい妹よ。わららが隣国の姫たる暁に、この呪われし国、滅ぼしてくれようぞ……わらわに王子なぞいるものか。わらわは例え独りでも成してみせるぞ! この大願、成してみせるぞ!」

 それが劇の最後のセリフだった。


 読み終えたあたしたち、そして聞いていたクラスメイトにも、言葉はない。そのお話は、中学生の頭ではとても理解できないものだった。唯一、先生だけが「う~ん」と低く唸っていた。

「こりゃすごいのが出来ちまったな……」

 先生はまたすぐに唸る。委員長でさえ、どうしたらいいのかわからずに、困っていた。

「先生、このお話は、私たちが劇にするのは、難しいと思います。変えたほうがいいんじゃないでしょうか」

 その意見にあたしは、思わず目を剥く。

 確かに、あたしは一人二役だし、冗談じゃないけど、朔良ちゃんがそれを望むなら、あたしはこなしてみせる。その自信も覚悟もある。それなのにお前は何を言っているんだ?

 よく見るとその娘は、朔良ちゃんが台本を書くのに反対していた、少数派女子グループのリーダーだった。

「う~ん、確かにそうかもしれんな。正直、先生は倉持がこんなにすごいものを書いてくると思っていなかったんだ。これは三週間なんて短い期間で出来るものじゃない。最低でも中学生がやるなら半年以上は必要だ」

 うん。朔良ちゃんを褒めているのは許そう。だが待て、あたしはここで納得してちゃいけないはずだ。この先に続く言葉ってのを見過ごしちゃいけないはずだ。

「じゃあ、私たちで直してもいいですか?」

 そら来たぞ。いいところだけを持っていこうとするやつらの言い分が!

「ちょっと待ってよ!」

 あたしはやっと役目が果たせそうだ。朔良ちゃんのナイトになれる時がきたんだ。

「せっかく、さく……倉持さんが一所懸命書いたんだよ。それを勝手に変えてもいいの?」

「……そんな事言ったって、先生だって無理だって言ってるじゃない。それに聞こうにも倉持さんだっていないでしょ。だから仕方ないのよ」

 それはどういう仕方ないだ? 先生が言ったからか? 朔良ちゃんがいないからか?

 違うだろう、違うだろう! それはお前たちが「やってあげなくちゃ」「仕方ない」だろう! そうか、お前たちは後からそうやって朔良ちゃんの作品にいちゃもんつけようと思って、あの時賛成しなかったんだな!

 あたしの中で怒りが渦を巻く。もし朔良ちゃんがここにいたら、自分の台本の事なんて放っておいて、あたしを抱きしめたかもしれない。あたしはそれほどに怒りを顔に灯して彼女たちを睨みつけていた。あと一秒、それ以上待てない。あたしは掴みかかろうと身を崩す寸前だった。

「まぁ、待ちなさい」

 さすがに危機感を見出したのか、先生が止めに入った。どんな鈍感な人間でも、今のあたしの殺気は感じ取れるはずだから。

「もちろん、倉持の努力を無にすることはできない。だが、悲しいが現実って物もある。だからみんなで意見を出し合って、この台本をみんなができるものにして行こう。ほら委員長、意見を聞いて」

「あ、はい……それじゃ、台本は人数分ないんですが、気になったところや、こうした方がいいって思うところを言ってください」

 そしてまた雑談のざわめきが教室に広がった。あたしはその中でひとりきり、誰とも話さずに俯いていた。

 あたしはまた守れなかった。朔良ちゃんの大切なものをまた守れなかった。

 朔良ちゃんが想いを込めて作った台本を誰の手からも守れなかった。

 あたしは他人から見れば、怒っているように見えただろう。でも本当は、泣いていた。声を出していないだけで、わんわん泣いていた。

 あれだけ誓ったのに、あれだけ約束したのに、あれだけ朔良ちゃんと……。


 どうしてあたしはこんなに馬鹿で間抜けで、ダメダメちゃんなの? 神様とかいるんでしょ? だったら教えてよ。あたしがどうすればいいか……じゃあ教えてくれなくてもいいから、朔良ちゃんを守ってよ……お願いだから……。



 数日後、みんなの意見を取り入れた脚本が出来上がった。中心になって編集したのは、あのグループのリーダーだった。

 その作品は、なるほど中学生がやるにはいいものになっていた。でもそれだけだ。

 いや、それだけならいい。むしろ二重丸をあげよう。

 でも一番酷いのは、朔良ちゃんの台本から残っていたものが、登場人物の名前と、あたしがお姫様っていう設定ぐらいだった。

 それはもう別物って言ったほうがいい。ただあの娘たちが、朔良ちゃんの作品を参考にして、自分たちがいかにも作りましたっていう顔をしている作品だ。

 知らない人はそれでいいかもしれない。でもあたしは許せない。朔良ちゃんを汚したあいつらを許しちゃいけない。

 でもここで、あたしが主役を降りるなんて言い出したら、あいつらの思う壺だ。そうなったら、お姫様の名前まで変えかねない。もしかしたら、お姫様まで消しかねない。

 せめてそれだけは、王子としてナイトとして守らなければならない。

 あたしは意地でも主役を降りない。どんな穢れたシナリオでもやってやる。

 お前たちに、朔良ちゃんの最後の一葉まで散らさせてなるものか。


 シナリオの通り、あたしは勇敢で男勝りなお姫様をせっせと練習した。見たいテレビも我慢して、セリフをちっちゃな脳みそに刷り込んだ。浅いシワに、これでもかって刷り込んで、必死に頑張った。

 それにもうひとつの事実は救いなんて思っちゃいけない。でも、朔良ちゃんが文化祭当日まで学校に来なかったのは、きっと救いだった。

 それは誰のための救いだろう。

 それはきっとあたしのための救いだ……また過ちを犯したあたしへの救い。


 でもあたしの過ちは大きく、そして深かった。だから、最後の最後で救いは解ける。いいとこで、次回に続くドラマみたいに。


 ほんの一呼吸置くぐらいの気持ちで、文化祭当日はやってきてしまった。

あたしはもちろんガチガチに緊張してて、他のクラスの出し物なんて、見てたくせに、何の記憶にも残っていない。

そんな中、自分のステージ発表が無事に終わり、みんなの興奮が冷めやらぬ間に、あたしは気分が悪くなってひとりで体育館から出ていた。

もちろん、一体感やそれなりの充実感もあった。でも、それがいっぱしにある自分が、さらに許せなかった。自分がどれだけの罪を犯したか忘れたみたいで、気分が悪くなったのだ。緊張も一気に解けてしまって、今は体のダルさに全て変換されていた。

 傾いた秋の光は、まだまだ強くて、眩しさに眼を細めた。

 その視界に、誰かが立っていた。

「えっ?」

 それ以外の言葉なんてなかった。

 だって、そこには朔良ちゃんが立っていたから。

「おつかれさま、雪緒ちゃん」

 とても優しい声だった。秋なのに、春の舞い散る桜吹雪のなかにいるのかと思った。

 甘い、それなのに酸っぱい、梅ガムの味を思い出した。

「さ、くら……ちゃん……?」

 今まであった胸のむかつきというか、気分の悪さというか、そういう不快感が、全て一瞬で消えた。

 でも、消えただけだ。

 その一瞬の清涼の後、足元から疾風に乗って身を包んだのは、どんなものにも例えられない、不快感だった。

 あたしの見ている世界が、ゆっくりと歪みはじめる。

 ぐにゃ、ぐにゃぐにゃり、ぐにゃりぐにゃぐにゃ……。

 リズムに乗って陽気に軽やかに崩れていく。

 くそ、どうかしてる。どうかしてるぞ、あたし。目の前の朔良ちゃんの姿が、波模様のすりガラスの向こうにいるみたいに、見えなくなっていく。

「朔良ちゃん……あた、し……」

「ん、どうしたの?」

 あたしはふらふらしながら、汗ばんだ手を朔良ちゃんに伸ばす。そして、一歩踏み出した膝がかくんと折れた。

 慌てて、あたしは傍にあった鉄柱につかまる。でも支えられなくて、そのままずるずると落っこちて、地べたに座り込んだ。

「ちょ、雪緒ちゃん!」

 朔良ちゃんも駆け寄ってくる。

 ダメだよ朔良ちゃん、急に走ったりしたら……言おうとした言葉全てが、ため息に強制変換されて、口から漏れた。思いだけが空しくあたしの心の中で反響した。

「雪緒ちゃん!」

 すぐ傍で朔良ちゃんの声が聞こえる。ああ、何だか今日もいい匂いだなぁ。朔良ちゃんは。

「大丈夫! 今飲み物もらってくるから」

 朔良ちゃんは言い残して、あたしから離れて行く。

 ああ、行かないでよ、いい匂いなんだから。



 そしてほんの一分ほどして、朔良ちゃんは帰ってきた。手にはあたしの大好きな銘柄のアップルティーのペットボトルを持っている。

「はい、ゆっくり飲んで……」

 あたしは言われるままゆっくりと噛むように飲み込む。

 まぁ、なんてことはない。あたしは劇の熱気に当てられて、のぼせていたんだ。要するに、軽い脱水症状だった。

「落ち着いた?」

 小首を傾げた朔良ちゃんが、あたしを見上げる。

 あたしはきゅぽんと、甘噛みしていたペットボトルの口から、唇を離した。

「う、うん。もう大丈夫みたい……」

 でもどうして? っていう疑問を、あたしは飲み込む。

どうしてもクソもないや。

朔良ちゃんは、劇を見に来たのだ。

「あのさ……」

「劇、よかったよ」

 あたしの言葉を朔良ちゃんは遮る。

 そして続けていく。

「やっぱり雪緒ちゃんのお姫様はイメージぴったりだったね。それにちゃんと立ち回りも決まってて、見てる人みんな、おお! って騒いでたよ。それにね、私はあそこのシーンが好きだったな。ほら、王子様がお姫様をかばって切りつけられちゃうトコ」

 ねぇ、ちょっと待ってよ朔良ちゃん。

 これって何なの? いったい朔良ちゃんが何を言ってるのかわかんないよ。

 だってこれ、朔良ちゃんの台本から残ってるのなんてほとんどないんだよ? 別物って言ってもいいんだよ? 朔良ちゃんに断りもなく、勝手に変えられちゃってるんだよ?

 でも朔良ちゃんはまだ続ける。

「そうだねぇ、ちょっと惜しい所は、照明かなぁ……ほら、ラストシーン。あそこはやっぱり夕焼け色で決まりよね。なのに青だなんてちょっとねって……雪緒ちゃんもそう思うでしょ? まったく、私の台本って中学生にはハイレベルすぎたのね。それも把握しないで書いちゃった私のミスもあるわね」

 朔良ちゃん、もういいよ。もういい、もういい、もういい、もういい、もういい……。

「もういいよっ!」

 思っていた事が、自然と言葉になっていた。

「そ、そう?」

 朔良ちゃんは驚いたふりしてるみたいだった。

「もう、いいよ……」

 指からペットボトルが抜け落ち、コンクリート打ち出しの地面にぶつかる。微妙に中身の残ったそれは、ぽよんっていうような変てこな音をたてた。

 あたしの体は朔良ちゃんに吸いつけられるみたいに、動いていた。そして思い切り抱きしめた。きっと汗の匂いがして、朔良ちゃんは嫌がるだろうけど、そんな事どうでもいい。

 これ以上、朔良ちゃんに何も喋らせてなんてあげない。

「…………」

 沈黙のなかで、ペットボトルからこぼれるアップルティーがトクトク、シトシト、コンクリートをぬらしていく。あたしはそれを朔良ちゃんの頭越しにじっと眺めていた。

 朔良ちゃんがあたしに抵抗しなくなるまで。

 朔良ちゃんがあんな事言わないように、ずっと抱きしめた。

 そうやってペットボトルの中身が可能なだけこぼれ終わる頃、秋の少し冷たい風があたしの尻尾を揺らした。

「ふふ……ふふ……」

 あたしの胸の中で朔良ちゃんが急に笑った。

 でもなぜだろう? いつもなら、耳に心地のいい朔良ちゃんの笑い声のはずなのに、この時だけは、力のないセキセイインコみたいだった。

「苦しいよ、雪緒ちゃん……もうヘンなこと言わないから、離して……」

 そう言われたので、ゆっくりと腕を緩めた。

 でも言われたとおりにしたのに、朔良ちゃんはあたしから離れない。それどころか、おっぱいに顔を擦り付けるようにしている。

「朔良ちゃん?」

「ううん。何でもない。何でもないけど、こうしてたいの。ねぇ、いいでしょ雪緒ちゃん……」

 あたしが朔良ちゃんのお願いを嫌だなんて言うわけないのに、なんでわざわざ聞くんだろう。

 そんな風に疑問で頭をグルグルまわしているうちに、なんだか湿った匂いがしてきた。

 普段なら、雨かな? とか思うけど、今は違う。いくらダメダメなあたしだって、この出所に気付かないわけにはいかない。

 それは朔良ちゃんだから。

 でもここで、「泣いてるの?」なんて聞くわけにはいかない。そんな事聞いちゃったら、朔良ちゃんが顔を上げない理由をあたしがつぶしちゃう。

 だからあたしはゆっくりと朔良ちゃんの髪をなでた。

 でも、どうして? どうしてそんな風にするの?

「ねぇ雪緒ちゃん……」

 また疑問で頭の中をいっぱいにしてた時、朔良ちゃんの声がした。

「なぁに?」

「うん……どうして……」

 声は途切れ途切れで、やわらかな秋風の音にさえ負けそうだった。

「どうして私のお話って、変えられちゃったのかなぁ……ねぇどうして……」

 寂しい声だった。でも、あたしはいやらしくも安心してしまう。

 いやらしい! ホントにいやらしいぞ、あたしは! 

 だってそうだろう? あたしは朔良ちゃんの弱い部分を目の当たりにして、自分と同じじゃんって、安心してるんだぞ……本当にあたしに、朔良ちゃんを胸に抱く資格なんてあるのだろうか?

 でも、朔良ちゃんの匂いがあたしを包む。秋より穏やかで、春より柔らかな匂い。

「うん……ちょっと、お話がね難しすぎたんだって……ほら、あたしたちバカだから」

 おバカなあたしはやっぱりそんな事しか言えない。真実を伝えるのがいつも優しいなんてウソなんだぞ。でもこの口はいうこと聞きゃしない。この手は朔良ちゃんをナデナデするのに手一杯。上手い事なんて、ひとつも言えやしない。

「そっか、それだけの理由なの?」

「うん」

 何だろう、それ以上に理由なんてあるはずがない。

「先生はとってもよくできてるって褒めてたよ。でも、中学生がやるには時間がないって、それだけだよ?」

 あたしは言うけれど、まだ朔良ちゃんは顔を上げてくれない。

「ねぇ、本当に?」

「うん」

「本当に……?」

 何だか朔良ちゃんがやけにしつこい。どうしたんだろう、本当に。何かを言おうとしてはやめて、また言おうとして口の中に飲み込む、みたいな消化不良を繰り返してるみたいだ。

 それでも何度かして、やっと朔良ちゃんはぽつりと言った。

「ねぇ、私の……だから、変えられちゃったんじゃないの?」

 おっと、何だこの言葉は。またあたしじゃ理解不能のものだぞ。

 んん? もしや、もしかして。

 これはアレなのか? 朔良ちゃんが作ったから、朔良ちゃんの作品だから変えられたんじゃないかって言ってるのか?

 朔良ちゃんだから…………。

「違うよ、違う。そんな事あるはずない」

「本当?」

「うん、何か……あたしの命賭けたっていいよ。それは絶対にない」

 言った瞬間にあの娘たちの顔が浮かんだけど、後であたしなりの丁寧さで言い含めておこう。

 ほら、さっき言ったアレ。真実ばかりが優しさじゃないってやつよ。

 ただ、あたしだって、彼女たちの真意は知らないから、この際聞いてみるのもいいだろう。案外、あたしの思い過ごしっていうのもあるかもしれない。

 そう思い、あたしはまた朔良ちゃんの髪を撫でつけた。

「うん……そっか、そうだよね。私の雪緒ちゃんがウソなんてつくはずないもん」

「うん、そうだよ……」

 そして朔良ちゃんは顔を上げた。

 涙の温い匂いのする顔を、あたしに向けた。

 その顔はもう、笑っていた。

 笑っていたんだ。すごくステキに笑ってた。

 だからあたしは胸が痛んだ。

『いま泣いたカラスがもう笑う』

 あたしにしたら難しい言葉がでてきた。

 でも朔良ちゃんはこれだった。

「ありがとう、雪緒ちゃん。言ったけど、よく考えたら、私が悪いんだよね。劇の規模だとか練習期間だとか、ひとつも考えてなかったんだから。自分勝手に書きたいもの書いちゃったから、みんなに受け入れられなかったんだね」

 そう言って、えへへなんて声が似合いそうに笑っている。

「でも、本当。雪緒ちゃんが私の考えた名前で演じてくれてたの、すごく嬉しかったよ」

 また笑ってる。

 ニコニコしながら、でも涙の匂いを撒き散らしながら笑ってる。

「ねぇ、私の考えた名前さ、みんな気に入ってくれてたかな?」

「うん、もちろんだよ」

 でも、あたしからも聞きたいよ、朔良ちゃん。

 ねぇ、それは強さなの? 強がりなの?

 どっちだってあたしには結局、朔良ちゃんのツヨサにしか見えない。

 あたしは弱いから、そのツヨサにおんぶにだっこだ。

 そして、完敗。あたしは朔良ちゃんと何一つ同じじゃなかった。朔良ちゃんはやっぱりとても、とても強かった。

 何があっても、何者に対しても、あたしより勇敢にあたしより果敢に立ち向かって、例え破れても、笑顔で立ち上がる。

 やっぱりあたしの勇者さまだった。


 でも、本当にそれはツヨサなの? 

 朔良ちゃん……。

 あたしは確固たる理由っていうのを前にして、少し竦んでいた。


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