現実は氷の様に冷たくて
家の玄関を開けるなり裕里が駆け込んできて、勢いよく音香に抱きついた。
真っ赤に腫らした目からは、とめども無く涙が溢れだしている。 音香は無言で泣きじゃくる彼女をそっと離し、その肩を抱いて自分の部屋へ連れていった。 そして差し出されたミネラルウォーターを胃に流し込んでもなお、裕里の涙は止まらなかった。
「裕里、干からびちゃうよ……」
音香が苦笑いをして静かに言った。 力の無い声だった。
「だ……って、ック……あんまりだよ……ッ」
言葉にならない声で懸命に言う裕里の頭を、音香は優しくポンポンと叩いた。
「もう泣かなくていいから……」
「だってっ! ……ック。 ひどすぎるよ……っ……拓也くん…………結婚するなんて!」
『結婚』という言葉が、音香の頭をぐるりと回った。
その知らせを聞いたのは、つい数時間前の話だった。
たまたまワイドショーを見ていた朋美が、仕事中の音香にメールを送ってきた。 もちろん、裕里にもだ。
「拓也くんが入籍したって、今ワイドショーでやってる!」
今はただの発表なだけで、数日のうちに記者会見を開くそうだ。 今や人気絶頂を走り始めていた矢先の事。 業界が騒然としているのが、帰宅した音香の目に飛び込むテレビ画面からもひしひしと伝わってきた。 入籍の相手は勿論、音香ではない。
ティッシュペーパーの箱を膝に置き、涙を拭き、鼻水を噛み続ける裕里の横で、音香は意外なほど冷静だった。 むしろ、荒れ狂ったように泣きじゃくる裕里の気遣いをしていた。
「裕里、もう泣かないの。 あたしは大丈夫だから」
音香は、泣きすぎて震えの止まらない裕里の肩をぎゅっと抱きしめた。 服の上からでも、その体が熱く火照っているのがよく分かる。 音香は、その熱を少しでも癒してあげようと
「冷蔵庫に冷えピタがあったはず」
と立ち上がった。 その腕をガッと掴んだ裕里は、涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔で音香を見上げた。
「オッカは悔しくないのっ? 拓也くんが、他の女に取られちゃうんだよっ?」
音香は腕を引かれるままに大人しく座ると、力なく微笑んだ。
「悔しいよ。 でもそれはファンとして。 あたし達は、拓也が東京行きを決めた時にもう終わってたの。 それをあたしが勝手にまだ想い続けていただけ。 それだけじゃない」
音香は静かに話した。
「だから裕里、そんなに泣かなくて良いんだよ。 あたしは大丈夫だから、ね」
裕里はしゃくり上げながら音香の話を聞いていたが、やがてコクンとうなずいた。
「ありがとうね、裕里。 あんたはあたしの最高の友達だよ!」
音香は、感謝の思いを込めて裕里を抱きしめた。
それでも、裕里は別れ際まで心配をしてくれた。 一言二言を音香にかけて、名残惜しそうに何度も振り返りながら、自転車で帰っていく裕里の後ろ姿をマンションの駐車場で見送ったあと、部屋に戻る気も失せた音香はそのままセブンスヘブンへと足を向けた。
春も間近の夜風が、髪の毛を梳くようになびかせる。 雲が大半を覆う夜空を見上げながら、できるだけゆっくりと歩いた。
二十分ほどで着いた店の扉には、ひっそりと灯りが点いている。 営業中の印だ。
中にはいつものように静かなジャズが流れ、シックな照明に照らされたカウンターの向こうにはいつのものようにクールなマスターがいて、挨拶をするとにこやかに迎え入れてくれるはずだ。
想像しながら扉のノブに手を掛けたが、やはり入る気にはなれずにそっと手を離し、踵を返した。
「入らないの?」
急に声をかけられたが、音香は不思議と驚くこともなく、ゆっくり振り向くとそこには影待が立っていた。 ほとんど手ぶらのような軽いいでたちで黒っぽい服に身を包んだ影待は、暗がりに溶け入りそうなほどオーラも薄く、フラリとそこにいた。 音香はフッと力なく微笑むと
「うん、やっぱ、帰る」
と小さく手を振り、帰ろうとした。
「送っていこうか?」
影待の声に音香はもう一度振り向くと、少し間をおいて、小さくうなずいた。




