裕里の暴走! なんとかしてくれ!
ブッ!
音香は思わず吹き出してしまった。 裕里は音香の吹き出したレモンティーの雫をゆっくりとテーブルをおしぼりで拭きながら、軽く微笑んだ。
「なんとなく、気付いてはいたけどね」
「何でよ? あたしはごめんだわ、あんな奴! きっと裕里の気のせいだよ。 共通の話題があたし位しか無いと思ってたんだって!」
「最初は私もそう思ってたんだけどね、どうも違うの。 何ていうか……話し方が変わるっていうか……表情もなんとなく優しくなるっていうかぁ……」
「ったく! 意味分かんないよ……」
そんなことを呟きつつ憮然としながら店員を呼んだ音香は、自分が散らかしたレモンティーでずぶぬれになった二人のおしぼりを替えてもらった。 そうして冷静を装ってはいたが、内心の音香は少し動揺していた。 発表会の時、出番前に控え室で見せた笑顔が再び思い返されたのだ。
『リハの通り、気楽になれば大丈夫!』
ニッと笑って自分と視線を合わせた時の影待を思い出すと、異常なほどの動悸が音香を襲った。 でもあれはきっと、ただ自分の生徒を心配しただけのことだろうし、そこに好意があったかどうかなど、知る由もなかった。 それにその後の冷たい態度に、全てが払拭されたのも事実だ。
「ありえないし……」
戸惑いを振り切るように独り言のように言うと、裕里はストローをくわえたまま上目遣いで言った。
「発表会の時のこと、覚えてる?」
音香は心を読まれたのかと驚き、はっと我に返った。
「う……うん、覚えてる……けど、何?」
「オッカの出番の前に、影待さんが控え室に入ったじゃん? あれ、オッカの時だけだったんだよ」
「え?」
あの時の音香は自分の事でいっぱいで、他の発表者の演奏などはほとんど上の空だった。 勿論、影待は音響スタッフをしていて音香から見えないカウンターの奥に居たし、わざわざ気にして見ることもなかった。 裕里以外は。
「私、影待さんばっかり見てたからさ、覚えてるんだ。 きっとオッカの事が心配だったんだね」
「ちょ、ちょっと待ってよ! ただの偶然かもしれないじゃん!」
「偶然? そうかもしれないね。 けど、結局私、ふられてしまいました。 それは現実よ」
裕里は微笑んだ。 それはさっきまでの切なく辛そうなものではなく、少し吹っ切れたように見えた。
「最初はオッカにむかついてさ、なんで影待さんの気持ちに気付かなかったんだろうって、自分にも腹が立って……しばらく頭の中がごちゃごちゃしてたの。 でもそのうちに落ち着いてきて、オッカは悪くないんだって。 仕方ないから、オッカの事応援する事にしたよ」
「応援しなくていいから!」
話は何だか違う方向に流れそうだったが、裕里が元気を取り戻してくれそうなのを感じた音香は、やっと胸をなでおろした。 途端に空腹に襲われた。
「なんかお腹空いてきたよ。 おごるからさ、何か食べようよ!」
その後、二人は大きなパフェをぱくつきながら、今後の恋愛人生などを語り合った。 そして帰る頃には、いつもの二人に戻っていた。
明るい裕里に戻ると毒舌も復活で、
「影待さんは、ホントにいい人なんだってば! オッカには勿体無いくらいなんだよ!」
と、逆に音香を押し捲った。 酔っているわけでもないのに、裕里は何だか熱を帯びた顔で必死に説得している。
「もう、そんな風に思ってないから!」
『先生』としては尊敬できる人だとは思うが、プライベートで言うならば、音香の中ではむしろ嫌いな存在なのだ。 あんなに暗く冷たい男は、今までの経験上出会った事の無いワースト人格だ。 裕里はかたくなに応援すると言うが、かなり迷惑な話だ。 音香は、とにかく裕里がへんに積極的にならないことを祈るばかりだった。
それからしばらく経って、音香は一人でセブンスヘブンへと飲みに出かけた。
女とはさばさばしたもので、一度心を切り替えると何事もなかったかのように振る舞える。 裕里もそんな類いだった。
気晴らしに行った合コンで見事に次の男をゲットしてきた。 そんな彼もまた眼鏡をかけていた。 裕里らしい生き方だ。 すっかり以前の彼女に戻っている。
一方音香はというと、発表会が終わった後から、どうも気乗りがしなくてセブンスヘブンに行けなかった。
あの時の演奏の感想を言われるのが怖かったのかもしれない。 そんな恐れもだいぶ落ち着いたので、行ってみることにした。 やはりマスターの顔を見ないことの方が、音香にとっては苦痛なのだった。