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灼熱の氷  作者:
8/27

06

マグナスが宣言した"一か月後の式"は、思ったよりも早くやってきた。気付けば結婚式は明後日に迫っている。

初めの一週間こそは満足に睡眠もとれないほどであったが、日を重ねるだけエミリアの心にも僅かながら余裕が生まれていた。

状況はエミリアが覚悟していたほど悪くはなかったのが一番の理由だろう。

メイドたちはエミリアが考えていたよりずっと寛大で、二言三言冗談交じりに嫌味を言われた以外はいつも通りに接してくれている。仲の良かったリーザはマグナスが領地に帰った翌日、エミリアの顔を見るなり大声で歓声を上げ抱きついてきた。

彼女は「あなたなら何かやってくれると思っていたのよ!素敵だわ!」とまるで自分のことのように喜んで、エミリアの為にハンカチを何枚か縫ってくれたし、メイド頭のアンナは一昨日の夜さりげなくレースで編んだ結婚式用の手袋を渡してくれた。

なによりエミリアを安心させたのはこの家の主人2人のことだ。メリッサは相変わらずエミリアに腹を立てているが、それでも前ほどではなく、つい先日朝食を一緒に取らないかと言われた時は泣きそうな程嬉しかった。

レティシアが大人たちのように貴族の世界にまだ疎かったのは幸いした。彼女は尊敬する兄と大好きな家庭教師の結婚に大喜びで、花嫁のブーケを作る役目は自分に任せてくれと言って大人たちを困らせた。結局兄の一言でそれは叶わなかったが、エミリアはこっそり一本だけならブーケの中に紛れさせることが出来るとレティシアに耳打ちしたことで彼女の機嫌を損ねることはなかった。


明日の結婚式が終わり次第、エミリアはラザフォード領へと旅立っていく。

少ない荷物をトランクに詰めていたエミリアは、おおよそ結婚を控えた女性には似つかわしくない溜め息をついた。

ベッドの傍には明日着る予定の花嫁衣装が、白く輝きながらそこにあった。古ぼけた時代遅れのドレスしか持っていないと知っていたメリッサが特別に用意させたのだ。

仮にもラザフォード伯爵夫人になるという娘に粗末な格好をさせるわけにはいかなかったのだろう。

メリッサがエミリアの為に呼んでくれた洒落た服に身を包んだ仕立屋は、エミリアの体をあちこち寸法しては時々意見を聞いたり何か考えるような仕草をしていた。

とは言ってもエミリアにはドレスにあれこれ注文をつけられるほどのセンスも無かった。ドレスを作ること自体久しぶりであるし、貴族が追いかけている流行にはとても疎かったのだ。

結局、デザインの殆どが仕立屋の意見で成り立ったのだが、慎ましやかでそして美しかった。仕立屋もラザフォード伯爵夫人のウェディングドレスを作ったとなれば更に自分の知名度が上がる事を見越してか、出来上がったドレスは神前で誓いを立てるにはぴったりの出来栄えであった。

結婚式にきた人々は誰もエミリアが身寄りのない孤児だとは思わないだろう。

だけど一体それに何の意味があるというの?ふいにそう思い、ぴたりと忙しなく動いていた両手が止まる。

傍から見たら幸せに満ちた未来を描けていただろう。しかしエミリアの心の中は結婚式が近づくにつれ、深く重くなっていった。

先ず偽りの愛を神の前で誓うことに罪悪感を覚えた。神の教えを重んじていた両親に育てられたエミリアにとって、最も神聖だと言われている結婚に嘘をつくことは鉄の塊を飲みこむように苦しいことであった。

貞淑を誓い、従順であることは出来る。しかし生涯の愛を誓うほどにはマグナスを知らない。エミリアが知っていることと言えばたった二つ。伯爵は噂通りに彫刻のように美しく、氷のように冷たい心を持った人物ということだけだ。



「ミス・アンダーソン」


控え目なノック音の後、執事のポールがドアの隙間から顔を出した。

ポールの白髪混じりのグレーの髪は緩やかに後ろに撫でつけられており、いっそうポールの人柄の良さを際立たせているようだった。

彼は一礼してエミリアの部屋に入ると、目を細めて感慨深げに部屋中を見渡した。何か言いたげな表情でエミリアを見たポールだったがそれは一瞬の事で、次の瞬間には直ぐにいつもの執事の顔に戻っていた。


「旦那様がお見えです」


その言葉にエミリアの心臓は一気に早鐘を打つ。

伯爵と顔を合わせるのはあの日以来実に一カ月ぶりのことだ。つまり準備があるからと婚約したその日に領地に帰ってから、マグナスがエミリアを訪問したのは初めてのことなのだ。

こんな些細なところにも愛情がない結婚だということを知らしめているようでエミリアはとても悲しかった。


「そう…」


知らず知らずのうちに声も緊張を孕んで硬くなっていく。


「分かりました。伯爵様はどちらに?」

「応接間にいらっしゃいます」

「すぐに参りますと伝えてください」


ポールが部屋から出て行った後、エミリアは鏡に映る自分に溜め息をつきたくなった。結婚間近なのだからと言われ、もう随分レティシアの勉強を教えてはいない。彼女には来週新しい家庭教師がつけられるらしい。

仕方がないことだとは言え、自分の居場所が一つ消えていくことが切なく感じる。いつもの習慣できっちりと髪を結ってはいるが、それもなんとなく板につかなくなってきていた。

数秒鏡を見つめたエミリアは短く息を吐くと結っていた髪を解いた。腰まで伸びた金色の髪はきつく編み込んでいた所為で緩くウェーブを描いていた。

半分だけ結い、あとの半分は背中に流す。


「大丈夫よ、エミリア。きっと大丈夫」


いつものように鏡の中の自分に言い聞かせ、エミリアは覚悟を決めたようにゆっくりと瞼を上げた。

ドレスがみすぼらしいのはいつものこと。今更どうすることも出来ないし、これがエミリア・アンダーソンなのだ。






*






応接間には香りの高い紅茶が温かそうな湯気を出していた。つい先ほど執事のポールがこの紅茶と一緒にエミリアが来ることを伝えていた。

マグナスは紅茶に口をつけようとはせず、天井まで伸びている窓の傍に立っていた。

あれからひと月が経ったが、毎日目が回るほどの忙しさであった。

帰ってすぐに結婚の告知をし、新たに迎え入れる妻の為に彼女付きのメイドを何人か雇った。マグナスが結婚すると言うと屋敷中の使用人たちは一瞬絶句したが、伊達に優秀な者ばかりを集めた訳ではない。

すぐに気持ちを切り替えた彼らはそれから一週間も忙しなく働く羽目になったのだった。

しかしマグナスの仕事はそれで終わりではなかった。執事のネルソンは控え目に、だが的確なアドバイスとしてマグナスにあの部屋を改装してはどうかと提案した。

あの部屋とは言うまでも無く、代々奥方のみが使われる事を許される部屋――つまり、伯爵夫人の部屋だ。

つい数年前までは亡き妻、サリアナが使っていたのだが、彼女が亡くなってからは手入れこそきちんと行き届いてはいるものの人が住む温かさはない。それにサリアナの華美な趣味はエミリアのイメージにはどうも合いそうにもなかった。

しかし改築の許可を出したまでは良かったものの、使用人たちはあれこれ煩わし程にマグナスを質問責めにした。

奥様は白と生成色のどちらがお好きでしょう?奥様の新しいドレスは何着お揃えになりますか?奥様の髪の色は?瞳の色は?

幼い頃からマグナスを知っている乳母は特に遠慮がなかったが、マグナスはなんとかその場をやり過ごすことが精一杯であった。何しろ彼は何一つエミリアの事を知らないのだ。

いや、経験から言えば女というものは美しいものに惹かれる。サリアナがそうであったように、また社交界で出会う女性がそうであるように。

高価な宝石とドレスの新調に必要な分の金を出せば、天性のセンスで彼女たちはそれらを身につける。

だが――マグナスはエミリアのことをゆっくりと思い出した。襟の詰まった地味な色のドレス。一つの宝石もつけてはいないが、真珠のように白い肌。きつく結われてはいたが、金色の髪は美しいと称賛するに値する。

彼女にはダイアモンドよりも、もっと控え目な宝石が似合うだろう。そう思ったマグナスはもう何年も踏み入れていなかったサリアナの部屋へと足を進めていた。

母が亡くなった後、母の形見の宝石が詰まった箱はサリアナが管理していたはずだ。彼女は大きな粒の宝石しか身に着けてなかったが、確かあの宝石箱には真珠のネックレスとイヤリングがあった。

おぼろげながら、幼い時に何度か母がそれらをつけているのが記憶に残っている。それをつけるのは特別な日で、決まって母は機嫌が良かった。

()が歩いた日、初めて言葉を喋った日、一人で字を書けたとき。母にとってそれらすべてが特別だったのだ。

――無意味な回想だ。マグナスは目当ての宝石を取り出すと別の箱に入れ、すぐにポケットにしまった。彼にとって過去は思い出ではなく、くだらない人生の一瞬にしか過ぎないのだ。


その直後、執事が扉をノックした為マグナスは気持ちを切り替えることが出来た。ネルソンは静かに客人の来訪を告げ、マグナスはそのまま旧知の友人とロンドンへ旅立ち結婚式を一週間前に控えるまでカードゲームと一夜の恋に没頭した。

例えどれ一つとして彼を満足させてくれるものはないと知っていても。


そうして一週間ぶりに領地へ帰ってきたマグナスはすぐにエミリアと結婚する為にベッドフォードシャーへと出発した。

出発のほんの数時間前には久しぶりに息子との対面を果たした。金色の髪こそサリアナそっくりなダニエルだが、それ以外のパーツは間違いなくグランヴェルの血を引いている。

光を失ったような瞳はまるで自分自身の子供の頃を見ているようであまり気持ちのいいものではない。父を前にしても笑顔一つ零さず立っているだけの幼い子供に、マグナスは同じように無表情で「あまり面倒なことは起こすな」と言っただけで父と息子の短い時間は終わった。

ダニエルは一言も喋ってはいなかった。


マグナスは珍しくからりと晴れた空を見上げ、大きく息を吐いた。エミリアを妻に迎えたことで、少しでもダニエルが落ち着けばいいが。



「――伯爵様?」


不意に声を掛けられ、マグナスは急いで声のした方に視線を走らせた。

見ればエミリアが訝しげな表情でこちらを見ているではないか。ノックもせずに入ってきたのだろうかと不快に思ったが、エミリアの次の言葉でそれは間違いだったのだと気づいた。


「あの、何度もノックはしたのですがお返事がなかったものですので…申し訳ございません」

「いや。どうやらぼんやりしていたようだ」


マグナスの返答に緊張を抜いたエミリアの髪は肩をさらさらと流れる金の糸のようだった。柔らかく光を反射しており、微かに花の香りがしたような気がする。

その髪に指を絡めたい衝動に駆られ、マグナスは慌てて視線を逸らした。


「明日の結婚式のことだが、内輪だけで行うことにした」


マグナスにそう切り出され、エミリアは驚いて顔を上げた。この国でも有名な伯爵だ。きっと参列者も多いのだろうと憂鬱に思っていたのだが、内輪だけならばまだ耐えられるかもしれない。

明らかにほっとした表情の彼女の目の前に、マグナスは持ってきていた箱を差し出した。


「母の物だ。明日の結婚式に着けるといい。きっと――」


きっと君に似合うだろう。その言葉は無意識に呑み込んでいた。


「まあ…とても綺麗」


初めて見る本物の真珠の美しさに、エミリアは溜め息をついた。一生手にすることはないと思っていた宝石の一つだ。

繊細な装飾が施された箱に収まったネックレスとイヤリングは、淡く光を放ちながら明日の結婚式を心待ちにしているように見える。

エミリアの心は激しく揺れていた。

はたしてこんな中途半端な気持ちで、結婚などしてもいいのかと。覚悟は決めた筈なのに、それもマグナスを見た一瞬で崩れかかっている。


「君が私の息子にとって良き母になることを願っている」


だがそんな心の揺らぎも、マグナスの一言でぴたりと止まった。

良き母――やはり伯爵は私のことなどちっとも愛していないんだわ。そしてこれからも愛するはずはないと確信している。

それは幸せな結婚を夢見ていた年若いエミリアにとって、あまりに残酷な現実だった。いつか少しでも心を通わせることが出来たのなら、と淡い期待は見事に打ち砕かれたのだ。


「…精一杯努力します。伯爵様」


笑えるような気分ではなかったが、出来る限り笑顔に見えるようにしてエミリアは応接間を後にした。

静かにドアが閉まるのを見ていたマグナスは、不快感を滲ませながら眉を顰めた。あんな下手くそな造り笑いを見たのは生まれて初めてだ。子供でももう少しまともに出来るだろう。

マグナスはエミリアの泣きそうな笑顔を思い出した。

それはとても不快で、出来れば二度と見たくはないような悲しい笑顔だった。

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