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灼熱の氷  作者:
9/27

07

教会内の粛々とした雰囲気は高い天井いっぱいに響くパイプオルガンの音で破られた。

雰囲気に圧され知らず知らずのうちに息を詰めていたエミリアは、深く息を吸おうとしたがあまり上手くいかなかった。

――遂にこの日が来てしまったのだ。

祭壇へと続く深紅の絨毯の先には数段の階段があり、マグナスがエミリアの方をじっと見つめている。両側の席にはマグナスが招待した客と、メリッサやレティシア、それに馴染みの使用人たちの顔があった。

緊張でブーケを持つ手に力がこもってしまったが、招待客は全員祭壇の方を向いていたので誰にもそのことを知られる心配はなかった。

彼らの目にはエミリアは世界で一番幸せな花嫁に映っていることだろう。家庭教師をしていた孤児が一夜にして名門の伯爵夫人になる。

こんなことは長い英国の歴史を振り返ってもそうそうない。張本人であるエミリアでさえ、こうして花嫁衣装に身を包んだ今でも小説の中へ飛び込んだような気がしてならなかった。

内輪だけの式だからよかったものの、マグナスの友人たちを呼んでいたらエミリアに向けられる視線はもっと冷たかったはずだ。人々が降って湧いたようなロマンスを持て囃すのは一時のことで、その後は嫉妬と侮蔑に塗り替えられていくと決まっている。


一歩、また一歩とマグナスの元へ進める足は鉛のように重たい。

花嫁を新郎に引き渡す役目を買って出てくれたミスター・コリンズは、ひげをたくわえた口元を始終嬉しそうに緩ませていた。

自分には娘がいなかったから今回のことはとても嬉しいと笑っていた彼に、エミリアは今は亡き父を思った。恰幅のいいミスター・コリンズとは違って父は細身ではあったが、同じように朗らかに笑う人だった。

そうして彼の手を取った時は幸せを感じることが出来たが、いざ教会に入ってみるとその幸せは一瞬で吹き飛んでいった。

マグナスはすっと背を伸ばしてエミリアを待っていた。だがそれは愛しい人との結婚を今か今かと待ちわびている姿ではない。

一刻も早く結婚式を終わらせて、馬車を飛ばしラザフォードへ帰る強い意志を持った姿だ。

オルガン奏者の演奏は完璧で、エミリアが祭壇に到着したと同時に緩やかに流れていた音楽は僅かな余韻を残してゆっくりと止まった。

マグナスは花嫁が自分の目の前に着くと同時に目で前を向くよう指示しただけで、エミリアの手すら取ろうとはしなかった。

悲しくなっている場合ではない。今日は幸せな花嫁を演じきるのよ。薄いベールで仕切られた視界は思った以上に沢山のことを隠してくれた。

エミリアの顔に過る様々な感情――緊張や悲しみ、それから絶望はベール一枚でないも同然となる。


「汝、マグナス・グランヴェルはエミリア・アンダーソンを妻とし……」


牧師のゆったりとした口調は心地よかったが、エミリアの緊張はますます高まるばかりだった。隣で夫となる伯爵が誓いの言葉を述べれば、次はエミリアの番だ。

誓います。ただ一言それだけを言えばいい。

だけどそのたった数文字の単語の羅列に、エミリアはどうしようもなく怯えていた。


「誓います」


マグナスの低く、響く声が誓いの言葉を口にする。

牧師が軽く頷きエミリアの方に慈愛に満ちた顔を向けた。


「汝、エミリア・アンダーソンはマグナス・グランヴェルを夫とし……」

「誓います」


間を開けずに言ってしまった所為か、牧師の表情が少し歪んだ。エミリアは気まずさにおもわず俯き、自分の失敗について深く反省した。


「この誓いをもって2人を夫婦とします」


気を取り直すように先ほどよりも幾分張った声で牧師は言い、それに続いてマグナスの手が軽くエミリアの手を持ち手袋を脱がせた。

彼の手にはダイアモンドが輝く指輪があり、これが嵌められて誓いの口付けをすれば2人は神の元に定められた夫婦となる。マグナスが2つの指で指輪を持ち、エミリアの薬指に近づくのを彼女はぼんやりと見つめていた。

嵌めた指輪はとても冷たく、ダイアモンドはずっしりと重かった。

やがてマグナスが視界を覆っていたベールをゆっくりと上げ、エミリアは今日初めて夫となる人物をじっくりと見ることができた。いつもよりも丁寧に撫でつけられた黒髪はひと房だけ額に落ちている。グレーの瞳は同じようにじっと、エミリアを見つめていた。


マグナスは妻となる人物の薄茶色の瞳が僅かに揺れるのを見逃さなかった。涙こそ零れてはいなかったものの、少しでも気を緩めれば途端に彼女は泣きだしてしまうだろうという確信があった。

これが彼女にとっても幸せな結婚ではないことは十二分に分かっている。だが今更どうしろというのだろうか。

彼が贈った真珠のネックレスとイヤリングは思った以上にエミリアに似合っていたし、純白のドレスはほっそりとした体を包んでいて、正直に言うと眩しいほどであった。

しかし当の花嫁は――本来なら幸せいっぱいの顔をしていてもおかしくない花嫁は、きつく口を結んで何かに耐えるかのように俯いている。

少しぐらいまともな演技は出来ないのか。マグナスは心の中で毒づいた。少なくとも彼自身は完璧に花婿を演じているつもりであった。

教会に入ってから一度もマグナスの顔を見ないことも大きな不満であった。いっそのこと華奢な体を引き寄せて大声で自分を見ろと叫んでやりたい衝動を押さえながら、嫌味なほどゆったりとした口調の牧師の後に続く。

自分の番が終わり花嫁も同じように誓いの言葉を繰り返し、用意していた指輪を彼女の指に指輪を嵌め、誓いの口付けをする。一度経験したことはしっかりと頭の中に刻みつけられていた。

また同じことを繰り返せばいい。しかしマグナスは前妻との結婚式ではしなかった行動に出てしまった。

エミリアの、自分より一回りも小さな手を軽く包んだのだ。自分自身の行動に驚きながらも彼は花嫁に触れる程度のキスをした。


――死が2人を別つまで。

エミリアは目を閉じて先ほどの誓いの言葉を思い出した。死が訪れるその瞬間まで、私は辛い結婚生活に耐えなくてはいけないのだわ。


一瞬だけ触れた体温はすぐに冷たくなっていた。








*







「ここから私の邸までは2日はかかるだろう」


揺れる馬車の中で隣に座った伯爵は幾分か声を張り上げてそう言った。

結婚式が終わるや否や今日は泊って明日の朝出発すればいいと言うメリッサの言葉を振り切り、マグナスとエミリアは4馬だての立派な馬車へ乗りこんだ。

仲が良かった使用人やレティシアへの別れの挨拶もそこそこに出てきたエミリアは、後ろの馬車に少ない荷物を詰め込んでマグナスの隣に座り、失礼だとは思いながらも周りに目を走らせていた。

生まれて初めてこんな立派な馬車に乗ったのだが、何時間も座っている所為かお尻は少しずつ痛くなってくるし、無言の道中は決して快適とは言い難かった。

マグナスはこういった旅には慣れているのか、それともただ単にエミリアと何も話すことがないのか、馬車に乗ってから口を開いたのは今の一度だけであった。


「2日も?」


エミリアの問いにマグナスは頷く。


「ああ。もう少し走ったら街に着く。そうしたらそこで宿を取ろう」


軽く馬車が揺れた。エミリアは天井から垂れさがっている吊革にしっかりと手首を絡ませ、マグナスに頷いた。

馬車の技術が数世紀前と比べて格段に良くなったことと、英国の道路が世界一舗装されていることからそれ程の揺れは感じなかったが、なにぶん馬車で移動することが殆どなかったエミリアは少しの振動にもいちいち敏感にならざるを得なかった。

ベッドフォードシャーを出たのは夕方近かった為、外は既に暗く目を凝らしても窓の向こうは果てのない闇であった。月すらも見えない所為かエミリアは不安げに体を震わせる。

結婚式の間は何とか持った天気だったが、あと数時間もすれば重く張り巡らされた雲からは雨が無数に落ちてくるだろう。御者もそれが分かっているのか、主人たちに快適な旅をさせるよりは出来る限りスピードを出して宿に着く方を優先したらしい。


エミリアは不安だった。これから先、一体何が起こるのか全く予想がつかない。

今まで旅と言ったらベッドフォードシャーの屋敷までの短いものであったし、どこかに泊って別の土地へ行くということがなかった。宿というものの定義もよく分かってはいなかった。

大きさはどれくらいあるのだろう。旅人たちと同じ部屋で眠るのかしら。それとも別々の部屋になっているの?食べ物はどんなものがでるのだろう。エミリアの疑問は尽きなかった。

そしてメリッサが出発前に言った不可解な言葉の意味――確か怖がらずに、全て旦那様に任せなさいと言っていた――もエミリアを落ち着かない気持ちにさせたことの一つであった。

実際のところ、エミリアが夫婦というものについて持っている知識は驚くほど少なかった。本来教えられるべき母も既におらず、メリッサのくれた言葉だけが彼女がすべきことを示していた。

全てを任せればいい。学校に行っているとき、同じクラスの少しませた女の子たちがときどきそういった話に花を咲かせていたのは知っていた。エミリアは恥ずかしさが先立って話には交ざらなかったが、アネットという子がそんなことを言っていたような気もする。

結局のところ妻は夫の所有物同然なのだから従っていれば間違いはないだろう。

窓ガラスに指を這わせると外気との気温差でそこはしっとりと濡れていて、指の跡には僅かな水滴が流れる。恐る恐る隣へと視線を向ければ、伯爵は先ほどのエミリアと同じように窓の外に広がる暗闇を見ていた。


「なにか私の顔に付いているのか?」


ふいにそう言われ、エミリアは慌てて言葉を探した。伯爵の瞳は未だ自分には向けられていないのに、どうして私が見ていると分かったのだろう。


「いえ、その、ご子息のことを少し伺いたいと思いまして」


咄嗟に出た言葉ではあったが、マグナスとの結婚が決まってからエミリアがずっと聞いてみたかったことだ。伯爵の一人息子のことは誰も教えてはくれなかった。

メイドたちの噂に上るのはいつも伯爵のことばかりだったし、誰かに聞くことも憚れた。

マグナスが結婚することを決めたのはその息子に母親を持たせたいからだ。自分がその役目を担うのなら、伯爵本人から聞きたいとも思った。


「息子のこと?」

「ええ。なんでも構いません。教えてください」


エミリアの方を向いたマグナスは不機嫌そうであったが、しぶしぶという感じで口を開いた。


「名はダニエルといい、今年で3つになる。髪の色は君と同じ金髪で、瞳は……グレーに近いブルーだ」


瞳のところで一瞬言葉に詰まった彼であったが、伯爵は息子のことをそう表現した。しかしエミリアが聞きたいのはそんなことでなかった。

外見などは一目見たらすぐに分かる。大切なことは彼が何に興味を持って、何が好きで、どんなことに喜びを感じるのかだ。

マグナスとの結婚はきっと冷めたものになるだろうとエミリアは知っていた。愛のない結婚の結末はいつだって寂しくて悲しいものだ。しかしエミリアの結婚生活にはダニエルという特別な存在がある。

子供は大好きだし、男の子と女の子の違いこそあれどレティシアと過ごしてきた中で子供への接し方はある程度心得ているつもりだった。

出来るだけ早くダニエルと仲良くし、親子の絆を深めたい。最初はダニエルもエミリアを母として受け入れることに抵抗があるだろう。子供というのは環境の変化にとても過敏だからだ。

だからこそ彼のことをよく知っておきたかった。

しかし、エミリアの期待とは裏腹に伯爵はそれっきり口を閉じてしまった。


「あの、伯爵様?」

「私は君の夫になった。マグナスと呼びなさい」

「はい。ではマグナス…ダニエルのことについてもっと知りたいのです。彼はどんなものが好きなのでしょう」


こちらを向いたマグナスの表情は何とも言えない奇妙なものだった。マグナスはまじまじとエミリアを見ると吐き捨てるように「今私が言ったことが全部だ」と答えた。


「え?」

「だから全部だと言った。ダニエルが何を好きかなど私の知るところではない。屋敷に着いたら乳母にでも聞くといい」


再びマグナスが窓の外に視線を向け、本格的に会話は終了となった。

自分の息子のことも満足に知らない父親がいることにエミリアは愕然とした。彼は…息子のことを愛していないの?

広い屋敷の中で使用人たちに囲まれ、ぽつんと一人で立ち尽くすダニエルの姿が目に浮かぶようだ。まだ3つなのに、心を許す人物もいなければどんなに心細いであろう。

エミリアは椅子の背もたれに背中をつけて溜め息をついた。


外は雨がぱらつき始めていた。

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