聖地への思い
「オッカ、ありがとう! すごく嬉しかった! どんな高価なプレゼントよりも、温かくて素敵な贈り物だったわ!」
抱きついてきた朋美の涙を溜めた瞳が、音香の心からしばらく離れなかった。
弾き語りを披露して良かった。 企画をして声を掛けてくれた裕里には、心底感謝した。
そして棚ボタ的に、【彼氏】と呼べる人とも出会うことができた。
音香は少し笑みの湛えた瞳で、ケータイのアドレス帳を見つめていた。 そこには【古瀬拓也】の文字が揺ぎ無く映し出されていた。
それから何度かメールや電話の交換をして、音香は拓也とデートをした。
思えば音香は、こうして男の人と二人だけで遊びに出るのはずいぶん久しぶりだ。
高校の時に付き合っていた彼は、卒業と同時に自然に別れた。 何故か、悲しいとか淋しいとか感じることもなく、『就職するから別れよう』という暗黙の了解のもと、ごく自然に離れた。
それからしばらくの間は、音香はたいして彼氏ゲットに貪欲でもなく、毎日会社と家を往復し、時々裕里や友人たちと遊ぶ、そんな代わり映えない生活を繰り返していた。
裕里の紹介でセブンスヘブンに通うようになって、ライブのバイトを始めたり、ギターを習ったりするようになってからは、知り合いもぐんと増えて充実した生活を送るようになり、裕里に彼氏が出来た時も、若干の寂しさはあったものの、変わらず音楽にのめり込んでいたのは事実だった。
そんな最中だったので、急に古瀬拓也という彼氏が出来たことに実は、実感も沸かず、友達の感覚で付き合いを始めた。
拓也もそれでいい、と認めてくれたし、まずお互いを知ることから始めることにした。
二人はよく話した。
不思議なことに、興味を持つ対象が似ていたこともあって、話がよく弾んだ。 好きなジャンルの音楽も似通っていたし、偶然同じバンドのライブに行っていたことも判明して、なお盛り上がった。 そしてファッションに関しては拓也の方がよく知っていたので、音香は彼から色々と情報を仕入れるのだった。
「あくまでも俺の為ではなく、音香自身の為に綺麗になって欲しい」
と言う拓也の言葉に、音香の胸が高鳴った。 毎晩のように寝る間も惜しんで話し込むことも、全く苦痛ではなかったし、一日二十四時間が足りないとさえ感じていた。
「俺たち、昔から会ってたみたいだな!」
そんな言葉が似合う二人だった。
毎日が、満開の桜のように華やかだった。
拓也は現在、『クロノス』というバンドでベースを担当している。
音香も何回かライブを観に行った。 まだまだ名前は売れていないが、確実にその実力はあると素人ながらに感じていた。 なにしろ、客を引き込む話術が長けている。
ギターのマサトは大人しめだが、ボーカルのナツユキとベースのタクヤ(拓也)が揃うと、その会話だけでライブが終わりそうな勢いだ。 その後ろでドラムのユウがツッコミをする。 音香はそんなクロノスの楽しく明るいライブが大好きだった。
勿論曲も素晴らしい。 重低音のリズム隊がしっかりと根を張り、その上に広がった葉を揺らすように二本のギターの旋律が踊る。 そしてナツユキのはっきりした透明感のある声で歌うハイトーンヴォイスに彩られる。 クロノスはまるで空を漂うオーロラのように次々に形を変え、色を変え、観客を魅了していた。
そんなある日のギター教室で、音香は
「エレキギターを弾いてみたいのですが……」
と影待に話した。
基本的に、音香が観に行くライブではほとんどアコースティックギターを使わない。 腹に響くリズム隊、耳をつんざくエレキギターとボーカルの喉を切り裂くようなシャウト。 セブンスヘブンでのライブでも、ハードロックのバンドが多い。 きっと簡単なコードでかき鳴らせる楽曲と、乗りやすい曲調を選ぶとそうなるのだろう。 実際、観客たちも自分のストレス発散を目的に来ている様子だ。
家でも外でもそんな音に馴れ親しんできた音香がエレキギターに興味が出るのは、ごく自然なことなのだろう。
影待は音香の話を聞いて、あまり驚いた顔もせずに答えた。
「今までアコギをやってきてるから基本は出来てるはずだし、最初から普通に弾けるとは思うよ。 アコギとエレキとのたいした違いは無いからね。 それで、欲しい型とか、あるの?」
言われて、音香は自分のカバンからおずおずとパンフレットを出した。
「これ、どうかと思うんですけど……」
と、あらかじめ折り目を付けておいたページを開いて見せた。
影待はそれを手に取ってしげしげと見ながら、
「エレキもアコギもそうだけど、好みの問題だからね、決まったものがあるのなら、それにしたらいいよ。 値段もそう高くないみたいだし」
と淡々と答え、音香に返した。 そのパンフレットを受け取りながら、そこに載っているギターをじっと見つめた。
『拓也が選んでくれたギター……』
最近はクロノスのライブのたびに楽屋へ遊びに行き、たまにマサトのエレキギターを弾かせてもらっていたら、拓也が軽く
「オッカもギタリストなら、エレキ持てばいいのに」
と言うので、すっかりその気になってしまったのだった。
だが、以前のように、再び偶然居合わせて影待に助けてもらえるとも限らない。 変なものを売り付けられないように、今度はじっくりと考えてから買おうと、楽器屋でもらってきたパンフレットや周りからの情報であれこれ悩んだ結果、結局は拓也が
「これがいいんじゃない?」
と決めてくれた。
「楽器屋で取り寄せてもらうんでしょ? アコギを買ったあの店なら、俺の名前を出したら、少し安くしてくれるかもな。 一応声は掛けてみようか?」
結局影待の好意で店に声をかけてもらうことになった。 再び会った、相変わらず濃い髭をたたえた熊のような風貌の店長は
「ああ、影待君から話は聞いているよ。 彼の顔を立てて、ちょっとだけ、まけてあげるよ」
低く響く声で笑い、快く見積もりを出してくれた。
「良かったな、オッカ! ありがとう、店長さん! 俺もここの常連になろうかな?」
付いて来てくれた隣の拓也が、自分の事の様に嬉しそうに言った。 音香も胸が熱くなり、微笑んでうなずいた。
一週間ほどでエレキが届くと、今度はエレキギターの虜になった。
もう要らないから、とマサトに貰ったエフェクターをエレキにつないで、まるでオモチャを見つけた子供のように、弾きまくっていた。
さすがに自分の部屋ではヘッドホンを付けての演奏だったが、そのおかげで集中も出来、時間を忘れて深夜まで弾き続けた。
エレキギターはアコースティックギターよりも弦が緩く張ってあるので、押さえやすい。 ボディの厚さや重さなど、多少の違和感はあれども、すぐに慣れた。
拓也が選んでくれたのは、赤いボディカラーの丸みを帯びた形をしたボディのエレキギターだった。
「これが一番、オッカのイメージに合ってるから」
という理由だった。 音は二の次だと笑っていた。
確かに小柄な音香の体にも違和感無くフィットしたし、何よりアコギには無い派手さが、音香の印象をまた違ったモノにした。
やがてギター教室でもエレキを習うようになり、アコギにはなかった技を次々に覚えた。
チョーキング、スライド、タッピングなど、エレキならではの派手な奏法がこんなにたくさんあったのかと驚くと共に、音香はそれらをスポンジのように吸収している自分に、楽しくて仕方なかった。 勿論アコギでも出来る奏法ではあるが、電気を通して形作られる音は、生音には無い特別な説得力を持っていた。
ライブで忙しい中、わざわざ時間を作ってくれた拓也。
家族連れやカップルで賑わうレストランで、音香の前に座った拓也は、運ばれてきた湯気の立つ料理を前に、遠く思いを馳せるような潤んだ瞳で言った。
「俺さ、夢があるんだ」
「夢って、何?」
「俺さ、一度でいいから、ライブをやりたい場所があるんだ」
「どこ? 東京? 大阪?」
「いや、違う。 そこはさ、俺らバンドマンにとっては聖地なんだよ。 ここら辺では、知らないバンドマンは居ないってくらいのさ!」
拓也は熱のこもった口調で遠くを見た。 まるで今、そのステージに立つ寸前のような緊張感を帯びた表情で、ツバを飲み込んだ。 音香はその様子を見つめながら、あえてあまり気にしていない風にパスタをフォークに巻きつけながら、軽い口調で相槌を打った。
「へぇ~、そんな所があるんだ? で、何ていうライブハウス?」
彼は、持っていたナイフとフォークを所在なさげに動かしていた。 どうやら考えるだけでもう興奮しているらしい。 そして、意を決したように瞳を爛々と輝かせると、思いのハケを吐き出すように言った。
「セブンスヘブン!」