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#01 雪緒と朔良

 病気がちなあの娘


 #〇一 雪緒と朔良

      1

 あたしが住んでいる街は、地方市ながら人口は合併を経ずとも、約十万とかなり大きいほうだ。だから、そこで活動している劇団なんてものもある。市が芸術だとかを奨励しているというのもあるのかもしれない。

 ともかく、そこ「劇団QQQ(サンキューと読む)」があたしの所属劇団だ。

 そしてこの少々痛みが激しいプレハブが稽古場だ。それは劇団に歴史があるとかではなく、ただ単に工事現場のお古しか買えなかったのだ。設立年数で言うと、六年目らしい。

あたしは短大時代に演劇を始めて、それ以来すっかりハマってしまった。ちなみにその短大もこの街にある。演劇部での勉強をかねてQQQの公演に通っているうちに、自分も所属していたというわけだ。

順当と言えば間違いない道程だと思う。

 あたしは自転車から飛び降りると、一声を発した。

「おはようございます!」

「おっ、雪緒っち早いじゃん」

「本当に、他のやつらも見習って欲しいな」

 あたしの挨拶に返してくれたのは、劇団の座長と、円子えんこさん。ふたりとも設立にかかわっている古株だ。

「いやぁ、あたしなんてこれぐらいしないと。下っ端構成員ですから」

 あたしはぺこりと頭を下げて、二人にお茶を出そうと、炊事場に走った。

「あっ、いいって、いいって。それよりコッチ来て話でもしようや」

 座長が呼ぶので、あたしは炊事場に向いた足を止めて二人を振り返る。座長はいつもこうで、小難しいシキタリだとかより、コミュニケーションを大事にする人だ。

「どうだ、もう慣れたか?」

「よく言うよ、こんな変なやつらばっかりいるのに、そんな簡単に慣れるかっての、ねぇ雪緒っち?」

 円子さんは座長の話にごく自然なツッコミをいれる。それはまるで、舞台上の演出のような絶妙さだ。

「ふふふ……」

 だからあたしは吹き出してしまう。

「んっ? どうしたんだ」

「ばっかね、あんたが変な事言うからに決まってんじゃん」

「……すいません。何だかお二人って夫婦漫才みたいで……」

 何気なく言った事だけど、ふたりは顔を見合わせてから、「ぎゃはは」と盛大に笑った。

「そりゃそうよ、私たち昔は付き合ってたんだもん」

「まぁ、そう見えても仕方ないか……ちなみに円子は、まだ俺の事が忘れられないらしいぞ……かわいそうなやつだ」

「ぎゃははは! そんなわけあるかぁ!」

 ふたりはそんな風に軽く言ってのけるけど、初めて聞いたあたしは、目を丸くするぐらいのリアクションしか取れない。

「むっ、そんなリアクションじゃ、まだまだ初舞台は遠いなぁ」

 すかさず円子さんは、あたしの丸まった背中をばんと、たたいて気合を注入する。

「おいおい、無茶言うなよ。お前のわかりにくい芸にリアクションなんか取れるかよ」

「ほー、言うじゃない」

 と、あたしを置いて、ふたりは漫才の続きを始めてしまった。けれど二人の関係って何かいいなと、あたしは思う。男女の関係から今のあんな関係になるまではきっと、あたしの想像なんて及ばない事がたくさんあったに違いない。

 それこそあたしと、朔良ちゃんみたいに。

「ふふふ……」

「ほら見ろ、お前がつまんないから、笠屋、失笑だよ」

「あに言ってんのよ。あんたがつまんないからに決まってんじゃん」

 円形レールの電車と同じく、ぐるぐる何かさっきと同じ事を言っている気がするけれど、とりあえずどちらも違うので、あたしは弁解する事にした。

「違いますよ。何だか二人の関係っていいなって思っただけですよ」

 あたしは素直に思ったことを言った。

「はは。そういう事か……まぁ色々あったけど結局はこういう形が一番落ち着くってわかったんだよ」

「おうおう、よく言うわね。格好つけちゃって。ウチのお母さんに言わせりゃ、これが娘を不幸にしている男か……なんだから! 雪緒っちはこんなタイプにつかまっちゃダメだかんね、もちろんコイツにも!」

 あたしは笑うに笑えず、どうしようかと思ったけども、本当にいいなと思ったんだ。あたしも朔良ちゃんとはあんな風にこれからもやっていきたい。

「……朔良ちゃんは女の子だけど」

 何か言った? と円子さんに漏れ出てた独り言に対して聞かれたけれど、あたしはごまかして、にやりと笑った。

「おはようございまーす」

 そこに助け舟のように、ほかの団員たちがぞろぞろとやってきた。あたしはここがチャンスだと、みんなにお茶を振舞う準備に走った。言ってみれば単なる逃走。


 そうして、午前も午後もみっちり演技やら何やらの稽古をして、夕焼けが夜に変わり始める頃に帰宅するのが、あたしの日課だ。

 大部分の団員たちは、パートやアルバイトのために、一日通しで稽古できる人はいない。

 あたしはといえば、親のすねかじりなので、その点だけは楽だ。

「だから、他の人たちより早く上手くなってやるんだ。汚いかもしれないけど、そこが皆より、唯一あたしがアドバンテージを握ってるトコなんだから……まぁ……お母さんの小言は嫌だけど」

 あたしは自転車のギアを変えて、今朝駆け下りた長い坂道を登る。

「本当に……この坂は……何回登っても……嫌になるなぁ……」

 せっかく固めた決意さえ、この道のためにへこたれる。それは小中高校、短大の時も今も同じだ。バイクでも買えばいいんだけど、なぜかあたしはこの自転車が好きなんだ。お父さんのお古で、すっごく汚くて、女の子らしさのかけらもないやつだけどね。

「むぎぃ、あと一息!」

 やっと登りきった坂道の天辺で、あたしは一息つく。

 そうして夜空を見上げていたあたしのポニーテイルを揺らして、風が通り過ぎていった。

 ざわざわと不吉に、今は葉だけになった桜の木を鳴らしていく風を追っていたら、自然に朔良ちゃんの家に目がとまった。

 大きな白い塗り塀に囲まれて、立派な倉のあるがっちりした日本建築の家。それが朔良ちゃんのお家だ。

 そして、奥まっているけれど、通りに面していて、ここからも小さく見えるあの窓が、朔良ちゃんの部屋だ。

 きっと『深窓の令嬢』なんて言葉は、彼女のためにあるんだ。実際、朔良ちゃんの家は代々議員を勤めた家系。お父さんもこの市の若手市議会議員だし、いずれは最年少で市長になるだろうといわれている人だ。

「でも……」

 あたしは一人でくすりと笑う。実は朔良ちゃんの部屋は、そんなに女の子女の子していない。すごくさっぱりとしていて、ぬいぐるみに混じって、ロボットや車のプラモデルなんかが飾ってあったりする。

 自慢じゃないけど、あたしの方がよっぽど女の子らしい部屋に住んでいる。

「でも、それだっていろんな事が重なって出来上がった事なんだ……もし病気じゃなかったら、朔良ちゃんはどんな娘になっていたんだろう」

 歴史に「もし」がないように、人生にもそれはない。過去は過去として、今とは切り離されていて、それは未来も同じ。あたしたちには、ただ「今」があるだけだ。

 それに、きっと元気な「今」があったとしても、朔良ちゃんは同じだったと思う。そしてあたしとも友達になっていてくれたと思う。

「朔良ちゃんはそういう娘だもんね……ってこれはあたしの願望か……」

 あたしが言い残して帰ろうとした瞬間、朔良ちゃんの部屋に明かりが灯った。

「あ……」

 それは何でもない事だけど、なぜかあたしに色んなやる気をくれる。がんばろうという根拠のない力が湧き出てくる。

 それは朔良ちゃんが部屋にいるという安心感からかな? 

 彼女が部屋にいるということは、比較的元気でいるということなんだ。入院しなくてもいいというサインだ。だからあたしはやる気になるんだろうか。

 だとしたら随分と身勝手なものだ。

「でも、朔良ちゃんはそんなあたしでも、きっと笑って許してくれるんだろうね……」

 あたしは静かに心の中でお休みと呟いて、自転車を家へと向けた。


「ただいま~」

 抜けた挨拶をすると、丁度キッチンから母が顔を覗けていた。あたしと目が合うと、明らかにあきれた顔つきになる。

「……あら、今帰ったの? いつも遅いのねぇ」

 あたしは母の言いたい事がわかるので、むっとする。例えそれが本心からのものでなくても、冗談にしては、笑えない。

「本当に役者なんて雪緒にできるのかしら? お母さんは早く結婚でもしてもらって、初孫が抱きたいわ……それが嫌なら就職でもしなっ」

 ほら、笑えない。あたしは今まで男の子と付き合ったこともないのに、(っと、これは誰にも秘密)いきなり結婚に、孫だ、だもの。それが嫌なら就職? どれも却下ですお母様。

それにあたしにある、最近の男の子の接点といえば、劇団に入ったばかりの時に一度だけ、無理を言って朔良ちゃんにまでも来てもらって参加したコンパのみ。ひとりじゃ怖かったし。でもお酒がダメなあたしはすぐに帰っちゃったからなぁんにもなし。それに朔良ちゃんはあたしより先にいなくなってたし。

 確かにそういう自分はちょっと、遅れているというか、劣っているというか……そうは考えるけれど、今は演劇が第一なんだ。劇団にも男の子はいるけれど、そんな気はさらさらない。浮き名は有名になってから垂れ流すことにするわ、お母様。

「……言ってれば……そんなに赤ちゃんが抱きたいんなら自分で産めばいいでしょ」

 だからこっちも笑えない冗談で切り抜ける。

「……あら、それもそうね……」

「……はぁ……」

 あたしは深い溜息をついて、洗面所へ向かった。

「いただきます……」

 一応の挨拶を置いてみるけど、母はとっくに食べた後で、リビングでバラエティ番組に笑い声を上げている。

 あたしは一人寂しい夕食を、もぐもぐとやりながら、遠くに見えるテレビの画面を眺めている。

(……結婚に出産か……正直よくわからない……あたしはまだ二十歳で、やりたい事が一杯ある……それに子どもを産む事は女にとってそんなに大事なのかな……)

 少子高齢化。それはどこの地方紙でも問題視されてるほど重要なことだってわかっている。でも、実感がないというのは、煮過ぎたはんぺんに歯ごたえがないのと同じで、好きになれない。

でもきっと、あたしはバカなだけなんだろう。命という意味では、いつも誰の傍にでもあるものなんだから。それに朔良ちゃんという友達がいながら、それにきちんと向き合えない自分は、ダメダメ、ダメっ娘以外の何者でもない。

「へーへー、あたしが悪いんですよ……」

 情けなさに箸を置いたあたしは、残りのご飯を口に入れたままで、自室に立った。

 お行儀悪いけど、気にしてやるもんか。


     2


 その日は少し変だった。

 別にあたしが、じゃない。劇団の中がざわざわしているというのか、浮き足立っている。

 座長や円子さんはそうでもないので、あたしは何かあったとしても、そんな大問題じゃないだろうと思っていた。

 そうそれは、確かに座長や円子さんにとっては問題でも何でもなかった。けれど、あたしにとっては大問題だった。

「んーっと、それじゃあ夏公演の台本が上がってきたんで、来週の頭からオーディションします」

「人数分あるから、みんな順番にとってよぉー」

 夏公演、台本、オーディション。その三つで、あたしの頭の中は一杯になり、今までかいた事のない汗が、首筋に腋にと噴出してきた。頭の上にはわっかの湯気でも出ているんじゃないかと自分でも思えるくらい、意識がどろりとしている。

「雪緒っち、初舞台なるか? だね」

「は、はい……」

「おいおい、あんまりプレッシャーかけてやるなよ。お前だって初舞台ん時はガッチガチだったろうが」

「うっさいわね! あんたこそ、緊張しすぎて鼻の穴がヒクヒクしてたじゃんか。そんで鼻毛までコンニチワしてて! 舞台の上で掛け合いしつつ、笑いこらえるのに苦労したっての!」

 と、いつも通りのふたりはコントを始めてしまったけど、あたしは本当にやばい。

 何しろ台本を受け取ってから、手の震えが止まらないんだ。

 もちろん今までに舞台には何度も立ったことがある。短大時代には勉強そっちのけだった。(二年生の時は全ての教科が可だったのは親にも秘密)しかし言い方は悪いけど、それは所詮、お遊び部活動だった。オーディションなんかない。やりたい人がやりたい役をやれた。

 その程度の活動人数しかいなかった。

 でも、これは違う。

 オーディションに合格すれば、それはあたしのプロとしての初舞台になるんだ。

 そして、ここにはそれを背負って来ている人しか存在しない。

 ――戦場なんだ。

 思った瞬間に、頭上にはレシプロの飛行音が迫り、どこかで迫撃砲が叫ぶ声が聞こえ、膝ががくがくと震えだして、妄想からやってきた緊張がより現実味をくれた。

(これが武者震いなんだ……)

 初めての感覚があたしを包んでいる。でもそこに、声ではなく、視線が絡み付いてきた。

 ぞくりと背筋が波打つ気がする。そういうのは幽霊とかを見なくても感じるんだと知った。だからっておりこうさんになれないのがあたしだけど。

 その視線の主は、一年先輩の舞奈まいなさんだ。

 どうしてあたしにあんな視線が向くんだろうと思ったけれど、それの答えは台本の中に隠れていた。ああもう、いらないものがコンニチワ。

「あちゃー……」

 あたしは誰にも聞こえないように苦悶を漏らした。日頃の鍛錬や方向性からどう考えても配役上、彼女とあたしが受ける事になりそうな役が、かぶってしまっている。

 それはすなわち、あたしと舞奈さんがライバルになってしまうということだ。

「……なら仕方ないか……」

 あたしは舞奈さんの視線の意味を理解する。

 今まであたしがしてきた仲良し部活動とは違う。これがプロの世界なんだ。優しさも凶器に変わる瞬間が、わんさか道端に石ころみたいに転がっている。

「…………」 

 そう理解してしまうと、武者震いがただの震えになってしまった気がした。

 改めて自分が、抜き身のナイフを常に突きつけられている世界にいるんだと、実感した。

 そんな風だから、頭まで痛くなってきた。

「……でも……やるしかない……」

 それがあたしの選んだ道。そのはずなんだけど、今はとても怖い。

「んじゃ、今日はこれでお開きだ! 各自、どんな配役になっても、台本は全ての役割の元になる。きっちり読み込んできてくれよ」

 座長のありがたいお言葉も、話半分のあたしは、重い足を引き摺って家路についた。


 でもそのまま家へと真っ直ぐ帰える気になれなくて、あたしは立派な門の前に立っている。ガタガタぶるぶる、かわいくもないチワワみたいなあたしに代わり、朔良ちゃんならそうでも絵になるだろうな。

 いつもなら気兼ねなく押す呼び鈴だけど、今日は何だか気が引けた。それは弱気なあたしが、朔良ちゃんに頼ろうとしているからだ。

「……あたしはどうしようもないやつだなぁ……」

 落胆はしてみるものの、だからって、そのまま何もせずには帰れない。あたしはそういうズルイやつなんだ。

 ピンポーンという、あたしの心情など、どこ吹く風な軽い音の後、「どちらさま?」という丁寧な声が返ってきた。

「あ……雪緒です」

「まあ、雪緒ちゃん? 今あけるわね」

詩子うたこおば様は、あたしのお母さんと比べられないほどお上品で、いつも優しくしてくれる。

 今にして思えば、それはあたしが朔良ちゃんの一人きりの友達だったからかもしれない。

「と、お上品じゃないあたしは、愚かにも考えちゃうんだよなぁ……」

「?」

 玄関で出迎えてくれたおば様は、あたしの独り言に首をかしげていた。

「朔良ちゃんはお部屋ですか?」

「そうなのよ……今日は加減がいいからって言ってたんだけど、雪緒ちゃん、朔良が無理してないか見てあげてくれる?」

「はい」

 庶民派の代表みたいなあたしが、おば様なんて言えるのも、ここに小さな頃から出入りしていたからだ。

 とか考える事も、実は朔良ちゃんと自分との間に、違う人間なんだよと線でも引いているみたいだけど、事実は事実だ。

「だってこんな、二階の廊下にいきなり、でっかい絵とか、どっしりした壺なんて、家にはどこにもないし……そもそも、玄関にでっかい木の輪切りとかもないし、玄関が私の部屋ほど大きいなんてないしっ」

 呆れながら、庶民庶民あたしは庶民と自分に呪いをかけつつ、朔良ちゃんの部屋のドアをノックする。

「はい……誰?」

 そうすると、ノックの音にも紛れそうなほど繊細な声が返ってきた。いつ聞いてもこの声は、優しさというのか、そういう柔らかさで一杯だ。

「あたし、雪緒……」

「雪緒ちゃん? 開いてるから入ってきて」

 一段跳ね上がったトーンの声で、あたしは朔良ちゃんが本当に今日は加減がいいのだとわかった。

「お邪魔します」

 あたしは決まりきった挨拶をするが、それが朔良ちゃんには気に入らないらしい。

「もう、お邪魔なんかじゃないんだから、そんな事言わないで」

 ベッドの横のサイドテーブルに、膝からどけたノートパソコンを置いた朔良ちゃんは、あたしを見て、一層に頬を緩ませる。その頬は何ともいえない血色で透き通った白を通り越して、見つめたら溶けそうな白い肌なのだ。桐の化粧箱に二個だけ入って売ってる高級桃みたい。

「おば様が今日は加減がいいって言ってたけど、ホントみたいだね。でも、あんまり無理しちゃだめだよ」

 あたしはノートパソコンを指差しながら言う。それに朔良ちゃんはあきれたように溜息をついて返してきた。

「ちぇっ、お母さんの入れ知恵なんて実行しなくてもいいの……それに書ける時に書かなきゃ終らないわ」

 朔良ちゃんはお話、というか小説を書くのが好きだった。ベッドでもあまり体に負担をかけずに済むから、というのが理由らしい理由だ。でも、それだけで創作活動なんてしないだろう。第一、頭とか目とか、肩だって指先だってすごく疲れると思う。

 でも、残念ながら真意はあたしにはわからない。それはあたしが小説なんて書いたことがないからだろう。そもそもあたしには文才なんてないみたいだし。卒論だって資料本のつなぎあわせで切り抜けたんだぞ。

 私は役者だし、読む方の専門でいいのだ。

「よっと……」

 あたしはいつものように、ベッドの縁を背もたれにして、フローリングの床に座った。

「で……今日はどうしたの?」

 と、朔良ちゃんは全てを見通したように聞いてくる。

 あたしは、えっ? と思うのだが、その通りなので、何も言えない。

「ごめんね……こんな、自分に何かあった時しか来ないようなやつで……」

 あたしはしょんぼりする。自分で言っていて、すごく情けない。だから、そんな顔を朔良ちゃんに見せないように、あたしはいつも背中を向けて座るのだ。だからこうして座った時点で、あたしのしたい事なんて、朔良ちゃんには筒抜け。

「……そんな事ないよ。雪緒ちゃんは私が会いたくなって、来てくれるって、お願いしたら絶対に来てくれたでしょう? 本当に都合がいいだけの人は、そんな時にも別の都合をつけて、来てなんかくれないよ。しっかり自分の名前を書いたのし紙つけた、高そうな四角い箱のお菓子を積み上げていくだけ」

 朔良ちゃんがどんな顔をして、そう言っているのか、あたしには見えない。でも、想像はつく。

 家の前の公園で、青い空の背景に散り咲く桜を見つめるように、物憂げと優しさをごちゃ混ぜにした言い難い目で、あたしの後ろ頭を見ているんだ。

 あたしはそれが嫌いなわけでも、苦手なわけでもない。かと言って進んで見たいとも思わない。なぜならそれは、朔良ちゃんの命そのもののような温かさだからだ。

 その瞳をするたびに、朔良ちゃんの命がどこかへ放出されて、消えていくようなのだ。

 あたしはそれが怖くて、直視できないでいる。

「……自分勝手の臆病者……」

 あたしは呟いて、抱えた膝に顔を寄せて、自分の汚れて黒くなった白い靴下をいじった。

「……もう、黙っちゃって……雪緒ちゃん、私にお話しがあるんでしょ? 何だって聞いてあげるよ」

 朔良ちゃんはそっと手を伸ばして、自分の子どもにするように、あたしの頭を撫でてくれた。かいぐりかいぐり……なんて擬音が聞こえてきそう。

「……うん……」

 それは魔法だ。細くて白い指が、さわさわと髪の毛に触れる音で、心に刺さったとんがった棘が溶けていく。

 だから重いあたしの口も、自然と開いていく。ハマグリがあちちって、突然パカっとなるみたいじゃなく、本当にゆっくりとね。

「今日ね、新しい舞台の台本もらって来たんだ」

「そう、じゃあ……やっと初舞台ね?」

 朔良ちゃんは嬉しそうだけど、そうじゃない。

「そうなればいいんだけど、あたしの役ね、オーディションになりそうなの……そいで、そのかち合ってる人ってのが……」

「ふぅん……」

 そこまで言っただけで、朔良ちゃんは全て読み切ってしまったようだ。

 あたしの不安なんて、どんなものでも朔良ちゃんの前では、何てことない。それは朔良ちゃんの悩みや不安というのが、あたしの測れないほど大きいからだろうか。

 だからあたしはここに来ているのかな? 大きなものの前なら、自分のものがいかに小さいかを知れるから……そうして、自分の心を軽くする……だとしたら、あたしは本当にどうしようもない極悪人だ。お菓子を積み上げてくれる人のほうがよっぽどマシ。

 あたしは違う違うと、頭を振って朔良ちゃんの方を向いた。

「その人と競って、役がとれそうにないの?」

「……違うよ、そうじゃない……はずなんだ」

 あたしにだって、少しだけど自信や意気込み――言葉にしたら自負はある。負けやしないぞと言う、そういうものが。

「……そっか、雪緒ちゃんは、嫌なんだね。その人が自分のせいで落ちたり……もちろん自分が落ちちゃうのも」

 朔良ちゃんはまたあたしの頭に手を伸ばす。

 そしてポニーテイルを持ち上げて、指を通した。

「だから、雪緒ちゃんのこと、好きだよ……」

「へっ?」

 それは告白だろうか……もちろんそんな意味じゃないのは知っているけど、ここがヒグラシの声で埋まる夕暮れの教室じゃないことが少し残念だった。

「雪緒ちゃんは、ちゃんと悲しい事を知っていて、その痛みがわかってる。たとえそれが他人のものでもね……だから好きよ」

 あたしは錯覚じゃないかと思う。直視もできていない、朔良ちゃんの目が潤んでいるように感じるんだ。

「うん……あたしだって、できる事なら傷つきたくなし、傷つけたくない」

 そんな事が詭弁だって事は、ダメダメなあたしでもわかる。人は生きていれば、故意でなくても、誰かしらを傷つけてしまうものなんだ。全部が全部、同じ利害で生きていけるわけないじゃん。

「そうだね……でも、雪緒ちゃんの望んだ世界は、そういう世界なんだよ……悲しくても、それを乗り越えなきゃ夢は叶わないよ……」

 ポニーテイルの毛先を、わしゃわしゃと揉んだ朔良ちゃんの指が、あたしの頬をつついた。

「だから、がんばってね……私が見に行けるようにだよ?」

 加減がいいといっても、こうして部屋から出て行けない。もしかしたら数ヶ月前、無理に来てもらったコンパ以来、外出していないのかもしれない。それはあたしの罪悪感をひどく刺激することだ。

 でも、それが朔良ちゃんなんだ。ずっとずっとそうして生きてきた朔良ちゃんの生き方なんだ。

「そうだね……迷ったり悩んだりする必要なかったんだ……だってそれは、夢に迷ってるって事だもんね」

 あたしは頬にある指に、そっと自分の手を重ねる。

 それは柔らかくて、白くて細くて長い。

体はよわっちくて、そのくせ性格は活発。パーツ、パーツがこれでもかというぐらい、女の子している朔良ちゃん。

小学生の頃、これを生っ白くて気持ち悪い妖怪みたいだ何て言った男子は、あたしがぶっとばしてやった。

「うん。あたしガンバルよ! だから朔良ちゃんも、おば様に心配かけないようにしないとだめだよ?」

「もう、結局のところ、雪緒ちゃんはそこに話を持って行っちゃうのね……仕方ないなぁ」

 大きくふぅっと、溜息をついた朔良ちゃんはベッドに横になった。

 あたしと手を繋いだままで、布団をかける。

「うん……確かに横になると気持ちいいな……それだけ疲れてたのかな?」

 そうだよと答える代わりに、あたしは布団の中の手に力を込めた。

「…………」

 朔良ちゃんがまた、儚い笑みを浮かべる。

 布団の中で繋いでいる手は、こんなにも温かいのに、あたしには不安がよぎる。

「朔良ちゃん……」

「なぁに?」

でも、それきりで、あたしは何を言いたかったのか忘れてしまったように、口が開かなかった。

「……ううん、いいや。今日はもう帰るね」

「そう? じゃあ気をつけてね」

 また笑う朔良ちゃんの笑顔を忘れないうちに、あたしは部屋を出た。

 ひとりで長い廊下を歩き、一階でおば様に挨拶して家路を急いだ。

「結局、あたしは朔良ちゃんを不安解消のために使ってるって事か……最低だ」

 朔良ちゃんは違うと言ってくれた。でも、そうじゃない。あたしはそこまで、朔良ちゃんの優しさに甘えちゃいけない。

 自分が最低だと知る事で、そういう自分を恥じる事を知らなきゃいけないんだ。

 そうでなきゃ、あたしは一生ダメダメのままだ。

「……ほんと、ごめんね朔良ちゃん……でも、あたしガンバルから……絶対ガンバルから……許してね」

 見上げた空へ掲げた言葉に、星たちはあたしを見下げたように苦言を吐いた気がした。

「そんなに上手く行くわきゃねぇだろ」なんてね……瞬いてるだけの癖に、何て偉そうなやつらだ。




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