初ステージ! 音楽って音を楽しむって書くんだ♪
休憩時間はあっという間に終わった。 そして発表会は淡々と進み、発表者は残り一人となった。
大トリ、音香の番だ。
前の生徒が演奏している間に、そっと裕里に
「行ってくるね!」
とわざと明るく声を掛けると、彼女はその手を握って
「うん、頑張っておいで!」
と笑顔で送り出した。
チューニングを合わせるために、一人でギターを持って裏の控え室に入った途端、静かな空間に取り込まれるように、音香の緊張が一瞬でマックスになってしまった。 今までは隣に裕里がいてくれたこともあって意外に平常心でいられたのだが、控え室に入り一人になった途端、我に返ってしまったのだ。
『ステージにはあたし一人が立つんだ……失敗したらどうしよう……もう歌詞とかコードとか飛んじゃったよぉ……』
チューニングを合わせる指が震えていた。
その時、控え室に誰かが入ってきた気配がした。 振り向いた音香の目に映ったのは、影待だった。
「先生……」
「なんて顔してんだよ? さっきまで平気な顔してたのに。 もしかして、今になって緊張が始まった?」
無愛想な口調で言う影待に、音香は頬がひきつり泣きそうな顔で大きくうなずいた。 影待はそっと音香の前にしゃがんで、小さな子供にするように、目線を合わせた。
「城沢。 今、何考えてる?」
「間違えたらどうしよう……」
「城沢、音楽っていうのは、音を楽しむって書くんだ。 楽しめ。 音に乗れば、そのまま泳げばいい。 間違えたと思っても止まっちゃダメだぞ。 ただ楽しめばいいんだ。 そうすれば、客にも届くはずだから」
「楽しむ……」
音香はゆっくりと繰り返してみた。
「そう。 リハの通り、気楽にやれば大丈夫!」
影待はニッと笑った。
初めて見た影待の笑顔に、音香の胸がどくんと鳴った。 そしてソレは、音香の緊張を大きく取り去ってくれた。
音香は大きく深呼吸をして、ニッと笑って見せた。
「はい!」
「そうだ!」
影待は満足そうにうなずくと立ち上がり、ステージの様子を伺い見た。 前の発表者の曲が終わりに近づいているようだ。
音香は立ち上がり、また大きく深呼吸すると、控え室の出口へと向かった。
『楽しむ。 音を楽しむ。 あたしは音楽が好き。 楽しみたい……そう、今は自分が楽しもう。 何より、こんな機会はしょっちゅうあるものじゃない。 貴重なこの時間を、贅沢に使ってやろう』
影待の合図と共に、音香はステージへと歩を進めた。
足の感覚がほとんど無いままで、もはや前後不覚となっていた。 それでもなんとか平静を装いながらセンターマイクの前に立つと、意を決して顔を上げた。
スポットライトが眩しく当たり、自分の前に居るはずの客たちの姿がほとんど見えない。
『なぁんだ、ふふっ』
音香は心の中で少し笑うと、ギターを構えた。
ステージの始まりだ。
「皆さんこんにちは。 城沢音香と言います。 ギター教室でお世話になって一年になりました。 まだまだ下手くそですけど、今日は私の精一杯を贈ります。 よろしくお願いします」
深々とお辞儀をすると、たくさんの拍手が聞こえてきた。 確かに目の前に観客がいる。 だが今は不思議なほど気にならなかった。
音香はそっと最初のコードを押さえた。 小さくポーンと音がした。
「それでは聞いてください……」
最初の曲は明るめのものを選んだ。 そして、比較的年齢を問わず誰もが知っている曲。 この発表会に来てくれた人たちが少しでも楽しんでくれるように祈って。
そう思っていたはずだったが、もはや音香の耳には、自分の音と声しか入っていなかった。 そして影待の言葉が心の片隅で浮遊していた。
『音に乗れば、そのまま泳げばいい』
自分の世界が、音香の中に広がっていた。 今、会場の中は、自分の流す音が、声が全てだった。 それを自分も楽しんで聴くように、弾き語りを披露していた。
そんな流れの中で、突然違和感のある音が弾けた。
『あっ!』
間違えた!
音香の背中に冷たいものが伝い落ちた。 だがすぐに影待の言葉を思い出していた。
『間違えたと思っても止まっちゃダメだぞ。 ただ楽しめばいいんだ』
それは全く事務的な行為だった。
だがそれが音香にとってしなくてはならないことだったし、そうするしか無かったのだ。
音香はすました顔で、何事もなかったかのように最後まで歌い上げた。
ギターの音色が消えた瞬間、拍手が湧き上がるように音香の耳に入ってきた。
「ありがとうございました!」
と深々とお辞儀をし、トークもそこそこに二曲目へと流れた。
次の曲は、落ち着いた感じのバラードだ。
カラオケで歌っているときは簡単だと思っていたが、それに自分の伴奏が入るとなると話は別だ。 静かな曲だからこそ、音をしっかりと届けなくてはならない。
弦を一本ずつ弾くアルペジオ奏法は、何度も何度も練習した。 指が勝手に動くほど身に染み付いていた。 この曲に限って、ではあるが……。
気持ちは一曲目の勢いそのままに、一呼吸置いてしめやかに弾きはじめた。一音一音が店内のスピーカーから店内に響く。
『気持ちいい……』
歌いながら、音を楽しむということがどういうことなのか、なんとなく分かるような気がした。
ワァッと拍手に包まれながら、音香の発表は終わった。
持ち時間十分余りが、あっという間の出来事だった。
ひとつ息をついてステージを降りると、観客達の視線を受けてどこか地に着かない足を感じながら裕里のもとへ向かった。 ずっとライトを浴びていたので視界がぼんやりしてよく見えなかったが、迎えた彼女はうっすらと涙を浮かべているようだった。
「オッカ、素敵だったよぉ! 格好良かったぁ!」
半ば涙声で言う裕里と見詰め合った途端に音香の緊張の糸が緩み、微笑みと共に二人して涙ぐんだ。
「無事に終わってよかったぁ!」
再び司会者がステージに立ち、締めの言葉で発表会は円満に終了した。
発表会が済んでホッとした顔や、うまく出来なかった生徒は悔し顔など、色々な表情で感想を言い合いながら帰り支度をして次々と帰っていく。 音香も帰り支度をすると、裕里と一緒に音響の機材を片付けている影待のところへと向かった。
「先生、ありがとうございました」
ひとつお辞儀をすると、影待はちらりと音香に視線を送り、いつもの無表情で言った。
「間違えたろ?」
「あ、ばれました?」
後ろで隠れるようにしている裕里を気にしながらも、音香は舌を出してニッと笑った。
「間違えていいとは言ってないぞ。 まだまだだな」
冷たく言い放つと、片付けに視線を落とした。 横のマスターが慌ててフォローするように
「ま、その後にうまくごまかせたし。 よくやったと思いますよ」
と言ってくれたが、影待は
「今からごまかす癖をつけると良くない」
と、またまた冷たく言った。 音香は一瞬涙が出そうになったが、何故かすぐに苛立ちを感じた。
『上手くなりたい!』
自然にそんな気持ちが沸き上がってきていた。 影待をあっと言わせたい。
「よくやった!」
と誉められるように、もっともっと上手くなりたい!
音香はその場を愛想笑いでやり通し、影待を見つめ続ける裕里の腕を引っ張りながら、スタッフをしていた音楽教室の先生たちが片付けに追われる店内を出た。
扉を開けた途端、まだ冷たい、冬も終わりの風が顔を撫でた。
「だぁまされたぁぁ!」
帰っていく生徒達が音香に振り返った。
裕里はいきなり大声を出した音香に驚き、目を丸くした。
「ど、どうした?」
『先生のあの笑顔に、一瞬でも動揺した自分が恥ずかしい!』
音香はわざと大きなため息をつくと、裕里を見た。
「ね、パフェ食べに行こう! すんごい大きい奴! バケツみたいな奴!」
なんだか大量に甘いものが欲しくなった。 裕里はふっと微笑んだ。
「そだね、お疲れさまオッカ! 今日はおごるわ! 何でも好きなの食べな!」
「やった!」
音香は腕をぐーんと伸ばして、涼しい風を胸いっぱいに吸い込んだ。