一枚のアルバムCD
「ごめんね、帰りまで付き合わせちゃって。 遠回りじゃなかった?」
「そんなことないよ。 実は俺ん家、オッカのマンションの少し向こうに行った所なんだ。 だから、よく前を通るんだよ」
「へえ。 知らなかった」
少し酔っている二人は、まだ肌寒い風を火照った頬に気持ちよく感じながらゆっくりと歩いた。
「迷惑、じゃない?」
歩きながら、マサトが静かに尋ねた。 音香は、なんで?という風に首をかしげた。
「いきなりさ、こんな風に『バンドに入れ』なんて言われてさ。 そりゃ、オッカに入って欲しかったのは、俺たちにとっては皆同じ気持ちだったんだけど。 拓也も、オッカに強引なこと言ったんじゃないかなって、心配してるんだ」
「そんなことないよ。 むしろ、皆に感謝してる。 この話が無かったら、きっと今も部屋に閉じこもってた。 何も出来ないまま、ずっと一日を過ごしていたと思うもん」
音香は心から微笑んだ。 それを見ながら、マサトは少し躊躇した瞳をした。
「そうか。 なら、いいけど。 無理してるんじゃないかって思ってさ」
「大丈夫よ。 そりゃ、確かに自信は全然無いし、不安はあるし、考えたらキリが無いよ。 だけど、これがチャンスだと思わなきゃって。 せっかくステージに上がれるチャンスだからって」
マサトはホッとしたように頬を緩ませた。
「オッカは強いな」
「強くなんてないよ」
いつの間にか、音香のマンションの下まで来ていた。 二人は立ち止まって、夜空を見上げた。 雲が多い夜空からは、時折月の明かりが差し込んでくる。
「がんばろうな」
空を見ながら、マサトが独り言のように呟いた。
音香は、両手を上げて伸びをした。
「『楽しもう!』だよ」
するとマサトは、ハッという表情をした後、音香を見下ろした。
『楽しむ』という言葉は、音香がいつも言い続けている言葉だった。 客が入らなくても、演奏を失敗したとしても、自分たちを信じて、自分たちの音楽を信じて、全力で楽しめば、必ず思いは通じるから。
マサトは一つ息を飲み込んだ。
「そうだね。 じゃ、おやすみ」
「おやすみ、今日はありがとう!」
音香に頷いて踵を返し、家へ向かって歩き出そうとしたマサトは、手を振る音香の方へ急に振り返った。
「あ……あのさ!」
「何?」
「……クロノスに入ろうって思ったのは、拓也のため?」
そう聞かれて、音香は少し考えた。 そして、ゆっくりと確かめるように言った。
「それも、あるかな。 でも、あたし自身を試したいっていうのもあるし、皆の期待に答えたいっていうのもあるし……理由はたくさんあるよ。 今は、色々と試せることは試してみたい。 別に、クロノスを実験台にするとか言うわけじゃなくて、自分の力がどこまで行けるのか、知りたいんだ」
マサトは音香の答えに少し間を置いて、言った。
「そっか。 でも俺は、それでも、嬉しいよ」
「?」
「おやすみ、オッカ!」
いつもの笑顔で手を振り、家路を行くマサト。
音香は手を振り返しながら、暗闇に消えていくマサトの背中を見つめていた。 手にしている封筒がなんだか重く感じた。 これから待ち受ける試練を暗示するかのように。
「それでも、あたしはやらなくちゃ」
拓也の為に。
自分の為に。
クロノスの為に。
部屋に戻った音香の手には、一枚のCDがあった。
拓也が旅立つ前に、クロノスがあった証を残すため、影待の協力を得てレコーディングをしたものだった。
その時音香は、その様子を静かにカウンターの後ろで見つめていた。 観客も居ない、鮮やかに点滅する照明もない、薄暗く静かなセブンスヘブンの店内で、ひとりひとりが自分の演奏を録音していく。
そこに悲観や後悔の念は少しも感じられなかった。
これまでの思いはあったのだろうが、作業の合間に交わす雑談も、ふざけてじゃれ合う姿も、今まで見てきたクロノスに何一つ違いはなく、そんな様子を見ているうちに、音香はひとり淋しく遠く感じていたのだった。
最後のトラックには、バンドが一斉に演奏をした一発録りを収録した。 それがクロノスの最後の演奏だった。
そして、拓也は東京へとひとり旅立っていった。
「あたしは、クロノスをもっと上へ伸ばしたい」
拓也が居たクロノスではなく、オッカが居るクロノスが本物になるように、音香が出来得る全ての事をぶつけようと、改めて強く思っていた。




