人見知りなライブスタッフ
二つ並んだ四人掛けの席の向こうに、十畳ほどの何もない空間がある。
その向こうの壁一面を覆う白いスクリーン。
そのまた向こうには、今は隠れて見えないが、ステージがあるのだ。
セブンスヘブンはライブハウスバーなのです。
ライブをやらないときは、こうしてスクリーンでステージを隠し、静かなジャズが流れるバーを営業している。 こんなに静かな空間が、大音量と人でごった返すイメージは浮かべにくい。 音香も、セブンスヘブンでのライブはまだ観たことがない。
「最近、ライブも入らないみたいだよね?」
音香はカウンターに向き直って微笑んだ。 マスターは苦い顔をした。
「オッカはいつも言葉が正直ですねぇ……」
「そぉ?」
音香は、気にしない、というふうに首をかしげ、
「次は何にしようかな~?」
と空になったグラスを指でそっと押した。 マスターはそれを受け取ると、シンクへ静かに置いた。
「ところで、オッカのその明るい所を見込んで、頼みたいことがあるんですが……」
音香は肩肘を付いた姿勢を正して身を乗り出した。 何かを頼まれることには、あまり嫌な気がしない性格なのだ。
「あたしに出来ることなら、何でもやらせてもらいますよ?」
「土日が基本のつもりなんですけど、ライブのお手伝いをしてもらえないかと思って」
音香は驚いた。
「えぇ~~? あたし、そういうの全然わかんないよぉ?」
困った顔で断ろうとすると、マスターはその静かな声で言った。
「難しい仕事じゃないですよ。 受付に居てもらって、お客さんのチケットをもぎって、ドリンクの注文を受け、お代を頂くだけですから」
ニッコリしながら言うマスターとは対照的に、音香は引きつった顔をしていた。
マスターとこう仲良く話しているので勘違いされそうだが、なんと音香は人見知りなのだ。
一人でこの店に来ることが出来るのは、客が閑散としているこんなスタイルをしているからで、街の中にある賑わう店に一人でなんて百年経っても入れないだろう。 馴れたマスターの前だから、音香はのびのびと出来るのだ。
それなのにマスターは、音香を明るく誰とでも気さくに話せる人だと思っているのだろうか……?
「マスター、無理だって! 知らない人となんて話せないよ! ましてやお金を扱うなんて……」
すっかり怯える音香に、マスターはなだめるように言った。 すでに音香に照準を定めたようだ。 その微笑みの奥に潜む企みが怖い!
「大丈夫ですよ。 注文を聞くだけだし、たった三百円頂くだけですから。 それに入場の時は混雑するから、僕も手伝いますから! ねっ」
「……っ……じゃあ……」
マスターは終始笑顔で、思わず言葉に詰まった音香は、マスターも手伝ってくれるなら……と、渋々引き受けることにした。 時給が良いという餌にも見事に引っ掛かった。 それでも、
「ね、本当にあたしでも大丈夫? 怖い人とか来ない?」
とマスターに質問攻めをしているとき、再び
カランカランカラン……
と扉のベルが鳴り響いた。 二人は扉の方を見た。
細身で長髪の男性が静かに入ってきた。 音香の知らない人だった。
「いらっしゃい!」
マスターの口調は、馴染み相手に対するソレだった。 男性は特に愛想を振りまくこともなく、音香の後ろの四人掛けの席にまっすぐ向かって歩き、少し高い椅子にも関わらずにスムーズに座った。 それに合わせて手際よく灰皿とコースターを置き、注文を聞いて帰ってきたマスターに、音香は耳打ちするように尋ねた。
「マスター、あの人常連さん?」
するとマスターはニッコリと微笑み、うなずいた。
「ええ。スタッフですから」
「スタッフ?」
音香はそっと振り向いた。 男性は暗がりで半ばうつむいてタバコに火を点け、ため息のような煙を吐いた。 パーマを掛けているのか、チリチリの長髪で顔が隠れているので、シンプルなメガネがチラッと見えるだけだ。
『暗い……』
音香は少しだけ嫌悪感を抱いた。
マスターが出来上がったコーヒーを置きながら、彼に声をかけた。
「影待くん、ライブが入ったよ。 来週の土曜日、大丈夫かな?」
すると『影待くん』と呼ばれた彼は、細くゴツゴツした指でケータイをポケットから出して開いた。
「いいよ。 時間はいつもと同じ?」
マスターと打ち合わせをする様子を見ながら、音香は思わずツッコミたくなった。
『そんなテキトーな感じでいいの?』
あまりじっと見ているのもいやらしい感じがしたので、音香はカウンターに向きなおした。 その時マスターが言った。
「あ、彼女、今度から手伝ってくれるって。 城沢音香ちゃん。」
音香は思わず振り返り、驚きの声を上げた。
「あ、あたし、まだちゃんとオッケーしてないわよっ!」
マスターが四人掛けの机に寄りかかって微笑む、その隣の影待と目が合った……ような気がした。 暗がりとメガネで彼の視線が分からなかった。
「っ……!」
なんだか威圧感がして、音香は思わず息を呑んだ。 影待が呟くように言った。
「大丈夫。 簡単だから」
簡潔すぎる説明に言葉を失っていると、マスターが嬉しそうにポンと手を打った。
「じゃ、決まりね!」
悪気の無さ過ぎる仕草に、音香は何も言い返すことが出来なかった。
帰り道、音香は自分のケータイのスケジュールに打ち込まれた『ライブ』の文字を眺めながら、複雑な心境で歩いていた。
確かに、小さな会場でやるライブ自体には友達に連れられて何度か行ったことはある。 好きなアーティストのすぐ近くでそのパフォーマンスを見られるというのは、大会場で観るソレとは違う。
アーティストの煽りに答えるファンの熱気、歓声、それはすごい力の形だ。 そうやって参加する楽しみは知っているし大好きだ。
けれど、ライブを作るスタッフ……つまり裏方になるということに対しては別だ。
好きでもないアーティスト、ましてやセブンスヘブンのような、入ってもせいぜい六、七十人ほどの小さなライブハウスに来るアーティストは、無名の、もしくは学生が興味本位で組んだようなバンドばかりだろう。
音楽は好きな方の音香だが、正直気乗りがしなかった。
素直で言うことを聞いてくれる客ばかりではないだろうし、暴れだしたら逃げればいいのだろうか……それよりも、お金を扱うってことは、かなりシビアな仕事のはずだ。 音香はひたすら負のスパイラルに陥っていた。
「断ろうかな…」
だが、小さな商事会社に勤め、細々とした代わり映えの無い日常を思えば、知らない世界が見られるかも知れない。
『でも面白そうだし……とりあえず一回だけ』
やってみることにした。