マスター夫婦……飛び出した音香!
「呑みに来てくれるのは、久しぶりですね」
マスターは、いつもと何一つ変わらない笑顔で音香を迎えてくれた。
音香はまだ誰も居ないカウンターに近づくと、お決まりのように端っこの席に座ると、いつものように飲みたい酒のイメージを伝えた。 マスターは頷くと酒棚からカルーアコーヒーリキュールを取り出してカウンターに置くと、手際よく調合してグラスに注ぎ入れた。
琥珀色の層が照明にほのかに照らされる様が綺麗なカクテルだった。 一口付ければ、すっきりした味わい。 どこか紅茶の風味を感じた。
「カルーア・ウーロンです」
「今日も当たりね」
満足気に飲む音香に、マスターは
「ありがとうございます」
と笑顔で軽く会釈した。 そして久しぶりに他愛無い話をしていると、
カランカランカラン……
と扉が開くベルの音がした。 お客が入って来たのを確認するかのように、二人で扉の方を見た。 すると
「こんばんは~」
鈴が鳴るような可愛らしい声と共に華奢な女の人が入ってきた。 音香に気付くと、彼女はにっこりと笑った。
「オッカちゃん、来てたんだ? 久しぶりだね!」
嬉しそうに言いながら少し小走りで近寄ると、拍子で背中まで伸びた緩いウェーブの掛かったブラウンの髪の毛が軽やかに揺れた。 二重瞼のパッチリした子猫のような瞳が、暖色系の穏やかな照明を反射して揺れていた。
彼女がマスターの奥さんだ。
「久しぶり、冴子さん」
音香はにっこりと笑って隣の席に誘った。 彼女が座った途端、コンディショナーか香水の良い香りが鼻をくすぐった。
「会社帰り?」
「そうよ。 今日は早く終わったから、旦那の働きぶりを見に来たの」
冴子はからかうようにマスターを見た。 彼は困ったように眉を寄せて、
「心配しなくても、ちゃんと働いてますよ」
と苦笑いをした。
冴子はコロコロっと笑いながらジンライムを注文すると、またも手際よくカクテルが出来上がった。
それに一口付けると、思い出したように音香に言った。
「そう言えばオッカちゃん、発表会に出たんだって?」
「えっ! どうして? あ……」
音香は思わずマスターを見た。 その心を読んだように、彼は悪気の無い雰囲気と共にニコッと微笑んだ。
「初心者にしては、なかなかいい演奏をしていましたよ」
「私も聞きたかったなぁ~。 オッカちゃんが出るって知ってたら、仕事休んででも見に行ったのに、彼ったら事後報告なんだもん!」
冴子がとても残念そうに言うので、音香は両手をブンブン振った。
「そんな、ホント、聴かせられたものじゃないから! ダメ! 耳の毒!」
今、きっと顔が真っ赤だ。 暗がりの店内だったことで、音香は内心ホッとしていた。
「それじゃ、聴かせられるようになったら聞かせてよ。 ずっと待ってるから。 私オッカちゃんの声、好きだもん。 きっと歌声も素敵ね!」
音香は思わず、冴子の『好き』という言葉に衝撃を受けた。 それと同時に、『聴かせたい!』と思った。 だが、自分のレベルなんてまだまだだと言うことくらい分かる。 もっと練習しなきゃ、人前でなんて披露できない。 それが、この間の発表会で音香が学んだことだった。
「人に披露しながら覚えていくこともあるんですよ」
マスターが洗い終わったグラスを拭きながら、静かな口調で言った。 多分マスターに怒られても、心が和んでしまうだろう。 そんな穏やかな雰囲気を持つマスターは、言葉少ない上にぶっきらぼうな影待とはまるで正反対だ。
「そうよ、この人だって何度もステージで失敗してきたのよ」
冴子はマスターをからかうようにクスクスと笑った。
「へぇ~……」
言いながら、音香は突然目の前の二人が急激に離れる感覚に陥った。
『冴子さんは、あたしの知らないマスターを知ってるんだ……』
「失敗じゃなくて、ちょっとやんちゃしてただけですよ。 オッカが誤解するじゃないですか……」
困惑気味に話すマスターに、コロコロと笑う冴子。
二人が……遠い……
音香は急に席を立った。
「?」
驚いたように見つめる二人に愛想笑いを振りまきながら、自分のバッグを握り締めるように持った。
「そ、そう言えば用事があったの、すっかり忘れてたよ! ごめん、今日は帰るわ」
そして、そそくさと会計を済ませると、
「またゆっくり遊びに来ます! 冴子さん、またね!」
と拝みポーズをし、きょとんとする二人を背に感じながら慌しく外へ向かった。
重い扉を勢いよく開けると、
「うわっ!」
という驚いた声が聞こえた。 いきなり扉が開けば誰でも驚くだろう。 しかも重く厚い扉だ。 当たれば勢いで怪我をしかねない。
「すみません!」
音香が謝りながら相手を見ると、慌てて一歩後退りをする影待がいた。
「えっ、城沢……?」
「あっ!」
一瞬で気まずさを感じた音香は、思わず顔を背けるように走り去った。
二百メートルほど全力疾走しただろうか。
とうとう息が苦しくなり、公園のベンチに腰掛けた。 夜の小さな公園には誰もいない。 点々と立つ外套がほのかに遊具を照らしている。 空を見上げると、かすかに星が瞬いていた。
音香はベンチの背もたれに身を委ねながら、荒い息を整えながら思った。
『まだ……好き……なのかな?』
自分の中で区切りを付けていたはずなのに、何故かマスター夫婦を間近に見たら、急に胸が苦しくなったのだ。 裕里に彼氏ができて、幸せそうなのろけを見ている事も原因のひとつなのだろうか……。
『大丈夫だと思ったのにな……』
店のマスターとその客。
バイトの店長とその店員。
その図式は出来ていたはずなのに。
こんな時、いつもならすぐに裕里にメールなり電話なりを入れるのだが、今日は彼とデートだと知っている。 裕里も音香のマスターに対する気持ちを知っているので、余計な心配をかけたくないし、デートの邪魔もしたくない。
音香は取り出したケータイをぼんやりと見つめ、ひとつため息をついて仕舞いかけたとき、突然バイブと共に鳴り響いた。
「?」
開いて画面を見ると、影待からの電話だった。 音香は深呼吸すると、受信ボタンを押した。
「もしもーし!」
わざと明るい声を出した。 向こうからは、いつものように無機質な声が聞こえてきた。
「今どこ?」
「家……ですけど?」
向こうでひとつ息をつくのが聞こえた。
「そんなに早く家に着くわけがないだろ? どこにいるの?」
音香は観念して、一言吐き捨てるように言った。
「公園!」
ほどなくして、遠くに影待が歩いてくるのが見えた。 セブンスヘブンから近い公園といえば、ここくらいしかないから、すぐに分かったのだろう。
しかし、ほのかに街灯に照らされながら歩いてくる影待は少し怖い。 もう季節は夏なのに、彼には季節など一切関係なく、チリチリで黒く肩下まである長い髪に細い身体には細身の黒っぽいジャケット。 コツコツと革靴の音。 俯いた顔に引っ掛けた眼鏡だけがたまに光を反射する。
知らない人が見たら、不審者だと思われても仕方ないだろう。 ホラー作品に出しても違和感がなさそうだ。
なんて考えているうちに影待は近づいてきて、ストンと音香の隣に座った。