音香の新しい刺激
時間はすでに午後七時をすぎていた。 バー・セブンスヘブンが開店する時間である。 マスターは表の扉にベルをセットした。
カランカランカラン……
と耳慣れた音が店内に響いた。
その途端、若干疲れを感じた音香は、椅子からそっと飛び降りるように席を立った。
「帰るの?」
と尋ねたマスターにうなずいて、
「また飲みに来ます」
と微笑んだ。 マスターは
「はい、お待ちしています。 今日はお疲れさま」
と営業モードの笑顔で送り出した。
奥で静かに珈琲をすすっている影待にペコリとお辞儀をして外に出ると、すっかり暗い道の両側に、街灯がポツンポツンと小さく灯っている。 音香は店の裏に停めてある自転車の鍵を解いた。
「お疲れさま」
不意に後ろから声を掛けられ、驚いて振り向くと、少し離れた所に影待が立っていた。 暗がりに立つ長い黒髪と光るメガネがなんとも不気味だ。
「えっと、影待……さん……お疲れさまでした~!」
最後の方をあえて明るく言った音香の声を背中に、影待は車に乗り込みながら
「気を付けて」
と言うと、すぐに駐車場を走り去った。
「愛想悪いなぁ……」
音香はまだ排気臭い駐車場を通り抜けた。
セブンスヘブンの頑丈そうな扉を小さな灯りが照らしている。 営業中の合図だ。
たいして動き回ったりしたわけではないので体力的には疲れてないのだろうが、これから何時間かを立ちっぱなしで接客するのは大変だろうに。 そんなマスターを思いながら、
『今日のお給料でまた飲みに来よう』
とポケットに納まっている今日の働いた証を感じながら、ペダルを勢い良く漕いだ。
夜風が気持ち良く頬を撫でた。
新しいことばかりで疲れはしたが、なんとも清々しく晴れやかな心が気持ちよく感じられた。
勤めている会社の仕事は、同じ事の繰り返しだ。 パソコンとにらめっこしたり、先輩の雑用、お茶汲み……入社して三年が過ぎるが、小さな商社では出会いの希望もなく、つまらない一日を過ごしている。
セブンスヘブンでのバイトが決まってからは、心がどこかシャキッとした。 新しい刺激が嬉しくて、音香はますますセブンスヘブンが大好きになっていた。 家から徒歩約十分の所に、まさしく天国があったのだ。
「最近明るくなったね。 何か良いことでもあったの? 彼氏が出来たとか?」
と聞かれるようになったのも、ヘブン効果に違いない。
ほぼ毎週末、特に飲みたくなくてもセブンスヘブンへと足を運ぶようになった。
宣伝もしない小さなお店なのであまり客の入りは良くないが、上質な雰囲気を味わうには最高の場所だ。
それから何度か通ううちに、他のお客さんとも話せるようになった。
人見知りな音香にとっては大進歩だ。 深い話はしなくても会話とは繋がるものなのだと、改めて知った。
音香はやがて自分の友達も誘うようになった。
もともとセブンスヘブンを知ったきっかけが友達の紹介だったこともあり、次第に音香も友達に声を掛けるようになった。 本当のところはあまり流行って欲しくないのだが、それよりもセブンスヘブンの魅力を知ってほしいという気持ちのほうが強かったのだろう。
それほど音香はセブンスヘブンが大好きだった。
ライブのバイトは、月に一度入ればいいほうだった。
だが、知るところでは有名な店らしい。 音香の知り合いにも、行ったことはなくても、店の名前は知っているという人もいた。
なんでも、音響機材のレベルが格段に良いらしいのだが……音楽に関しては並程度の知識しかない音香にとっては、音響の話をされてもさっぱり理解出来ない。 何しろ音香は、あの時少しだけ聞いた爆音しか覚えていないのだから……。
音楽に詳しそうなお客とマスターの話を、肩肘をついてつまらなさそうに聞く音香に気付いたマスターは、にこりと微笑みかけた。 音香は
「ふんっ!」
とすねたように顔をそむけて、飲みかけのグラスを傾けた。
このバーには音楽好きの人も集まってくるが、誰もがマニアックな話をするので、そんな時に同席した音香は、決まっておいてけぼりを食らうのだ。
だが一方で、自分の知らない世界の話をとても楽しそうに語り合う姿に、羨ましく思った。 というより音香は、マスターと少しでもたくさんの話をしたいと思うようになっていた。
バイト仲間とも次第に仲良くなり、話せるようになった。
初対面の時、照明の立木弘人と後から飛び込んできた隼人が似ていると思ったと話すと、彼らは兄弟なのだと笑った。
弘人が人懐っこい笑顔を振りまきながら
「こいつ、たいした働きが出来ないんで、ドリンク係しかやらしてもらえねーの」
なんて暴露すると、隼人はふくれっ面で
「何言ってんだよっ! ドリンク係って大変なんだぞ! 氷入れてドリンク入れてっ!」
と返し、
「そんなの誰でも出来るわいっ!」
と弘人が返す……そんな繰り返しで皆を沸かせた。 弘人は二十三歳、隼人は二十歳という、音香と同年代なので、話易さも感じた。
そんないい雰囲気でいたのだったが、相変わらず寡黙な影待には今一歩踏み込むことが出来ないでいた。 どうにも近づき辛い雰囲気を持っている彼。 音香には何の魅力も感じられなかった。
そんなある日、いつものように開店時間に合わせてセブンスヘブンの前に行くと、ちょうど中から誰かが扉を開けた。
中年の男性が重そうに扉を開け、音香に気付くとペコリとお辞儀をした。 つられて頭を下げた音香の目に、黒く大きな頑丈そうなケースが映った。
『ギター……かな?』
しばらく見送っていると、その男性は駐車場に停めた車にソレをドサリと丁寧に乗せ、走り去った。 音香はマスターのジャガーを確認すると、その横にもう一台あることに気付いた。
『あれ、あの車……』
どこかで見たことがあるがすぐに思い出せず、
『まぁ、いいか』
とあまり気にせずに店内へ入った。
カランカランカラン……
フワンとタバコが染み付いた空気を吸い込み、いつものように
「こんばんは~」
と中を覗いた。
「いらっしゃいませ」
大好きな低く優しい声。 と、その横に、しゃがんで何かしている人影があった。
「あれ、影待さん?」
「……こんばんは」
呟くようによく通る声で答えた影待は、ギターを手にしていた。 マスターはテーブルを拭きながら言った。
「影待先生に、ギターを手入れしてもらおうと思ってね」
「先生って……?」
「言ってなかったっけ? 影待くんは、ギターの講師をやってるの」
影待は音香に小さくうなずくと、ギターの弦を弾いた。 深く優しい音が、まだジャズが流れていない静かな店内に響いた。 その余韻が消える頃、影待は呟くように言った。
「そろそろ弦を替えたほうがいいんじゃない?」
「そうなんだよね。 お願いします」
「分かってたのかよ?」
少し眉をしかめて顔を上げた影待に、マスターはニッコリと両手を挙げてみせた。
「ほら、僕の指、商売道具だから」
それを見た影待は、やっぱりな、という呆れた顔で一つ息を吐くと、
「はいはい」
と手際よくバッグからいくつかの道具を取り出した。 音香ははたと思いついた。
「あ、じゃあさっき出て行った人って……」
「影待くんの生徒さん。 僕もちょうど出勤してきた所で、時間的にちょうど良かったから、ついでにと思ってね」
「面倒くさいだけだろ?」
すかさず影待が突っ込んだ言葉に、マスターは微笑んで
「お世話になります」
と軽く頭を下げ、営業の準備に取りかかりはじめた。
音香は、この二人は意外と仲が良い事に最近気付いた。
多くを語り合うことはないが、いつも気付けばそばにいるような気がする。 音香は少しだけ興味が沸いて、黙々と弦の交換をする影待にそっと近づいた。
「見ててもいいですか?」
影待は手を止めると、音香をちらりと見て言った。
「危なくない所からなら、いいよ」
「え、危ないんですか?」
驚いて一歩後退りした音香に、マスターはカウンターの奥でクスクスと笑いながら言った。
「弦を張る時に、切れて弾けるかもってことだと思うよ。 そんなに危険なものじゃないから、大丈夫」
「~……」
本当に影待は説明不足だ。 思わず怯えてしまったではないか。 こんなんで本当に教える立場を保っていられるのだろうか?と不安になる。
『ま、あたしには関係ないけど……』




