優しいのか優しくないのか……?
次の日、音香は家の中を捜索した。 が、残念ながら昔見たあのギターの姿は見つけられなかった。 家族に聞くとどうやら、誰もが触らなくなったので捨ててしまったらしい。 当時あんなに懐かしそうに話した父も、たいして思い入れがなかったのだろうか、それは音香にも分からなかった。
仕方なく次の土曜日、音香は商店街の一角にある小さな楽器店へと足を運んだ。
今まで興味もなかったので素通りだったこの店が、音香にとって音楽への第一歩となるとは、想像だにしていなかった。 どんな客層なのかも、ましてや中の様子も雰囲気も分からない音香は、不安にかられながら店内に入った。すると、普段よく入るような洋服店やスーパーとは全く違った雰囲気を感じた。 どこか、一般人を拒むような空気に包まれた。
おそるおそる足を踏み込むと、細長い店内の両側には、壁を覆い隠すほどのエレキギターが吊されていた。 どれも違う形、違う色。 様々なギターの数々に圧倒されていると、
「こんにちは」
と奥から声をかけられた。 耳馴染みのある声だ。
「影待……先生?」
店の奥に、雑貨のようなごちゃごちゃとした小物に囲まれたカウンターがあり、そこに寄り掛かるようにして、影待が音香を見ていた。 その隣には、紺色のエプロンを付けた店員らしき人が微笑みかけている。 熊のように真っ黒な髭をたっぷりと蓄えた年配のがっしりした店員は、低く深い声で言った。
「何が欲しいのかな、お嬢さん?」
「えっと……ギターを……」
思えば、必要となってギターを買いに来たとはいえ、こんなにたくさんの種類があるとも知らず、こんな専門店までノコノコと素人が来てしまった。 思わず音香は言葉を失ってしまった。
「アコギの安いの、あるかな?」
救ってくれたのは影待だった。
「おや、キミの知り合いだったのかい? アコギねぇ。 入門セットっていうのだと、一通り道具も揃ってるし、一番安いけど……」
「じゃあそれで」
影待と熊店員が勝手に話をまとめようとするので、音香は焦った。
「あっ、あのっ……」
影待は音香を無視して、熊店員が持ってきたアコギを手にした。 木の色をしたボディの周りが黒くぼやけている。 テレビでフォークソングを歌うアーティストが持っているような、馴染みのあるひょうたん形だ。
「これで、いいよね?」
やっと音香に視線を送った影待は、ギターを持たせた。 軽いボディ。 見るからにどこもかしこもがシンプルだ。
「タカミネ……」
弦が巻き付いているネックの先に印字してある文字を読んだ。 メーカーの名前のようだ。 だが初心者の音香にとっては、どのギターも同じだ。 家にあったギターのメーカーも、どこの物だったか記憶に無かった。
「はい……」
うながされるままに返事をし、一通りの道具も見繕ってもらうと、御代は二万円でお釣りがきた。 安くしてもらえたのかどうかも、音香にはまるで分からなかったが、なんとか財布の中身だけで足りたことに安心していた。
会計を済ませると、音香は影待と共に店の外に出た。 熊店員は
「何かあったらまたおいで」
と笑顔で送り出した。 嫌味のない優しそうな印象の人だったので、音香は終始悪い気はしなかった。
黒いビニール素材で出来たソフトギターケースを担ぐと、違和感にふらついてしまった。 大きいくせに意外と軽いので、バランスを失ったのだ。
姿勢を正した音香はぺこりとお辞儀をして、影待にお礼を言った。
「あの、ありがとうございました」
正直、助け船を出してもらえてホッとしていたのだ。 影待はそんな音香を見下ろし、腰に手を当てるとため息をついた。
「あのなぁ、予備知識も無いのにフラフラと来ちゃダメだぞ。 いい店員ばっかじゃないんだから。 下手したら高いのを買わされるかも知れないとか、考えなかったのか?」
音香はいきなりの説教に驚き、
「すみません……」
と思わず謝ってしまった。
「俺が偶然いたからよかったようなものの……」
影待は文句を言うように呟きながら、店の前に停めてある自分の車に乗り込んだ。 そして窓を開けると、
「次の土曜日。 夕方五時。 セブンスで待ってるから」
と言い残し、早々に走り去ってしまった。
後に取り残された音香は、残った排気に二、三度咳き込みながら、影待の車を見送るように立ち尽くしていた。
『影待さんって、ホント、優しいのか優しくないのかわかんない……』
あまり良い印象を受けないまま家に帰り、部屋に入るなりギターケースを開けると、艶やかに光るボディが現れた。 二万円もしないような入門セットのギターだが、なんだか急に愛着が湧いた。
『あたしのギター……』
音程が合っているのかも分からないまま、音香は中学の時を思い出しながら爪弾いた。 影待自体は気に入らないが、これからもっと音楽好きなマスターに近付けるかと思うと、とても楽しみに思えてきた。
それからはテレビを観ていても、画面に映るアーティストの顔よりも、ギターを弾く手元や音を気にし始めるようになった。 音香の中で、段々と音楽に近づきたいと思うようになっていた。
初めての授業日は案外早く訪れた。
音香の小さな黒い軽自動車の後部座席には、いっぱいになってギターが横たわっている。 セブンスヘブンの駐車場に着き、荷物を取り出すと肩に担ぎ、店の重たい扉を開いた。 それさえも、何だか初めて開く扉のような気がした。
カランカランカラン……
と馴染みの音の下を通り抜けて奥に入ろうとすると、中からギターの音色が流れてきた。 そっと覗くと、生徒が影待と対面で座って授業を受けていた。 音香に気付いた影待が生徒に声を掛けて近づいてきた。
「悪い。 もう少し待ってて」
と言われ、音香は音を立てないように荷物を置き、影待にうながされて少し遠目の椅子に座った。 その生徒は、前にも一度すれ違ったことのある年配の男性だった。
何か少し弾き、影待がアドバイスをし、また弾き……という繰り返し。 生徒の男性も、素直に従いながら曲を奏でていく。 何気なく聴きながら、
『ギターって、なんか落ち着く音してるんだなぁ』
と音香は思った。 やがて授業が終わり、片付けをした生徒は影待に挨拶をして帰っていく。 音香はペコリとお辞儀をして見送った。
「いつまでも見てないで、用意して」
影待の声に慌てて荷物を取ると、小さな椅子とテーブルがある店の片隅に駆け寄った。
「よろしくお願いします!」
音香は改めて挨拶をした。 影待は
「ま、気楽にやればいいから」
と言い、少し微笑んだように見えた。
昔触ったことがあるとはいえ、基本的な事も全く分からないので、初歩的なところからの出発だった。 ギターの名称からチューニングの調整の仕方、手入れの仕方……ただ上手に弾ければいいだけではないのだ。
メンテナンスがしっかり出来てこそ初めて、弾く資格があるのだと影待は言った。 影待は寡黙で何を考えているのか分からないような人だが、ギターの事が大好きな事は強く音香に伝わった。
音香もまた、ギターの事を知るごとに楽しいと感じてきた。 そして、音楽に対する興味も膨らんできていた。
『これは、思っていたより深い世界かもしれない。』
音香の胸がどくんと高まった。
「今日はここまで」
影待の言葉に思わず壁の時計を見ると、すでに授業時間の一時間が過ぎていた。
「もうこんな時間……」
結局その日は何も弾くことなく、ギターはケースの中に納まった。 影待は自分のファイルから一枚の紙を取り出して音香に渡した。 そこには授業ごとのスケジュールが書かれてあった。
「とりあえずはこれに沿ってやっていくつもりだけど、上達具合によっては変わるから。 あくまでも目安だから。 とにかく、楽しむことが大切だよ」
影待は再び小さく微笑んだような顔をして、これからよろしく、と頷いた。