ネクサス・エンターテインメント
クロノスの活動も順調だ。 毎月一度は、単独ライブをどこかの会場でやるのが通例となってきた。 有難いことに固定客も随分増えてきた。 音香のモチベーションもますます上がっていく。 他のメンバーたちも、同じような感覚でいるようだ。 ライブのたびに、楽しんでいる様子が空気で伝わってくる。 アーティストと観客が一体になれる会場の中に居られることに、音香は楽しくて仕方なかった。
そんなある日、セブンスヘブンでのクロノス単独ライブが終わった後の事。
見知らぬ男性が、マスターに連れられて楽屋に入ってきた。
一斉に顔を向けるメンバー達に不思議そうに見つめられるその人は、ワックスで黒い短髪をゆるく固め、黒いスーツにシックな柄のネクタイをピシッと装着し、腰の低さをにじみ出しながら、マスターの少し後ろで手を前に組んで、穏やかな表情で立っていた。
「この人、僕の知り合いなんだけど、今日は君達に話があるらしいんだ」
マスターがにっこりと後ろの人をうながすと、彼は軽くお辞儀をしながら中へ入り、営業者らしく懐から名刺入れを取り出した。
「あのー私、ネクサス・エンターテインメントの棚橋と申します。 今日は折り入ってお話がありまして参りました」
名刺を手渡されたナツユキは、他のメンバーたちと顔を見合わせた。
『ネクサスエンターテインメント』
その会社は、世間では知らない人はいないというほどメジャーな音楽会社だ。 日本国内だけでなく世界にまでその名は知れ渡り、各国のアーティストを育て上げている実力派でもある。
そして最近では、古瀬拓也が所属している事務所としても有名だ。
「こんな大会社の人が、どうしてこんな所へ?」
状況を把握出来ていないメンバーを代表してマサトが尋ねると、棚橋は営業スマイルを発動させた。
「はい、クロノスさんの人気がとてもすごいということを聞きましてね、ライブを観させていただきました。 そして、いたく感動しまして。 そこで、相談させて欲しいのですが――」
棚橋が一通りの話を終えて帰って行ったあと、楽屋の中ではクロノスのメンバーが小躍りして奇声を発していた。
「俺たち、ついに東京進出かよ!」
興奮気味に言うナツユキに、他のメンバーも嬉しさを通り越してテンションがおかしくなっていた。 自分達がやってきた音楽が、遂に認められたということだ。 音香は自分のギターを抱きしめ、最高の笑顔で言った。
「これって、喜んでいいんだよね?」
「あったりまえじゃんっ! てか、もう喜んでるだろぉー!」
ナツユキはすっかり興奮し切っている。 全員でひとしきり喜びに浸ったあと、震える心を抑えながらそれぞれに帰り支度をしているなか、急に我に返った音香は、ふと疑問に思ってひとりでそっと楽屋を出た。 そして、カウンターの辺りで小物を掃除しているマスターに声をかけた。
「マスター、さっき、棚橋さんと知り合いって言ってましたよね?」
「ええ、そうですよ」
マスターは微笑んだ。 音香たちが狂喜乱舞していた様子を、雰囲気で察知していたようだ。 優しく見つめている。 音香はそんなマスターを見上げて尋ねた。
「あんな大会社の人と知り合いって、一体どういうことなんですか?」
「昔、ウラノスガイアをやっていた時に『東京で自分を試してみないか』と声をかけて来たのが彼だったんですよ。 あの時は、まだ会社も立ち上げたばかりで小さな事務所だったんですが、まさかここまで大きくなるとはねぇ……正直驚いています」
「マスターは、その話を蹴っちゃった事、後悔してる?」
音香の問いに、マスターは少し考えて
「少しだけ」
と笑い、そして
「でも、今は今でとても楽しいんですよ。 自分の店も持てたしね」
と静かに話しながら店内を見回した。 それはとても愛おしさに溢れた瞳だった。
『マスター、この店が大好きなんだ……』
その顔を見て、音香は心が温かくなった。
マスターは声をかけられた時、その博打的なチャンスよりも自分の夢を追いたいという、違う人生を選ぶことを決めた。 インディーながらも当時人気絶頂だったというから、メジャーに挑戦したとしても、そのままの勢いと若さがあれば将来は約束されただろうに。 今の海斗を見れば分かる。 それをマスターは蹴ったのだ。 だがその理由は
「どうしてでしょうねぇ」
という微笑みの裏に隠されている。
「マスター、クロノスは、東京に行ってもいいと思う?」
音香は答えを聴くでもなく、無意識に言葉を漏らしていた。 マスターは視線を音香に落とすと、優しく微笑んだ。
「それは、オッカたちクロノスが決める事。 だけど僕は、反対はしませんよ。 色々な経験をしてきた目で見れば、ね」
音香はひとつ息をつき、チラッと影待を見た。 彼はまだ音響卓周りを片付けている。 音香たちの方を気にする風でもない。
「先生は、この事もう知ってるかなぁ?」
「直接は話してないけど、棚橋さんが楽屋に入っていくのは見たハズだから、彼の勘がよければ気付いてるかもねぇ。 影待くんも、棚橋さんの事は知ってるから」
「ふうん……」
音香はそれだけ言うと、踵を返して楽屋に戻った。
片付けを終えたメンバーたちは、すでに帰るだけの態勢になっていた。 楽屋には、まだ熱気が充満している。
「オッカ、答えは焦らなくていいけど、次の練習ん時な! あきらめんな!」
ナツユキが満面の笑みで訳の分からない事を言っている。 マサトが笑いながらその頭を軽く叩いた。
「お前、落ち着け!」
そして三人は口々に
「お先!」
と帰って行った。 それぞれに答えは決まっているようだった。 次にやるべきことをするために、急ぐようにスタッフに挨拶をしながら、セブンスヘブンを出て行った。
数時間後……
音香はというと、全く何もしていなかった。
ベッドに寝転がって天井を見つめたまま、色々なことが頭を巡るなか、何も出来ないでいたのだ。
まだ気持ちがまとまらない。
話を聞いた時は、他のメンバーたちの雰囲気もあって興奮し喜んでいたが、いざ落ち着いてしまうと、様々なことが渦巻き始めたのだ。
東京に出るということは、全く新しい生活に飛び込むということだ。 住む場所も、働く場所も、友達もセブンスヘブンも、今まで何気なく近くにあったものが、音香の周りから無くなるのだ。 そして、気が向いたら気軽に帰ることが出来るような距離ではない。
『不安』
時間が経つごとに音香を襲う。
自分は果たして、そんな新しく飛び込んだ世界で生きて行けるんだろうか?
「同じ事務所なら、拓也くんにも会えるんじゃない?」
さっきケータイで話した裕里の言葉も引っかかる。
拓也に会える。
そう思うだけで良いなら、こんな幸せなことは無い。 もしかしたら、拓也とまた一緒にいられるようになるかもしれない。
裕里は反対しなかった。
「友達として応援する! オッカなら大丈夫だよ!」
相変わらず、どこから来るのか分からない音香に対する自信を突きつけられた。
もしかしたらそれも、音香の背中を押すための裕里なりのエールなのかもしれない。 こんな急な話なのに、そんなにすぐに結論が出せるわけがない。 彼女だって、音香と離れて淋しくないわけもないだろうに。
不安と希望に翻弄されながら、何も答えが出ないまま何日かが過ぎた。
そして――
その日は突然やってきた。




