はじまりはパラダイス
城沢音香は、陽もすっかり落ちて街灯が点々と灯る住宅街を意気揚々と歩いていた。
二十二歳の女性にとって暗い夜道は危険ゾーンだ。 音香自身も全然怖くないとは言えないが、心の中は昼間のように明るかった。
秋も深まる最近は涼しさもだいぶ厳しくなってきたが、お洒落だけは女のたしなみ……肌寒さを我慢して短めのワンピースにジャケットを羽織り、小さな肩掛けバッグを揺らし、ブーツの足音をコツコツさせながら人通りもまばらな細い裏道を通ると、窓のない小さな建物が住宅街の隅っこにポツンと建っている。
音香は木で出来た扉の上にある小さな外灯がひとつ点灯しているのを見ると、建物の横にある駐車場を覗いた。 三台ほど停められる広さの一番手前に、一台のジャガーが停まっている。 それを見てにんまりすると、再び扉の前に立った。
ひとつ大きく息を吸うと、うんっと気合いを入れるようにうなずき、扉のノブに手を掛けた。 手のひらいっぱいに収まりきれないほどの太い木の棒で出来ているノブをグッと引くと、扉は重く動き、
カランカランカラン……
という軽いベルの音。
音香が扉から手を放すと、それは静かに閉まった。
そして小さな飾り棚のある二畳ほどの小部屋を抜け、開け放たれたもうひとつの扉を通れば、そこは音香が大好きな空間。
「こんばんは、マスター!」
音香が元気な声を出して中を覗くと、カウンターの向こうに、白いシャツに黒いベストを着た長身の男性がニッコリと微笑んで立っていた。
『セブンスヘブン』
住宅街の中に隠れるようにひっそりと建っているバー。
薄暗い照明が、七人ほどの席があるカウンターと、後ろに二つある四人掛けの席を照らしている。 シンプルな装飾品が小気味よく置かれていて、いつもジャズが気にならない音量で流れている。
「いらっしゃい、オッカ。 もうそろそろ来る頃だと思ってましたよ」
落ち着いた低く優しい声が音香の耳をくすぐった。
音香は満面の笑みでカウンターの端っこの席にちょこんと座った。 少し高めに設定されているカウンターに合わせた椅子なので、普通の人でも座ると足が床に触れるか触れないか。 小柄な音香ならなおさらだ。 よじ登るように座ると、足はすっかり宇宙遊泳。
「今日は何にしますか?」
少し濃い顔に、少し緩めに固めた黒髪のオールバック。 口元にはきれいに揃えられた髭。 歳は三十二歳。 歳に似合わず落ち着き払った雰囲気は、来た客をとても和やかにさせる。
音香はいつもと同じように迎えてくれたマスターに満足感を覚えながら、彼の後ろの棚に視線をやった。
リキュール、ウォッカ、ウイスキー、日本酒など、酒のビンがずらりと並んだ棚は、一寸違わずきちんと整頓され、眺めているだけでも飽きないくらい見事だ。
セブンスヘブンにはメニューリストなどというものは無い。 マスターが客のリクエストを聞き、可能なかぎりその希望の酒を出す。 音香のようにあまり詳しくない客でも、だいたいの希望を言えば、マスターが自分で考えて出してくれる。 もう何十回も通っているが、いまだに『ハズレ』を出されたことはない。 だから音香は、心の底から気軽にお酒のリクエストをする。
整然と並ぶビンのラベルを見ながら、音香は今の気分を伝えた。
「そうねぇ……オレンジ系で、あまり甘くなくて、炭酸じゃないやつ!」
「アルコール度数は?」
「任せるわ」
マスターはニッコリとうなずいた。 そして腕組みをしてあごに片手を充てながら、後ろの棚を眺めた。
「じゃあ今日は~……」
少し考えて、手際よくビンを数本取った。 音香の前にラベルがよく見えるように並べ、カクテルグラスを置いた。 そして足元の冷蔵庫からオレンジジュースを出し、手際よく瓶のリキュールと共にシェーカーに入れて振りはじめた。 小さく流れるジャズの音楽に重なりながら、カラカラという小気味よい音が店内に響いた。 静かにグラスに流し込むと、カクテルグラスは透明なオレンジ色に染まった。
マスターは音香の前にコースターと共にグラスを置いた。
「お待たせいたしました」
音香はニッコリと微笑んで、
「いただきまぁす!」
とグラスに口を付けた。
心地よいオレンジの香りに、アルコールは強そうだが口当たりがよく飲みやすい。 今回も『当たり』だ。
「おいしい! これ、何ていう名前?」
音香の一言に、マスターは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。 これは、『パラダイス』というカクテルですよ。 少しアルコールは強いですが、飲みやすいのでオススメです」
「へえ~~。 ホント美味しい! で、今日はまだお客さんは来てないの?」
「ま、いつもこんな感じですけどね」
苦笑するマスター。 いつもの会話に、二人は笑いあった。
マスターはあれこれと聞く人ではないので、音香はいつものんびりとお酒をいただく。 時に愚痴を言うが、マスターは静かに聞いてくれる。 いつも変わらない優しい笑顔が、なぜか話を聞いてもらっただけなのに心を落ち着かせてくれる。 流れるジャズが心地よい。 本当なら開店から閉店まで居たいくらいだ。
セブンスヘブンは看板や宣伝を出さない店。
だから友人を通じて紹介される場合が多い。 音香も例に漏れず、仲の良い友達に教えてもらった。 何人かで通うようになって、次第に一人で訪れるようになった。 いつ来店してもほとんど客がいないので、静かにのんびり過ごしたい時には打ってつけの場所なのだ。 中には、先客がいると
「また来るよ」
と一度引き返す人もいるくらいだった。
音香の前の一杯目が無くなった頃、
カランカランカラン……
と扉のベルが鳴った。
「あら、珍しい」
「オッカ、やめてください」
マスターにたしなめられてペロッと舌を出した音香は、楽しそうに扉の方を見た。 まだ高校か大学生っぽい少年が一人、きょろきょろと中を見回しながら入ってきた。 お酒を呑む場所には不釣合いなお客だ。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声で迎え入れたマスターに気付くと、慌ててペコリと会釈をした。
「あの、昼に電話したマツモトですけど……」
どこか緊張した風に直立不動のマツモトくんに、マスターは優しく微笑んだ。
「ライブの予約ですね?」
「あ、は、はい!」
「わざわざ来てくださってありがとうございます。 じゃあ、コレにサインしてもらえますか?」
マスターは足元の棚から一冊の分厚いファイルを取り出して開いた。
そこには、利用者、連絡先、利用規約などが羅列してあり、最後に承認のサインを書く場所がある。 マツモトくんはそれに目を通し、必要事項を書き込んだ。
音香はできるだけ中身を見ないようにしながら、マツモトくんを観察した。 刈り上げた後頭部が若々しい。 長めの前髪が鼻先まで顔を隠しているが、なかなかのイケメンの様だ。
既に少し酔っ払っている音香は、ニヤニヤしながらマツモトくんの横顔を眺めた。 そんなことに気付くことなく、マツモトくんはペンと共に丁寧に書類を返すと、マスターの答えを待った。 マスターは書類に軽く目を通すとうなずいた。
「はい、確かに。 お代の方は、当日ね」
マツモトくんはさっきよりも丁寧にお辞儀をすると、
「はい、よろしくお願いします!」
と、元気よく挨拶した。 マスターは微笑んでうなずいた。 そしてマツモトくんは足早に店を出ていった。
カランカランカラン……
というベルの音が店内に響いた。
「部活か何かの帰りかな?」
音香が酒瓶の並んだ棚の一角に掛けてある壁時計を見ると、八時を回っている。 来店してからすでに三十分以上経っていた。
「バンドの練習とか、ね」
マスターの言葉を背中に、音香は後ろの方を見た。