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音香彩々  作者: 天猫紅楼
42/50

昂りと説得

 初めて乗る影待の車はとても綺麗にしてあって、静かで乗り心地も良かった。 気になるのは、染み付いたタバコの匂いだけ。 車内には、小さくビートルズが流れている。

 影待は

「ビートルズこそが音楽の原点!」

と豪語するほど、彼らを敬愛している。 影待のチリチリした長い髪や銀縁眼鏡も、どこかで意識しているのではないかとふと思ったことがある。 ギター教室でも、ビートルズの何曲かをコピーしたことがあった。 基本的な手法が入っているので、練習するには最適なのだそうだ。

 それまで聴いたことのなかった洋楽を聴くようになった走りも、授業の影響だ。

「セブンスに、用があったんじゃないの?」

 小さく呟くような音香の問いに、影待は

「いや、ヒマだったから」

と、前を向いたまま答えた。 音香は窓の外の景色を見ながら、独り言のように言った。

「あのね、拓也が入籍したんだって」

「ああ、昼間テレビで観た」

「昼間からヒマだったんだ?」

 鼻で笑ってからかうように言うと、影待は焦ったように答えた。

「たまたまだよ!」

 車通りの少ない道を、影待の車はスイスイと走っていく。 音香は流れる景色のように、あふれ出す言葉を垂れ流すように話し始めた。

「あたしね、裕里が号泣してる姿見ても、何の感情も生まれなかったの。 あたしのために泣いてくれてるのに、『何で泣いてんの?』って、何か他人事みたいで……」

 影待は黙って聞いていた。 不思議だ。 止まらない言葉。 音香は何も考えないまま、口からこぼれ続ける言葉をそのままにしていた。

「けど、裕里が帰っていく後ろ姿見てたら、心に大きな穴が開いたみたいになったの」

 車の外の景色は、まるで走馬灯のように流れていく。

 この道も、何度となく拓也と通った。

 他愛も無い会話さえも楽しかった。 何を話したのかも今となってはほとんど思い出せないけれど、二人で居た風景は鮮明に覚えている。 拓也の二人乗りの車は狭かったけれど、心の中は果てしなく広がっていくようだった。 そこには夢も希望もあったから。

「あたし、拓也に期待してたのかもしれない。 例え東京で有名になったとしても、いつかまたあたしのところに帰って来てくれるんじゃないか、またいつか、突然に連絡してくれるんじゃないかって、勝手に自信なんか持って……」

 言葉を発するごとに音香の胸がキリキリと痛みはじめ、いつの間にか頬を涙が伝っていた。 声が震えた。 頬がビクビクと痙攣した。

「あたし、なんかすごいイヤな奴だよね……ほんと、バカみたい……勝手に……まだ好きで……」

 やっと、ファンとしてではなく一人の女として、まだ彼を愛していたいという本当の自分が姿を現した。

 それが、音香の本音だった。

 拓也から上京の話を聞いたときも、本当は離れたくなかった。 だけど、自分を押し殺してまで拓也の幸せを祈った。 正直、そんな自分が『カッコいい』などと思っていた。

 

 

 音香のマンションの駐車場に着いてから、すでに十分ほど経っていた。 影待の車内では、音香はまだしゃくり上げている。

 その横で、窓を開けてタバコをふかす影待。

 彼はココに着いてからずっとそうしていた。 一言も発せず、かと言って音香を覗き込むことも無く、迷惑そうな顔もせず、言うなれば『放置』していた。

 しばらくしてやっと落ち着きを取り戻した音香の心に、何故だかいきなり訳も無く苛立ちが生まれ、その勢いがハンカチを握り締め、ついに音香の口から躍り出た。

 

 

「決めた! あたし、東京に行く!」

 

 

 ブフッ! ゴホゴホッ!

 影待は驚いて咳き込み、音香を見た。

「何だって?」

「東京に行くって言ったの! それで、クロノスが何よりも一番取って、拓也を見返してやる!」

 影待は急いでタバコをもみ消した。

「城沢、落ち着け。 悪いことは言わない。 それは……」

 必死で落ち着かせようとする影待に、音香は激しく首を横に振った。

「いや、行く!」

 音香の中で、思いは固まっていた。

 東京でクロノスを成功させ、拓也を見返してやるのだ。 そして、音香を悲しませた罪を味わわせ、屈辱を感じさせる!

 音香の胸の内が熱く煮えたぎるのを感じていた。

「城沢! 二年前の拓也を覚えてるだろう! 都会には何があるか分からないんだぞ! ましてや女一人なんて危険すぎるだろう!」

 珍しく影待が大きな声で説得した。

「東京で待ってるのは成功ばかりじゃない。 そりゃあ、クロノスの実力は俺も認める。 けど!」

「先生、送ってくれてありがとう! 気をつけて帰ってね!」

 音香はすでに車を降りていた。

 影待の言葉は、もはや音香の耳には届いていなかった。 パタンと車のドアを閉めると、マンションへと歩きはじめた。

 

 突然、引き戻されるように音香の足が止まった。

 

 細身の体からは考えられないほどの強い力で、後ろから影待に抱きしめられていた。

 

 背中から彼の鼓動が伝わる。

 耳元に、彼の息遣いが聞こえる。

 タバコの匂いが鼻をくすぐる。

 音香は息が詰まり、頭は真っ白になって、体中からは力が抜けるようだった。

 動けずにいる音香の耳元で、影待が囁くように言った。

 

「オッカ……頼む……」

 いつもの呟くようなトーンだったが、懇願する思いが音香の心の芯に突き刺すように伝わった。

 数秒後、音香は震える手で、影待の腕をそっと体から離した。

 それはいとも簡単にほどけ、ゆっくり振り向くと、見たことのない切なげな表情が目の前にあった。 音香は思わず視線をそらした。

「先生、あたし、決めたんだ……」

 視線も合わせられずにうつむいたままそう言うと、立ちすくむ影待を残してマンションの階段を駆け上がった。 振り向きもせず玄関を開けて部屋の中に駆け込むと、息を整えるのにはかなりの時間を費やした。


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