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3.3

 わたしがコーヒーの最後の一滴を舌に乗せてからしばらく経って、とうとうカフェを出るときになっても、例のおばさん方はこちらを窺っているようだった。

「冴恵さん、あんなおばちゃん連中の暇つぶしなんて気にすることないわ」

「気にしてるのは裕子さんの方じゃない」

 彼女はまさに的確なことを言った。

 わたしよりもコーヒー一杯を有意義に活用している向こうの婦人方は、少ない情報からもことの筋書きを組み立ててしまうほど優れた構想力に秀でていて、彼女たちがその本領を発揮するのに話題渦めく街角ほど適した場所はなかった。

 わたしたちがカフェのとびらを閉める頃には、彼女たちは事情をすべて知ったかのように、ああだこうだとうわさ話を繰りひろげていた。

「ふん、犬も食わない夫婦げんかを盗み食うだなんて、あのおばさんたちのお里が知れるわ」

 じゃあ、好きこのんで食べているわたしはなんなのだろう。

 彼女はわたしの目顔を見て、どうしたの、という顔をした。

「それから、裕子さん。あの、ありがとね。お金、必ず返すから」

 ボストンバッグを駅のコインロッカーに置いてきた彼女は、財布まで一緒に入れてきてしまったのだ。

「いいわよ。気にしないで」

 ナンパされるのにいい場所知ってるのよ、と言った彼女に連れられて、わたしは一度も来たことのない土地に降り立っていた。

「その場所って、ここからどのくらいなの?」

「すぐよ、すぐ」

 ここはとても不思議なところで、自然が多くていいわね、と言った傍から真上に高速道路が架かる道に出て肩透かしを食わされたりした。

 やがてたどり着いたのは大きな自然公園で、いつの間にかアスファルトが土の道に変わっていた。

「こんな場所があったのね。ドラマ撮影にでも使われそうな感じ」

 雑踏を知らない桜並木は地平の果てまで続いている。

「でも、男の人がナンパしてくるのには似合わない場所ね」

「なに言ってるの。名所よ、名所」

 それは到底根拠のある言い分には聞こえなかった。

 並木道は行けども行けども土と桜に挟まれた世界で、人とすれ違うことも稀であった。

 日は高く上がり、傾き、ついにこの世界も橙色に染まり、それが濃くなった頃になってもわたしたちは二人きりで、いつか同じようにふたりでいた並木道の入り口に舞いもどっていた。

 いやらしく嫌味のひとつでも言おうかと一歩先行く彼女の背中にどんと向き合ったわたしより先に、彼女の方が口を開いた。

「どうして復讐することにしたのか訊かないわね」

 赤い木漏れ日を透明な体に受けた彼女はひょいと身を翻した。

「今までのことが積もり積もって、っていうわけじゃなかったの?」

 彼女はほほえんだまま眉を下げて首を横に振った。

 彼女がこんなことに踏み切ったのには、なにか決定的な理由があったんだ。

 わたしは木々の光に包まれた彼女に一歩近づいた。

「やっぱり、よっぽどのことがあったんだとしても、……結婚してるのに男の人に誘われるのを待つなんていけないわ」

 たぶん彼女は笑顔のまま身動ぎひとつしていなくて、それなのに夕日に焼かれた赤い空気にたゆたって見えたのは、強い光に目がくらんだせいだ。

「ね、まさか、もう離婚の手続きしちゃったとか?」

 彼女は満面にまとわる夕空の色を優しく振り落とすように再び首を左右に振った。

 もしかしてあのバッグのなかに離婚届が入ってるとか。それとももしかしたらまだ彼が印を押してないからって、家のテーブルに広げてきたとか。

 言葉の途切れたほんの僅かなあいだも逆光は目に痛く、段々と彼女が見えなくなっていった。

「離婚届はまだ用意してないわ」

 顔のない彼女はそう言った。

「おととい、仕事が終わったあと役所に行ったんだけどね、もう閉まっててもらえなかったの」

 彼女はわたしに歩み寄り、短いあいだ失っていた顔の形こそ取り戻したものの、合わせる顔はないという面持ちだった。

「ごめんなさい。本当は復讐なんて計画を立てていたことじゃなかったの」

 彼女は一昨日の夜から復讐のためにその身を削り続けていた。

「一昨日ね、仕事から帰ってきて決めたことだったの」

 彼女はわたしから目を離さずに真っ直ぐ言った。

「なにが原因だったのか、話してくれるの?」

 彼女は少しためらったようにして、それから少しずつ、ぽつりぽつりと口にしはじめた。

 ――最近あいつの仕事の時間帯が変わって顔を合わせることが少なくなったって言ったじゃない。――あいつの帰宅時間はわたしが熟睡している頃だし、わたしが家を出る時間にはあいつはまだ寝ているし。――ここしばらくは言葉を交わすことさえなかったの。ただのひとこともよ。夫婦なのに、それって尋常なことじゃないと思わない? ――それで、わたしが家に帰ってくる時間を見計らって電話をかけてきてくれたって話はしたでしょ。……わたし、あいつにね、ここのところ全然話をしてなかったね、って言ったの。

「そしたらね」

 彼女の頬は斑な彩色を施した自分の体よりも濃い紅色に染まった。

「あいつは、話をしてないって言ってもたったの一週間だろ、って言ったのよ」

「冴恵さんにとっては一週間も長かったのね」

「んーん、違うの」

 彼女は瞳の先をわたしの顔から首もと、つま先へと緩やかに落としていった。

「二週間だったの」

 そう言って息を吸い込み、ゆっくり吐き出した。

「あいつの声を聞かなくなって、あいつに声を聞かせなくなって、二週間経ってたのよ」

 さっきから彼女の黒目がちな眼は静かに揺らめいている。

「あいつにとって、一週間会わないも二週間会わないも同じってことじゃない。それなら一生会わなくたって一緒よっ」

 唇を噛んだ彼女が、それでも硬い土の上に雫を落とすことはなかった。

「裕子さんは、そんなのくだらないことって思う? そんなことで家出するなんてどうかしてると思う? それでもね。わたしは不安で不安でしょうがなかったの。あいつはわたしのことなんて、もうどうとも思ってないんだって。いつかわたしから離れていくんだって。そんなことを考えてしまうの」

「くだらない理由だなんて、思わないよ」

 触れれば砕けそうな彼女が怖くて、それ以上はどんな言葉もかけられない。

「五年間、わたしは必死にやったわ。でも、あいつは裏切るのよ。だから……」

 だから、復讐してやるんだ、と彼女は幾分か軟らかくなった地面に囁きかけた。

 冴恵さん。

 見つからない言葉に、わたしは名前を呼ぶこともできなくなっていった。

 それからしばらく彼女の肩を抱いて、一生懸命に胸の内側から彼女に語りかけたけど、彼女の袖の氷は溶けなかった。

 夕暮れの鋭い彩りに身体の感覚が麻痺してきて、彼女が泣いているのかどうか、わたしが今なにをしているのかもわからなくなっていった。

 冴恵さん。

 言葉はまだ見つからない。

 同じ体勢のまま人ひとりの体を支えるのは思いのほかつらくて、夕日の斜光が彼女と水平の位置にきたとき、とうとうわたしは彼女もろとも地面に崩れ落ちてしまった。

 少し強めに打ってしまった腰は痛いし、両手は土まみれだし、もうわたしまで泣きたくなってきた。

 両側から威圧する並木が憎かったし、沈みきらない夕日にも早く消えてほしかった。

 わたしが声を失ってからもうどれだけの時間が過ぎたか知れない。

 正面の眩しさは遠いところからわたしの視力と声を奪い続ける。 今はもうなにも見えないし話せない。

 ごめんなさい。せめてわたしはしっかりしなければならないのに。

 冴恵さん、ごめんなさい。

「冴恵」

 わたしは両手をついてまだ赤々としている世界を見上げる。

 彼女を呼んだのは、わたしでも、わたしの胸でもなくて、わたしはのろのろと起き上がり、その優しい声の夕影に一礼した。

「なんでこんなときに」

 彼女は座り込んだままぐちゃぐちゃの顔を上げて、彼女の旦那さんを見すえた。

「わざとでしょ。こんな惨めな姿になるのを見計らって声をかけてきたんでしょ」

 彼はわたしにハンカチを渡してひとことふたことお詫びとかお礼とかを言ったあと、しゃがんで彼女に手を差し伸べた。

「違うよ、冴恵」

 彼は、渋った彼女の手を掴み、肩にもう片腕を添えて彼女をそっと立たせた。

「なんでいるの。仕事があるんでしょっ」

「今日は休日だよ」

 彼は彼女の服に付いた土を手で払いのけた。

「わたしはもう家に帰らないのよ」

 わたしが返したハンカチを丁寧に畳んだ彼は、今度はそれで砂のついた彼女の手を指の一本ずつから拭いはじめた。

「そんなこと言ったら、この子が悲しがるよ」

 彼女は目色を変えて俯いていた顔を振りあげた。

「家に帰ったら冴恵はいないし、保育園からは何度も留守電が入っているしで驚いたよ」

 彼女は彼の手を振りほどき、彼のすぐ後ろでおじおじしている小さな子供を抱きしめて小さくなった。

「冴恵。この子も置いていくつもりだった?」

 彼女は無言のまま首を激しく横に振った。

 彼女はひとつのことに集中すると少し抜けたところが出てきてしまう。

「あなたが迎えに行ったの?」

「そうだよ」

「保育園の場所、どうしてわかったの?」

「入園を決めるときに一緒に見に行ったろ」

 彼女はそのまま動かなくなった。

「なによ。今ごろになってやっとわたしを見つけても遅いのよっ。どうしてわたしが家出したのかもわからないんでしょ」

 彼は前屈みになって後ろから彼女の頭に手を置いた。

「一日目はジュエリーショップにいたね」

 彼女の体はびくっとして、それからまた動かなくなった。

「捜しに来てたの?」

 彼は頷いたけど、彼女からはそれが見えなかった。

「そのときは、家のお金もなくなっていたことだし、なにか欲しい物があって家を出たんだと思ったんだ」

 彼はとても穏やかな表情をしていたけど、それを今見ることができたのはわたしだけだった。

「どうしてそのとき声をかけなかったのよ」

 彼は握りこぶしを口にやって、少し考えた素振りをしてからばつの悪い顔をした。

「ごめん。大きなバッグを持っていたから、もしかしたら誰か男のところに行くんじゃないかと思って、様子を見ていたんだ」

 彼はわたしの方を見て顔をほころばせた。

「でも、裕子さんの部屋に入っていくのを見て安心したよ。冴恵があなたを頼りにしていることは知っていたから。ひと晩だけ、冴恵をお願いしようと思ったんだ」

 深々と礼をした彼に、わたしはなんだかこっ恥ずかしくなった。

「さすがにずっとお世話になるのは申し訳ないと思って、朝になって迎えに行ったんだけど、ちょうど出掛けるところだったみたいでね、それで、まあ、階段の下で図らずもふたりの会話が聞こえてね。遊園地に行くってせっかく盛り上がっていたから、昨日も退散したんだ」

 わたしとしたことが、少し心が浮かれていただけなのに、彼が近くまできていたことに全然気がつかなかったなんて。

 でもそれは彼女も同じで、まさか順調にことが進んでいると思っていた水面下で、彼がこんなにも彼女の行動のひとつひとつを知っていたなんて思いもしなかっただろう。

「それでね、二日目は、ああそうか、きっと息抜きがしたかったんだとな、と思ったんだ」

「全然わかってないわよ」

 彼女はずっと変わらない姿勢のままで言った。

「そうだね。見当違いだった」

 しゃがむ彼女の正面に回り込んだ彼は、彼女と同じ恰好になって彼女と視線を合わせた。

「きみが出ていって三日目の今日になって、それは違うってわかったよ」

「なにがわかったっていうのよ」

 彼女は顔を逸らし、彼と自分とのあいだできょろきょろする愛し子をますます引き寄せて胸に埋めた。

「一日目にきみがいたのは結婚指輪をふたりで選んだお店で、二日目は初めてデートした場所だったね」

 彼女ははっと目を見ひらいて、再会して初めて彼を見つめた。

 遠い夕空の色を受けたせいで紅潮した彼女の頬に、それでも執拗に自分の色を押しつける夕日をわたしは穏やかに睨みつけた。

「それにね、冴恵。ここは」

「ここは、あなたとわたしが出会った場所よ」

 彼は笑って、知ってる、と言った。

「冴恵。ずっと、僕に見つけてほしかったんだってわかったんだ」

 彼は彼女をまるで水に浮かべるように柔らかく立ち上がらせた。

「不安にさせてしまっていたんだね。ごめん」

 唐突にわっと泣きだした彼女を彼は両腕で抱き込んだ。

 突風に鳴いた木々のさざめきとちらちら降る散光に、その出来事はまるで一瞬の無声映画みたいに切りとられた。

「あなたはもうわたしのことなんてどうでもよくなったんじゃないかって。あなたはわたしのことなんてひとつも見ていないんじゃないかって。自分勝手な考えで頭がいっぱいになっていたわ。この子を忘れてしまうだなんて、どうかしていたわ。あなたからすべてを奪い取っても、わたしのすべてをあなたのところに置き去りにしてきては意味がないものっ」

 わけもわからずふたりのあいだできょとんと上を見る子供は、目線の彼方にある空を仰いでいるように見える。

「こんなこと、最近なかったわ」

 彼女は彼の胸から顔を離して眩しい光に横顔をさらした。

「こんなのは時々だけでいいから。その代わり、お願い」

 彼女はなにかぼそぼそと言い、マスカラに落ちていた桜色はひとまわり体の大きな彼に再び遮られた。

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