音香の悪ノリ全開!
音香は驚きよりも拍子抜けをしていた。
『あのセブンスがねぇ…』
噂には聞いていたが、セブンスヘブンという場所が音香にとって、あまりに身近すぎて実感が湧かなかったのだ。
「知ってる……ていうか、あたし、そこの常連。 言ってなかったっけ? あたしがバイトしてるのも、セブンスなんだよ」
事も無げに放った音香の言葉に、拓也がナイフとフォークを落とすほど驚いたのは言うまでもない。
音香は早速、拓也をセブンスヘブンに連れていくことにした。
「予約を取らなくてもいいのか?」
と怖気づく拓也に
「いいのいいの! どうせヒマなお店なんだから!」
と、マスターが聞いたら目を回しそうな毒舌を吐きつつ、音香は笑った。 とはいえ、彼女なりに拓也を落ち着かせようと狙っていたところもあるのだ。
道中、運転する拓也に
「なんでセブンスでライブするのが夢なの?」
と尋ねた。 拓也は慌てて
「『セブンス』なんて略して言うなんて、とんでもない!」
と前置きをして、
「セブンスヘブンは、俺たちバンドマンにとって夢のライブハウスなんだ。 そこのステージに立つってことは、それだけ音楽生活の扉を一歩……いや、大きくステップアップした証拠みたいなものなんだ。 だからバンドマンたちは、セブンスヘブンを目指す。 ただ……」
信号待ちの車の中、ハンドルをグッと握りしめながら、拓也が苦い顔をした。 音香はその顔を覗き込んだ。
「ただ、どうしたの?」
「使用料が高いんだよ……」
「マジか!」
『マスターったら、どれほど稼ごうとしてるのよ?』
呆れ顔の音香に、拓也は説得するように続けた。
「だけどさ、ホントにすげーんだって! あの音響は他のハコじゃ味わえないんだよ!」
ハコとは、ライブハウスの事。 そんじょそこらの小さなライブハウスでは味わえない音響機器の力。 それと引き替えだったら、例え使用料が高くても文句は言えないんだと、また興奮気味に話した。 神の領域だというその場所には、例え飲みに行くだけでもおこがましいと、まだ一度も行ったことがないらしい。
『へえ~、あのセブンスがねぇ……』
再びそう思いながら、音香は依然として、実感が湧かないでいた。 今までごく当たり前のように通っていた場所が、バンドマンたちにとっての聖地だったとは……。
音香にはすでに、セブンスヘブンという場所が空気のような存在になっていたのだろう。 そうこうする間に、拓也が運転する車はセブンスヘブンの駐車場に停まった。 その一番端には、いつものマスターの高級車が静観と停まっていた。
「えぇ~~これがマスターの車? ジャガーじゃん! 外車じゃん! カッコいい! すげーな、すげーな!」
とすでにすっかり興奮している拓也を引きずるように、音香はセブンスヘブンの扉を引いた。
カランカランカラン……
というベルの音が降る中を通りすぎ、ひょこっと店の中を覗いた。
「こんばんは~」
マスターはカウンターの奥から、相変わらずのスマートな黒いベスト姿と笑顔で迎えた。
「いらっしゃいませ」
客はいないようだった。 緩やかにジャズが流れ、さっきまで爆音に包まれていた車内とは別世界だ。 音香は、一瞬でこの別世界に引き込まれるような感覚が大好きだった。
「あれ、今日は……?」
と音香の後ろを見ながら言うマスターに、彼を紹介した。
「彼、古瀬拓也くん。 神の住む場所に行きたいっていうから、連れてきました」
「?」
きょとんとした顔のマスター。
音香の後ろでは、拓也が落ち着き無くあちこちを見回していた。 瞳が煌めいているのが、暗がりの店内でもよくわかった。
音香はクスッと笑ってその腕を引き、拓也をカウンター席に座らせた。 小柄な彼も、両足がフワフワと宙を舞っている。 分厚い底のがっしりした重そうな靴が、椅子の足を傷つけそうだ。
「マスター、何か彼が落ち着きそうなものを」
苦笑いをしながら言う音香に、マスターは微笑んでうなずいた。
「カクテル、で、いいですか?」
マスターの問いに、拓也は急に緊張したように堅くなり、背筋を伸ばした。
「は、はい、カクテルで!」
音香は笑いながら、自分の分も「適当に」と注文した。
やがていつものように手際よく作られたカクテルが、二人の前に差し出された。 拓也はロンググラスをそっと手に取り、緊張の面持ちで口を付けた。
「……美味しい!」
「ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をするマスターに、拓也も同じようにお辞儀をする様子が何とも可愛らしく思えて、音香はコロコロと笑った。
しばらくして、拓也が落ち着いたことを見計らうと、音香は話を切り出した。
「マスター、この人ね、バンドマンなんだけど、ここでライブするのが夢なんだって」
「あら、それは嬉しいですねぇ。 ありがとうございます」
マスターはかしこまってお辞儀をした。それを見て、拓也もあわててまたお辞儀をした。
「音響が神なんだって」
すると突然、拓也が慌てて音香の肩を掴んだ。
「オッカ、そんなタメ口で喋っていいのかよ? 神に失礼だろ?」
マスターは笑って言った。
「私は、音響じゃないですから」
「そうよ、マスターは音響でもなければ、神でもないわ!」
「「オッカ!」」
二人同時にたしなめられ、音香はペロッと舌を出した。 その横で、拓也が丁寧にマスターに尋ねた。
「じゃあ、音響は他の誰かが?」
マスターはうなずいた。
「お隣の、音香さんのギター教室の先生ですよ」
「えええええ!」
拓也は椅子から転げ落ちるかのごとく驚いた。 のけぞりながら、拓也は震える声で言った。
「お前、神に教わってんのか!」
「だから、神じゃないってば……」
音香とマスターは、拓也を再びなだめるのにしばらくの時間を費やした。
しばらく過ごしていると、アルコールの助けもあって、拓也も穏やかになった。
そして後ろを振り向くと、スクリーンが下りているステージの方を見つめ、瞳を輝かせていた。
今までさんざん夢を見てきたのだろう。 その表情はすっかり子供のソレになっている。
マスターが気を利かせたのか、
「ステージ、見てみますか?」
と声をかけた。 すると拓也は驚いたように両手を振った。
「いや、俺たちが自分の力で、ここでライブが出来るようになるまでは、楽しみにしておきます!」
彼にとっては、相当大切な存在なのだろう。 宝物を最後の最後まで見ないでおこうという感覚に似ている。
音香はマスターに頼んでみた。
「ねぇマスター、拓也のバンド『クロノス』にライブをさせてあげて。 あたしからもお願い! 結構いいライブするよ! 客も絶対入るから! 損はしないって!」
ダメ元と思っていた音香だったが、マスターの反応は思ったより軽いものだった。
「それはもう、営業者としてはすぐにでもしてもらいたい位ですけどね。 ところで、クロノス……?」
「知ってるの?」
マスターは少し考えて、
「噂には……。かなり煽りがうまいらしいと」
と微笑んだ。
「曲の方も聞いてあげてよ? 結構いい音出すんだから!」
酒の力も借りて、音香は売出しにかかった。営業活動は苦手な音香だが、相手が気の知れたマスターなら容赦しない。
「それほどのバンドが、何故ここでライブをしてくれないのか、こちらが聞きたい位ですが」
マスターが何気なく放った一言にカチンと来た音香は、これみよがしに
「高いからだって!」
と声をあげた。
「お……オッカ……」
横で拓也が慌てているが、調子に乗ってしまった音香は誰にも止められない。
「いくら音響が良いもの使ってるからってね、借り賃が高かったら誰も寄り付かないってば! 少しは学生とか貧乏バンドマンの事も考えてあげてよねっ!」
遂に、拓也が慌てて音香の口を塞いだ。
「す、すみません、マスター! こいつ酔っ払ってて……」
ばたつく音香を押さえながら、拓也はマスターに苦笑いをした。
「気にしないでください。 俺たちきっとここでライブしますから。 それが目標のひとつなんで!」
マスターは静かに、一生懸命話す拓也の顔を見つめていた。 そして口を開くと微笑んだ。
「ここは、オッカの顔を立てないといけなさそうですねぇ」
プハッと拓也の手から逃れた音香が、身を乗り出した。
「マスター、じゃあ……」
彼は、瞳を輝かせながら見つめる音香に、観念した顔で言った。
「今回だけ、格安でお貸ししましょう」
「わぁい!」
音香は、拓也本人よりも嬉しそうに両手を挙げて喜んだ。 拓也ももちろん大興奮していた。
「ホントですか? あの、今からメンバーと連絡取ってきていいですかっ?」
マスターが微笑んでうなずくと、拓也は音香の頬に軽くキスをするやいなや、ケータイを握り締めて外に飛び出した。
『マッ……マスターの目の前でキスされたぁ……』
と思わず真っ赤になっている音香の前で、拓也を見送ったマスターは笑いながら穏やかに言った。
「台風のような人ですねぇ」
そんなマスターを見て、音香は
『そっか、あたしに彼氏が出来たって、嫉妬なんてしないんだ……そうだよね、あたしはただのお客なんだし』
と、少し寂しく思った。
だが、同時にどこかホッとしたのも事実だった。
やっとマスターから卒業出来たような感覚が音香の胸に生まれ、ひとつ成長出来た気になったのだ。
クスッと独り笑う音香に、マスターは不思議顔で
「どうしました?」
と首をかしげた。
「ううん、なんでもない」
音香は心が軽くなっているのを感じ、目の前のグラスを傾けた。
『そうよね、あたしが勝手に想ってただけだもん』
不意にマスターが言った。
「オッカはライブしないの?」
「えっ? まさか!」
音香は、自分の実力くらい分かってるから、と首を横に振った。
「きっと、楽しいと思うよ」
マスターはシンプルな言葉を返し、微笑んだ。




