1.2
今日もわたしはひとりきりで一日を終えようとしていた。
小さなわたしの住みかは、わたしの体、わたしの生活に完璧にフィットしている。窮屈のぎりぎり手前が堪らなく心地よくて、わたしは毎日必ずここから一日を始めて、必ずここで日を閉じた。
明日から二日間は仕事もお休みだし、テレビのバラエティー番組でも見ながら少し酔おうかとベッドに寄りかかってビールの缶を開けたところまでは日常だった。
週に一度なるかならないか、なったとしても招かざる怪しい勧誘員がわたしをそそのかしに来るだけの玄関のチャイムがこんな時間になったのは非日常で、動物的感覚が拒否反応を起こしたのは当然であった。
テレビの音がゆるやかに震わせていただけの部屋の静かな空気を上に押し上げて、わたしはもたもたと玄関へ歩く。
その過程で通る狭くて小暗い台所。そういえば、換気扇のフィルターはそろそろ換えどきかも知れない。それから、チャイムの音を小さく感じたのは勘違いではなくて、これも乾電池の交換が必要なのかも。
到達した灰色のキッチンの一番奥。ドアの覗き穴に目を当てて訪問者を確認する。身なり、持ちもの、そして判断の決定打となる人相の特徴から、その人が刊行物の見本を持ってきたわけでも、尊い教えを説きにきたわけでもないことを確認した。
「今開けるわ」
鍵ひとつで固定されただけの赤錆びたドアは、わたしの華奢な腕一本で悲鳴を上げて開く。
「こんな時間にどうしたの?」
「裕子さん」
開いた厚いドアの向こうにいたのは冴恵さんではなくて、薄暗がりを背負った影だった。
「急に、ごめんね」
いたずらした子供のような茶目っ気のある笑顔を見せたのは、やはり他の何者でもない、在りし日のままの冴恵さんだった。
彼女の手には大きなボストンバッグとぱんぱんに膨れたビニール袋の取っ手が深く食い込んでいる。そのさまはさながらヤジロベエかお相撲さんの土俵入りで、ユーモラスと威圧感を比類なきバランスで調和させていた。
「とりあえず上がってちょうだい」
わたしは手荷物の片一方を引き受けて彼女を部屋へと誘い入れた。
持ったビニール袋のなかは缶が押し合いへし合いの大混乱で、わたしが一歩進むごとにお互いがぶつかり合って柔らかい金属音のうめき声を漏らした。
気になるもう一方の荷物から察しようとするのなら、旦那さんとのケンカの末に家を飛び出してきたのだろう、と考えるのが筋だろうが、線の太い彼女に限ってそれは万にひとつだってないことだ。
「二日間だけ泊めて」
テレビのちらつく部屋に一歩足を踏み入れたところで、わたしは彼女の声に振り返った。
「わたしね、家を出てきたのよ。あさっての朝には出ていくから、それまでいさせて」
薄暗い台所でひとつ清かに浮かぶ彼女の表情は、輪郭も目や鼻の境も、くっきりと周りから縁取られて見える。
その彼女の口調はわたしの判断を待っていなかった。まるでもう約束していたみたいで、いいよ、と言ったことさえ不必要で余計なことだったように思えた。
「恩に着るわ」
明るい部屋に向き直ったわたしの後ろで、彼女は小さく言った。
目方だけでなく図体もなかなかのくせに、甘えて足にまとわりついてくる邪魔なビニール袋を低いテーブルによっこらしょと乗せて、彼女を部屋のなかに誘導した。
「冴恵さんがこの部屋に来るのって久しぶりね」
「だって狭いんだもの、ここ」
悪かったわね、と拗ねて、彼女から無理矢理引ったくったボストンバッグをベッドにもたせかけた。
「それでも、わたしひとりのときは狭くないんだけどな。誰かさんが容積を取るから狭くなるんじゃないかな」
彼女が最近気になってきたと言っていた頬の肉を人差し指でひと突きすると、彼女は素っ頓狂な顔の口元に手の平を添えて、この貴婦人を掴まえてなんてこと言うの、という感じに振る舞った。
「冴恵さんて演技がお上手ね」
「淑やかなのは素質よ」
彼女が、くるっと回って薄っぺらなスカートを両手でつまみ上げ、いかにもおとなしくお辞儀をしたものだから、いよいよ堪えきれなくなって大笑いした。
「飲んでわけがわかんなくなっちゃう前に、お布団を探しておくわ」
「お世話になります」
彼女の少し申し訳なさそうな笑顔に、にこっと笑顔で返事を返し、わたしはお客さん用の布団類を探しに小さなウォークインクローゼットに入った。
「裕子さんも飲もうとしてたところだったのね」
わたしがクローゼットから顔を出すと、彼女は置きっぱなしにされた缶ビールをひょいと持ち上げてその重さを確認した。
「冴恵さんったら、グッドタイミングだったわ。ひとりで飲むよりふたりの方が楽しいし、それにそんなに買ってきてくれるなんて」
宝石や骨董の目利きじゃなくても、あの黄金色の静水が詰まった銀の杯の価値は二十歳を過ぎた辺りで誰もが知るところとなる。
彼女は本当の宝石かなにかを扱うように、もしくは番町皿屋敷のように、ひとつ、ふたつ、と買ってきたお酒をテーブルの上に丁寧に並べはじめた。
わたしはまたクローゼットのなかに舞いもどる。
正面の床にはなにかの拍子に買って以来、箱に入れたままでそこに置きっぱなしにしてある魚焼きグリル。その上にはなにかに使えると思って取っておいたダンボールと紙袋の山。横の棚に散らかる各種資格試験の参考書、英会話の教材、ピアノの楽譜。そして最深部に眠る来客用の寝具一式。
そこには堆く積まれたがらくたと無数に横たわる夢があった。
「お布団あったわ」
再びクローゼットから顔を出したとき、テーブルの上はビールにチューハイに安物の小さいワインが飾る鮮やかな宝石箱みたいになっていた。
「すごい量でしょ」彼女は笑い顔で言った。彼女が持ってきた、『ちょっとほろ酔い』は期待できない量のアルコール群から予想するに、春の陽気も重なって、朝には布団を敷くこともなくこのままふたりしてごろ寝していることだろう。
「とってもふたりで飲みきれる量じゃないわね」
テーブルを挟んでテレビに向かい合う恰好でわたしもカーペットの上に腰を下ろす。
「わたしと裕子さんが力を合わせれば、やってやれないこともないわ」
ほおと息をついて、彼女が差し出した缶を掴んだ。
「裕子さん、まずは乾杯ね」
わたしの缶と彼女の持つ缶はぶつかって小さい音を立てた。
彼女がぐっと飲むのを見てから、わたしは小さくひと口だけ口に含んだ。彼女の表情はそれは晴れ晴れとしていて、なにかに心を煩わせている翳なんて少しも見あたらなかった。
それにしても彼女の飲みっぷりと言ったら、これからの何時間かでこれらを親のかたきのように片っ端から片付ける姿が容易に想像できてしまう。
「わたしね」
彼女は最初の長いひと口をやっと終えて口を開いた。
「わたし、あの男が憎くなったの」
親のかたきはお酒ではなく『あの男』らしく、その人物こそがことのカギを握っているのは明白だ。彼女がここに来ることになった理由に深く関与していることはまず間違いない。
「旦那さんのこと?」
まさか三歳になる一人息子ということはあるまい。
「最悪な男よ」
「とてもいい人そうだったじゃないの」
いい人が過ぎて、濡れ衣でかたきになりそうな気配はあるが、それではあまりに彼が気の毒で、わたしは自然と旦那さんの擁護派に回った。
「冴恵さん、早まった決断をしてはダメだわ」
「裕子さんは本当のあいつを知らないのよ。わたしは五年間一緒にいて、ついに最近本性を暴いてやったの」
そう言ったあと、彼女は千の言葉で夫を罵り、千の言葉で自分の不幸を哀れんだ。冗談っぽく大袈裟なモノローグからは、本気で彼を憎んでいるのか、彼女の本心を汲みとることはできなかった。
部屋にとうとうと流れでる彼女の哀話は右へ左へと徘徊し、そのワンセンテンスごとに打つわたしの相づちは完璧なものだった。餅つきで言うなら熟練の返し手で、わたしはつき手のすべてを理解していた。振りおろす杵のタイミング、力加減、技量、情熱、手のまめの数、体力、努力、持久力、居住地、勤務地、夫の名前、小さい頃の夢、心理、感情、少ししゃべり疲れた表情。
わたしが三本目の缶チューハイを開けたとき、彼女はすでにその倍の量を飲み干していた。
「復讐してやることにしたのよ。この五年間を無駄にしてくれたあいつに」
「復讐だなんて穏やかじゃないわね」
とんでもないことをするのではないかと心配するわたしをよそに、満面に笑みを浮かべた彼女はわたしの両肩に手を置いた。
「あいつからすべてを奪い取ってやるのよ」
「すべてを奪い取る……」
彼女のただならない言葉にわたしは度肝を抜かれた。
「ただの家出じゃなかったの?」
彼女は黙って首を横に振り、ついにその過激な復讐の全貌を明らかにした。
彼女は、三日かけて彼のすべてを奪い取る。
手はじめに彼女はここに来る前に彼の全財産を奪い取ってきた。
現金も通帳も印鑑も、洋服ダンスと壁の隙間に転がっていた硬貨も全部持ってきたのよ、と言って彼女はかんらかんらと笑った。
わたしはおしゃべりなテレビの音量を下げて彼女に正対した。
計画は何週間も前から綿密に練られてきたものだったというが、彼女がそんなことを計画していたなんてずっと気づけずにいた。
今日だって計画実行の当日であるにも関わらず、会社のエントランスで顔を合わせたときから、定時にさよならを言うときまで、平静を装う彼女の心服を見抜けなかった。
「もしわたしがここに泊めるのを断ったら、せっかくそれだけの時間をかけて考え上げた計画が台なしになったのに、どうして前もって言ってくれなかったの」
そう言ったわたしに彼女は、「とにかく実行に移すまでは、普段の生活を変えないの。そうして誰にも悟られないようにするのよ」と密計のプロみたいな口調で切りかえした。わざと大仰に語る彼女は本物の演者みたいで、それにはいつも笑わされる。
「今思うと結婚する前から気に食わないことだらけだったわ。言うのよ、文句を。冴恵は少し男っぽいとか、なにをするにも雑なところがあるとか、日記は三日坊主だとか……」
彼女は熱いこぶしを握りしめた。
「でもそれって女には必要な愛嬌ってものじゃない? ちょっと大雑把なくらいの方が家庭のなかはぎすぎすしないし、三日坊主だってご愛敬よ」
わたしは、うん、うん、と完璧な相づちを打ちながら、話の行く先を本線へと導く。彼女はそれに合わせて事実をひとつひとつ明かしていく。
「それで、今日ここに来る前のことよ」
仕事を終えて家に帰った彼女は、夕まぐれの日が鮮明な浅紅を映す部屋で一本の電話を受け取った。
「それがあいつとの最後の会話になったわ」
「旦那さんからの電話だったのね」
旦那さんと会話をして、復讐なんてこと思いとどまりはしなかったのだろうか。
わたしは四本目の缶チューハイに手をのばす。
「ここ数か月ばかりあいつの仕事の時間帯が変わって、会わない時間が多くなったから、形ばっかの気遣いで電話かけてきたのよ」
彼女は興奮気味に声を震わせた。
「あいつが帰ってくる時間にはわたしはとっくに寝ているし、わたしが出る時間にはあいつはまだ寝ているしって感じで、会話を交わすのもしばらくなかったのよ。……まあ、そんなの別に気にしてなかったんだけどね」
どうでもいい会話をひとしきりしたあと、電話を切った彼女は、すぐに計画を実行に移したのだった。
「これ、見て」
彼女が差し出した指は、鮮やかな藍色の宝石が埋め込まれた、小いお花みたいな指輪が飾られていた。
「かわいいわ。家から持ってきたお金で買ったのね」
彼女がかっこつけて天井の照明にかざしたその指輪は、かつて結婚指輪がはめられていた指にはめられていた。
「お店ではね、あのでっかいバッグと、きっちりスーパーのロゴが入ったビニール袋を抱えて選んだのよ。なかなか斬新でしょ」
宝石店と、玄関に現れたときの彼女の姿を重ねあわせてみた。
「せめてスーパーに寄る前に行った方がよかったんじゃないの」
「なに言ってるの。そうしてれば、店員が荷物持ちを買って出るじゃない。軽い女王様気分を味わえてよかったわ」
彼女には少し嗜虐的傾向がある。華奢な男性店員がひぃひぃ言ってるのを裕子さんにも見せたかったわ、と思い出し笑いする彼女に理性を取り戻してもらおうと、わたしはその赤くなったほっぺたを挟み込むように優しく叩いた。
「大丈夫、大丈夫。まだ普段と変わりないわ」
本当に普段からこんなんでは、逃げ出してきたのは旦那さんの方だったろう。
「でも、ちょっと暑くなってきたわね。着替えたいからバッグ取ってちょうだい」
彼女はアルコールを摂っても顔に出にくいタイプなのに、今さっき触れた頬はぽかぽかしていて、外の桜みたいな春らしい色に染まっていた。
「はい。すごい膨れてるわね」
わたしが手を伸ばして取ったボストンバッグは物がぎゅうぎゅうに詰まっていて、それを体で受け取った彼女は座ったまま体勢を崩し、そのまま後ろに寝転がって天井を仰いだ。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
覗き込んだ彼女の眼は夢を見ていた。
「ちょっとだけ、飲み過ぎたかも」
彼女はふらふらと立ち上がって半袖のシャツに着替え、仙人のような目つきのままでまた座り込んだ。
「外の風にあたろうか?」
彼女は無言で頷いた。
わたしは彼女に肩を貸してそろそろと玄関まで連れて行き、か弱くたたずむドアを腕一本で押し開けた。
「階段を下りるわよ」
一段一段、足を踏み外さないように狭い階段を下りる。窮屈なアパートの駐車所を素通りして、これもまた狭い路地に出る。足下がおぼつかない彼女をそこの縁石に座らせ、わたしもその横に腰を下ろす。
今日は少し肌寒いくらいで、時折吹く風は懐かしい冬を覚えていた。隣に座る彼女は時々体を震わせながらも、点々と灯る外灯の数を熱心に数えている。
「寒くない?」
林立する安アパートと一戸建ての群れの隙間を縫ってそよ吹きこむ風に、彼女の額にかかる髪がまたなにかささめく。
「うん、大丈夫。気持ちいいくらいよ。裕子さんは寒くないの?」
彼女は深呼吸して、桜の花びらが浮かんだ大気の美酒を酔い醒ましにひと呑みした。
「わたしも大丈夫」
そう言って、静かな彼女の前髪にまた耳を澄ます。
今夜は昨日までより少し風が冷たかった。
それでも、それなりに着込んでいた暖かさが心地よくて、圧倒的な夜の闇に何度か吸い込まれそうになった。
「いつか話したかな」
彼女はおもむろに口を開いて、うつらうつらしていたわたしを呼び覚ました。
「あいつとはね、学生時代につき合いだしたの」
わたしは若い頃の彼女を想像した。
「うん、そうだったね。聞いた覚えがあるわ」
彼女はこくりと頷く。
「だからね、結婚する前も合わせたら、あいつとの付き合いはもう十年にもなるわ」
「うん」
「それだけの時間があったら、冷めてしまうのって仕方のないことだと思う?」
「えっ」
彼女の目を見つめて、今の言葉を何通りにも解釈し、そしていくつかの有力な候補を心のうちに並べた。
「それって、まさか、旦那さんが……浮気したってこと?」
彼女は首を左右に振った。
「それじゃあ、あの、冴恵さんに、――好きな人ができたとか」
わたしは自分の足下に視線を移して問いかけた。
「んーん。そんなわけないじゃないの」
「うん、ごめん。そうよね」
彼女がなにを思っていて、なにを言いたかったのかがわたしには全然わからなかった。
わたしは視線をあちこちへ向けた。彼女の座る左側の道はすぐにふたまたに分かれている。そこに外灯が一本。そして右の道の果ては真っ暗な闇に覆われていて、その前に並ぶいくつかの外灯の明かりさえも先には届かない。そういえば、目前の道の向こう側にも外灯がひとつ。その足下で風に巻き上げられる塵はまるで楽しく踊っているように見えて、それからはしばらくは黙ってそれを観覧していた。
「ねぇ裕子さん」
わたしは久しぶりに彼女の顔を見る。
「ここってS席よね」
彼女も同じことを考えていたのがおかしくて、思わず顔がほころんだ。
「もうだいぶ楽になったみたいね」
彼女はこちらを向いて首を縦に振った。
「アパートの裏手に小さな公園があるじゃない。今あそこの桜が満開なんだけど、今から見に行かない?」
わたしは羽織っていたカーディガンを彼女にかけながら訊いた。
「ありがと。あったかいわ」
彼女はまとったカーディガンの襟を握りしめながら、「夜桜見物なんて風情があっていいわね」と立ち上がった。
「こっちが近道よ」
わたしも立ち上がり、彼女の手を引いて水路の通るアパート脇の道とも言えない道に入った。
「小学生なんかが好んで使いそうなすごい道ね」
「でしょ」
アパートと隣の敷地とのぎりぎりの境界線を綱渡りするみたいに危なっかしく渡る。ブロック塀の狭い隙間すり抜け、突然開けたそこでは、ジャングルジムやブランコ、それからさっきまで隠されていた空と、そこに懸かる淡紅色の春の雲が静かな夜の明かりに照らされていた。
彼女は塀に擦ってしまったわたしのカーディガンの汚れを懸命に払ってくれている。わたしはといえば、そこにあるすべてを手に入れたような独占感に心を支配されてしまい、公園の中心まで走って両腕を思いきり上に伸ばした。
「裕子さんの部屋から見えるのとは景色が違うのね」
後ろからゆっくり歩いてきた彼女を見て、わたしの方が酔っぱらってはしゃいでしまったみたいで恥ずかしくなった。
「うん。違うね」
わたしは照れを胸に押し隠し、澄まして公園の周りに植えられた数本の八重桜を眺めた。
「ねぇ、冴恵さんもここって隠れた名所だと思わない?」
「うーん、そうねぇ」
目を細めたり開いたりして、公園を見渡した。
「地味だけど、まぁ全体のバランスは取れてて、そこそこいいって感じかな」
今度はプロの写真家になった彼女。一本の桜に的を絞った先生は両手の親指と人差し指で長方形のフレームを作り、わたしはそのなかに飛びこんでポーズを取った。
「よし、わたし決めたわ」
彼女は夜空を仰いで、自身の手で切りとった小宇宙に焦点を合わせた。
「あの月に誓ってこの計画は成功させてみせる」
彼女は直径一・五センチメートルの小さな春月に誓いを立てて、ひらりと身を返した。
「粋なことするじゃない。今の姿も絵になるわ」
今度はわたしの作ったフレームのなかで、彼女は笑ってくるりと回った。
空を仰ぎ見ると、吹いた風に花びらが舞い上がっていて、見分けのつかなくなった星の光と桜の花びらがわたしたちに向かってちらちらと降ってくる。
「本当にカメラでも持ってくればよかったね」
わたしは賛同を求めて言ったつもりだったけど、彼女はそっぽを向いて突っ立ったままなにも言わなかった。
風がやんでしまうと、さっきまで木の枝や千草がざわざわ言っていた公園からはなにもかもがなくって、童話かおとぎ話に登場する音のないおぼろ月夜が目の前に現れた。
彼女の姿は、そのお話のなかか、それかただの真っ暗闇に溶けこんで消えていってしまいそうで、かすんだ月よりもぼんやりして見えた。
「冴恵さん」
彼女はこちらを振り向いたけど口はつぐんだままで、眼がなにかを話しかけてきた。
おぼろ月夜の公園に、彼女とわたしと、色を散らす木々だけ。
押し黙る彼女とどれくらいのあいだこのままでいるのか不安になったが、彼女は深い瞬きのあと、視線を逸らしてゆっくりと公園の奥へと歩いていった。
わたしは少し公園のなかをぶらぶらと歩いてから、彼女の座るブランコ横の低いベンチに腰を下ろした。
「今ごろあいつはなにしてるんだろう」
彼女はブランコをきぃきぃ鳴らしながら、んーん、きっとぐうすか寝てるんだわ、と俯いた。
今の彼女は、わたしの知る限りでは最高に感傷的になっているように見える。
わたしが上に懸かる桜の花を見上げ、また前に向き直ったとき、彼女はわたしと同じように上を見上げていた。
頭上に咲く淡い色の徒雲が風に吹かれて破片を辺りに散らすのを見て、彼女は、玉響の命なのね、と言った。