旅立ち
ある森の奥深く、そこには、大きく美しい湖があった。普段は穏やかな水のせせらぎと、野鳥たちによる楽園が形成されているこの場所も、この日は大きく波立っていた。
「そお~れッ!」
「きゃあッ」
リュートがウンディーネが放ってきた蹴りを掴み、そのまま湖の中に投げ落とす。大きな水柱が生まれ、そのまま全方位に津波が起こるほどだった。
しかし、すぐに湖の中から飛び出し、水の竜巻を連れてリュートに向かってきた。
「それももう、効かないよ」
リュートは逆に炎の渦を作り出し、水の竜巻にぶつける。炎の熱で水が蒸発し、消えてしまった。
「あぁん、もうッ!じゃあこれ!」
次に生まれたのは水の刃。その数は50ほどだろう。一斉に放たれた水の刃はリュートに迫り、切り裂かんとする。
「それも効きません」
リュートは軽々と避けては前に進み、どれほどの水の刃を向けてもその進みを止めることはできなかった。
そしてついにウンディーネの目の前に来た、その時。彼女は口元に笑みを浮かべる。
「捕まえた」
「へッ?」
いつの間にか、リュートは水の牢とでも言うべき球体の中に閉じ込められていた。水の刃はカモフラージュで、ここに誘い込む罠だったようだ。
「水圧に押しつぶされちゃいなさい!」
水の牢は急速に縮んでいき、中心にかかる圧力が大きくなっていく。息もできない、圧力も大きくなっていく中、リュートは何もしなかった。そして最後、水の牢は大きく破裂、爆散していった。
「あ、あら……抵抗しなかったけど、大丈夫よね……?」
冷や汗を垂らすウンディーネ。しかし、その心配は杞憂に終わった。
「はい、僕の勝ち」
いつの間にか背後にリュートがおり、ウンディーネの首元に手刀を構えていた。これでこの日の組手は終了である。
「何をしたか教えてくれるかしら?」
「簡単だよ。爆散する瞬間に風で壁を造って、爆散した水しぶきに紛れて移動しただけ」
「簡単にやってくれるわね、ホント」
諦めと呆れの二つが混じった声音で言うウンディーネは、上を見る。そこに、リュートの顔があるのだ。
リュートが生まれて、今年で9年目。リュートは9歳になった。しかし、その体は年の倍近くほど、青年ともいえる程に成長している。
竜や魔獣といった野生の中で暮らす生物は、生き残るために早く成長し、強くならなければならない。そのために、ヒトとは成長が段違いで速いのだ。
ちなみに、リュートは以前、ユスティの乗った馬車を救ってからこれまで、一度も人間を見ていない。少し遠出をしてはいるものの、ヒトと会うことはなかったのだ。
しかし、以前竜の9歳は人間換算で行くと何歳かと聞いてみたところ、「20歳くらいじゃない?」と適当な答えが返って来た。今のリュートの身体的年齢なら妥当かもしれないので、それで納得することにする。
最近ではもう、組手においてリュートが勝利することが多くなってきた。というよりも、リュートが連勝しているのだ。
「まったく、リュートってばホントに強くなったわねぇ。もう私じゃ勝てないわ」
「そんなこと言ってるけどさ、精霊王の姿になったらわからないじゃん」
「それはあなたも同じでしょ?」
二人はゆっくりと地面に降り立つ。
それを見越し、下には動物たちが待っていたようですぐに足もとに駆け寄って来た。リュートやウンディーネの足に体を擦りよせる仕草に癒されつつ、リュートは周囲を見回す。
「もう、僕が生まれて9年目になるのかぁ……」
その声にどこか引っ掛かりを覚えたウンディーネは、ハッとし、恐る恐る尋ねる。
「もしかして、リュート、あなた……」
「うん。もうそろそろ、外の世界に出るつもりだよ。ウンディーネのお陰で強くなれたし、知識もちゃんと得ることができた」
「……そう……」
悲しそうに相槌をするウンディーネに、リュートも申し訳ない思いでいっぱいになる。
この9年間、リュートは本当に、ウンディーネには世話になっている。魔力や魔法・体術・この世界の知識まで。彼女は懇切丁寧に教えてくれた。と言うのにもかかわらず、自分はお礼もできておらず、そして彼女の元から離れるのだ。
「……出発は一週間後。それまで、出来る限り一緒にいようよ!」
「……ええ、そうね」
リュートはウンディーネの手を取り、動物たちを引き連れ、森の中で目一杯楽しむことにする。
美味しそうな木の実を見つけて食したり、水の魔法で水を操り、どちらが美しい作品を造れるかを競ったり、動物たちと戯れ、のんびりしたりなど。なるべく一緒にいることにした。
最後の思い出づくりの為に。
そして、一週間がたった。つまり、リュートの出発の日だ。
リュートとウンディーネ、そしてこれまで一緒に過ごしてきた小動物たちは、いつもの湖の畔にいた。
「本当に言っちゃうのね、リュート。寂しくなるわ」
「クゥ~ン……」
ウンディーネも、動物たちも、悲しそうに声を漏らす。
「本当にごめんね。どうせならウンディーネにも一緒に来てほしかったんだけど……」
「それは前にも言ったでしょ?私はここを聖域として定めているから、そう簡単に長期間出て行っちゃいけないのよ。それに、この子たちも守ってあげないとね」
そう言って、彼女は動物たちの頭を撫でる。昔はさほど守らなければという気持ちにはならなかったが、リュートと過ごすうちに一緒にいたため、愛着や保護欲が生まれたのだ。もはや、見殺すことはできない。
「リュート、これは私からの選別。ありがたく使いなさいよ?」
「これは?」
それは、小さく綺麗な指輪だった。装飾が一切ついていない白い指輪、しかし、裏に何か刻まれており、どことなく魔力の流れを感じる。
「これは“アイテムリング”っていう古代の魔導具よ。これを付けた手でモノに触れると、リングの中の異空間に保存できるようになっているの。どう?すごく便利でしょ?」
「ホントにあるんだね、そういう魔導具って……」
マンガやとある小説なのでは当たり前のように存在する道具が、この世界にも存在する事実に感動し、さっそく指にはめてみる。リュートの指にぴったりのサイズだった。
「本当に、何から何までありがとう。ホントはウンディーネに何かお礼がしたかったんだけど、何も用意できなくてごめんね」
申し訳なさそうに言うリュートの言葉に、ウンディーネは小さく首を横に振る。
「そんなことないわ。あなたが私の聖域の中で生まれ、私と一緒に暮らしてくれたこと、それが何よりもうれしかったことなんですもの」
長い間生きてはいるが、間違いなく、この9年間が最も濃密な時間であったことは言うまでもない。
突然現れたのが龍神という伝説の存在だと思えば、その性格は子供っぽく、何事にも興味を示し、その有り余る力でとんでもないことを次々と起してしまうリュート。
ずっと、たった一体でここに暮らしていた彼女にとって、騒がしい毎日が楽しく、愛しい日々だった。
「――――そう、あなたは私の可愛い教え子で、少し手のかかる、でも誰よりも素直な弟よ」
ウンディーネはリュートの頬に両手を寄せ、これまでを思い返しながら涙をこぼす。
その微笑みは―――――これまで見たなにものよりも美しかった。
「――――ウンディーネは親切に教えてくれる、でも少し厳しい先生で、誰よりも優しく綺麗なお姉さんだよ」
リュートにとっても、この9年間は前世で生きてきたころよりもはるかに濃密で、楽しい毎日だった。常に笑いと感動があり、いつも傍にいてくれる優しいウンディーネに、彼の心はとても満たされていたのだ。
そんな、お礼と感謝と、少しの謝罪を込めて、リュートは少しきつめにその柔らな身体を抱きしめる。ウンディーネも、かつては自分の腰元ぐらいにしかなかった弟の成長を感じ取り、今では自分よりも大きく、たくましくなったその体を抱きしめる。
「……そろそろ行かなきゃ」
「……そうね」
惜しむように二人は離れると、照れ臭そうに笑い合い、気分を変えて明るく振る舞う。
「まあ、私たちは果てなき長寿の生命体なんだもの。これが最後になるわけじゃないわ。だから、また会いましょ?」
「もちろん!落ち着いたら、また会いに来るよ」
「ホント?絶対よ。その時は、いいヒトでも連れてきなさいな。思いっきりいびってやるんだから」
「そ、それは勘弁してほしいなぁ」
軽口を言い合い、少しの静寂の後、二人の体は離れる。
「それじゃあみんな、行ってきます!」
世話になった人と、心の癒しで会った動物たちに大手で手を振る。それを最後に、リュートは背を向け、森の奥へと消えていった。それを見届け、頬に流れる一筋の涙を拭き、ウンディーネは元の精霊王の姿に戻る。
光の粒子の中から現れた水の精霊王は、祈るように手を組み、水の上で膝をつく。
「――――あなたがこの時代に御生まれになったということは、必ず意味があるのだと思います。もしかしたら、それは世界を巻き込む大事なのかもしれません。ですが龍神様、ワタクシは、あなた様の未来に幸あらんことを、心よりお祈り申し上げます――――」
***
「さてと、これからまず向かうのは、一番近くの国であるシュベリア王国だったな。たしか、世界で一番資源に恵まれた国なんだっけ?楽しみだなぁ、きっと、美味しい料理や面白そうな道具がいっぱいあるんだろうな」
リュートはこれからのことに期待で胸を膨らませている。
因みに、金に関しては心配はいらない。ウンディーネが近隣の村や町に出向き、彼女の手持ちの物を売り払って得た金をくれたのだ。
本当に、彼女には感謝してもしきれない恩がある。
「今度帰ってくるときには、何かお土産を買って帰らないとなぁ」
正直お土産など買った経験がないため、何を選べばいいのかわからないリュート。今から悩んでも仕方がないと思うのだが、あれほど世話になったのだ。やはり、何かとんでもないものをお土産にしたいというのが彼の心情である。
「それにしても……ここらは本当に魔獣がいないねぇ。いやまぁ、動物たちが住みやすくなって良かったんだけどさ」
リュートやウンディーネの毎日の組手のせいで、魔獣たちは完全に別の森に移動したようだ。それと入れ替わりように、この森には動物が増えてきた。癒しが増えたようで、なんとも嬉しいリュートである。
「こういうの見ると、また“どうぶ○の森”がやりたくなってくるなぁ。どんなのか忘れたけど」
昔ハマっていたゲームの名前を思い出しながら、リュートはのんびりと森の出口を目指して歩いていく。
そうして森の中を歩き回って4時間ほど経った頃、ようやく森の終わりが見えてきた。
「あそこを抜ければついに外の世界か……よし、最後は一気に突き抜けよう」
「おりゃッ」と言いながら地面を踏み、思いっきりジャンプするリュート。その先に見えた景色は、果てなき大地と山、しかし、そこから先はこれまで見てきた物とは全く違うものなのだ。
「ようこそ僕!ついにきました外界へ!」
――――ここからが、本当の始まり。第二の人生を歩む龍神の、新たな物語の幕開けである。