音香いっぱいいっぱい
本番の土曜日はすぐにやってきた。
音香は例に漏れず、朝から緊張していた。
メイクを何度もやり直し、昨夜決めていたはずの服を着ては脱いで、落ち着かない半日を過ごした。
やがて集合時間が近づいてきた。
特に持っていく必要なものはないし、音響や照明と違ってリハーサルに付き合うこともないということで、開場の三十分前にセブンスヘブンに集合だ。
駐車場が狭いから車は避けてほしいと言われていたので、駐輪場から自転車を引っ張り出した。 いつもは呑むために、一人で行く時は歩きでしか行ったことがなかったので、少し新鮮な気がした。
「よしっ!」
気合いを入れるようにグイッと漕ぎだした。
もうすぐ夕刻の空。 少し冷たいくらいの風が気持ち良く音香の緊張して火照った頬を撫でた。
集合時間は十六時半。
二十二歳にして、人生初のバイト初日だ!
開場時間前のセブンスヘブンの前には、まだ学生位らしい若い子達が散らばっていた。 その中をすり抜けて店の裏に自転車を停めると、重い扉を開いた。 開場前に会場に入るという優越感が、どこか気持ち良いことに気付いた。
「?」
違和感。
『そっか、ベルの音がしないんだ』
そして、圧迫感。
いつもは開け放たれているもう一つの扉が立ちはだかっている。
その厚い木の扉をゆっくりと開けると、音香は目を見張った。
「すごい……」
セブンスヘブンは、音香の知らない姿を見せていた。
薄暗い照明は変わりないが、椅子や机が撤去されていつもより広い空間が広がっている。 そして、いつも下りているスクリーンが全開に上がり、ステージが出来上がっていた。 中央奥に陣取るドラム、両端には黒く大きい箱……スピーカーが整然と並んでいる。 その前にマイクスタンドが一本、ぽつんと立っている。 その誰もいないステージを見るだけで、
『ライブって……なんて格好良いんだ!』
と思った。
そして、いつものセブンスヘブンとのギャップが、音香の心を大きく揺さ振っていた。
あっけにとられて呆然としている音香に気付いたマスターが声をかけた。
「オッカ、こっち!」
手招きされてカウンターに近寄ると、二人の男性が向こう側に座っていた。 マスターは彼らを紹介した。
「オッカ、こっちの人が照明の立木くん。 あっちの人が、この間ここで会った影待くん。 音響をやってる。」
音香は姿勢を正してお辞儀をした。
「あ、あの、今日からお世話になります、城沢音香です。 よろしくお願いします!」
「よろしくな!」
ニッコリ微笑んで片手を挙げた照明の立木。 黒い短髪を綺麗に立て、丸い顔と目、大きめの口がなんとも人懐っこそうな印象だ。 音響の影待はこの間と同じように髪の毛で隠れがちな顔をペコリと下げ、
「よろしく」
と呟いた。 影待は、小さな声なのに何故かよく聞こえる。 不思議な感じがした。 でも暗いのは変わりなかった。
二人に一通りの挨拶を終えたところで、マスターは音香を扉の方へ促した。
「じゃ、オッカに仕事の説明をしたらすぐ開場しますので、皆さんよろしく!」
二人は親指をグッと挙げて、『オッケー』のサインを出した。
音香はマスターに付いて行くと、さっき通った扉と扉の間の小さな小部屋に入った。 二畳ほどの小さな空間は、マスターと二人でいるだけで充分な広さだ。
「さ、仕事の説明をするよ」
マスターは小部屋の一角に立て掛けてある板を倒した。 小さな棚の誕生だ。
そして手にしていた小さな金庫を置くと、手際よく中身を取り出した。 タイトルに『メニュー』と表示してあるラミネートカードを壁に貼り、ペンを音香に手渡した。
「まず、お客さんが入ってきたらチケットを見せてもらうんだ。 半券をちぎって、ドリンクの注文を取る。 メニューはコレね」
と、さっき貼ったメニューのカードを指した。
コーラ、オレンジジュース、ウーロン茶と表示してある。 そして、三百円と大きく明示してあった。
「注文を聞いたら、さっきちぎった半券のこっちに、コーラなら『K』オレンジなら『O』ウーロン茶なら『W』と大きく書いてお客さんに返して、三百円を頂く。」
音香はうんうんと頷きながら一生懸命聞いた。 頭の隅で、メモくらい用意すれば良かったかな、と少し後悔していた。 追い込まれたような音香を察したのか、マスターはニッコリ微笑んで言った。
「開場したら、僕も手伝うからね」
その言葉に音香は少し落ち着いて、固い笑顔を返した。
「はい、頑張ります」
音香は金庫の中を見た。 小銭と札が整頓されて入っている。 いつもきちんとしているマスターらしい。 当日券もその横に入っていた。
「当日券を買う人も居るんですか?」
仕事モードなので、自然に敬語が出る。 音香も、それくらいの常識は持っている。
「たまぁにね。 あ、今日の当日券は五百円だよ。 プラス、ドリンク代三百円ね」
その時、表の扉が開いた。 外の明かりと共に、健康そうな彫りの深い顔が飛び込んできた。
「間に合いましたっ?」
音香の前でその男性は膝に手を置き、息を整えた。 幼い感じが、音香よりも少し年下に見える。 小柄だが腕の筋肉が異常に発達しているのが見えた。 マスターが笑いながら彼に声をかけた。
「間に合いましたよ。 すぐ開場するからね、よろしく」
「はぁっ、良かった!」
と安堵の表情で顔を上げた彼と音香の目が合った。
「えっと……」
黒い瞳で食い入るように見つめられ、音香は我に返った。
「あの、今日からお世話になります、城沢音香です、よろしく……」
「俺は立木隼人。 よろしくな!」
被り気味に挨拶を返し、にっと笑った。 大きめの口が、照明の立木に似ている。
『立木……?』
その時、見守っていたマスターが、
「さ、開場するよ!」
と声を掛けた。 その声に立木隼人は、
「はいっ!」
と元気よく返事をして表の扉を開け放した。 薄暗かった小部屋に再び光が一気に入ってきた。
「開場しまぁす! チケットを持っている人は、出して入ってくださぁい!」
外へ向かって、隼人がよく通る声でアナウンスした。 周りは住宅街だというのに、お構いなしらしい。 そして彼は、
「後はお願いします!」
とそそくさと中へ入って行った。 やがて、続々とお客が入ってきた。
「チケットをお預かりします」
先に見本を見せてくれながら、マスターが手際よく客をさばいていく。 ドリンクが別料金と知らずに来たお客にも、
「申し訳ございません。 必ずドリンクは注文頂くことになっているんですよ」
と流暢に応対している姿を見ながら、音香は正常な顔を保つのに必死だった。 心の中は、テンパりまくって嵐が吹き荒れている。
『か……帰りたい……』
と思った時、音香の前にマスターの笑顔があった。
「どう? 簡単でしょ?」
やっと客足がまばらになってきた所だったので、マスターは受付を音香へとバトンタッチした。
「は……はい!」
もう、なるようになれだ。 音香は覚悟を決めた。
「いらっしゃいませ。 チケットをお預かりします!」
マスターが見守るなか、音香はなんとか仕事をこなした。 つまずいた時はすぐにマスターが助言してくれるので、次第に音香もリラックスしてさばけるようになった。
客足が途絶え、表の扉と中の扉を閉じると、また薄暗い小さな空間が戻ってきた。
「はぁ……」
音香は、やっと大きく息をした。 というよりは、ため息だ。 マスターはそれを見てクスクスッと笑った。 長身で細身の身体が小刻みに揺れている。
「大丈夫?」
「なんとか……こんなに短い時間に、こんなにたくさんの人と話したの初めてで……」
するとマスターは、アハハハッと大笑いした。 音香が頬を膨らませてにらみ返すと、
「ごめんごめん。 でも結構筋がいいよ。 次からは一人でも大丈夫だね!」
と微笑んだ。 音香は飛び上がるほど驚いた。
「ひっ! 一人でっ?」
マスターは面白がるように笑いながら言った。
「開場した時はきっと大変だと思うから手伝うけどね。 そんなに怯えなくても大丈夫。 何かあれば助けるから」
今日のマスターはよく笑う。 いつもカウンターの中で静かにたたずんでいるイメージとは全然違う。 やはりライブともなると、盛り上げなきゃならないし、テンションが上がるのだろうか?




