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灼熱の氷  作者:
7/27

05

「なんですって!」


予想していたとは言え、メリッサのあまりの驚きようにマグナスは眉を顰め、エミリアは身を縮めた。

あの脅迫とも取れる奇妙な求婚にエミリアが頷くが否や、マグナスは早速彼女を義母の部屋まで連れてきた。言うまでも無く、結婚の報告をする為に。

数人のメイドに囲まれて紅茶を飲んでいた女主人は、突然の来訪にあまり歓迎的ではなかった。

マグナスがドアから入ってくるときに見えた微かな笑みは、エミリアが続いた時にはすっかりなくなっていたからだ。


「マグナス…」


右手を額に当て、疲れたように首を振ったメリッサにもマグナスは動じる様子はない。真っ直ぐに義母を見つめ、次にどんな言葉が来るのか待ち構えているようにも見えた。

その重苦しい沈黙に耐えられなかったのはエミリアの方だった。息は詰まり、今すぐ部屋から飛び出していきたい衝動をぴんと伸びたマグナスの背中を見ることで何とか抑えようと努力するのに必死だった。


まだそんな冗談を言っているの?

聞こえる筈のないメリッサの心の声が、溜め息に重なり耳の奥で不協和音を奏でる。

メリッサの視線はマグナスを辿り、彼の背に隠れるようにして立つエミリアを見据える。その顔にははっきりとした嫌悪が見て取れた。


――やはり受けるのではなかった。エミリアはマグナスの後ろで気付かれないようにそっと、溜め息を吐く。

仕方がなかったとは言え、よくしてくれた女主人の信頼を失うのはあまりに辛いことだった。

しかし、例えエミリアがこの場所でマグナスに脅されたのだと訴えたところで、ますますエミリアへの不信感が増す以外は状況は何も変わらないだろう。結局のところどんなに関係を深めたところで、エミリアは一文無しの家庭教師に過ぎないのだ。

貴族の言葉とエミリアのような中流階級者の言葉、人々がどちらを信じ支持するのかは目に見えている。それを知っているエミリアはメリッサの視線を避け、口を噤むしかなかった。


「あなた一体自分が何を言っているか分かっているの?エミリアは家庭教師で、おまけに持参金すら持っていないのよ?」


口調は落ち着いていたが、メリッサの激しい感情ははこちらまで伝わってくる。侮辱ともとれる発言にもエミリアはじっと耐えた。


「ええ」


対するマグナスは義母の苛立った様子をものともせず、冷静にその怒りを受け止めていた。

マグナスにとって義母の都合などまったく気にするところでもない。歳を感じさせない美貌に現れる怒りは、ただただ煩わしいだけであった。

貴族として最初の結婚で美しく身分のある女との結婚は果たした。だが今度ばかりは別だ。義母が求めているような娘と結婚する気は更々ない。

ちらりと後ろに控えているエミリアを見れば顔を真っ青にして、今にも倒れそうであった。マグナスはさりげなくエミリアの腰を支えるようにして手を伸ばしたが、エミリアの腰は軽々とマグナスの腕が回ってしまうほど細く、その瞬間弾かれたようにマグナスを見る瞳は頼りなくどこか幼い。

そういえばエミリアはまだ18なのだということを思い出し、マグナスは自分の放った言葉に少しだけ後悔を覚えた。

もっと誠意を込めて事情を話せばばよかったのだろうか。しかし、誠意や優しさの術を彼は知らなかった。

せめてエミリアには結婚後何一つ不自由はさせないつもりでいる。彼女はただダニエルの母親という役割を担ってくれればそれでよかった。


マグナスが軽くエミリアを自分の方へ引き寄せたことに、メリッサはますます眉間に寄せた皺を深めた。


「マグナス!」


メリッサの金切り声には流石にマグナスも黙ってはいなかった。

確かに法律上ではメリッサはマグナスの母親かもしれない。しかし実際は血の繋がりのない赤の他人だ。

家督であった父が生きていた頃ならまだしも、伯爵の称号は既にマグナスのものであり、そのマグナスが全てを決定する権利を持っている事を義母は忘れている。

人間としての道理はわきまえているが、生憎マグナスには家族にすら分け与えるような優しさも慈悲も持ち合わせてはいなかった。

冷やかに義母を見下ろしたマグナスの視線は一瞬にして彼女を黙らせるのに充分な威力を持ち合わせていた。マグナスの横で腰に回された手にばかり意識が向いているエミリアには分からなかったのが唯一の救いだ。


「義母上。私は口論をしにきたのではありません」

「え、ええ。そう…私もあなたと言い争いなどしたくはないわ」


先ほどまで興奮で頬を上気させていたのにも拘わらず、メリッサは指先から氷水の中に入れられたような冷たさを肌で感じていた。

気を紛らわそうとカップに手を伸ばしたが、指先が取っ手の部分に軽く当たっただけで断念せざるを得なかった。情けないほどに震えている。


「義母上が私の結婚に心を砕いてくださっていることにはとても感謝しています。しかし、私はもうミス・アンダーソンを妻にすると決めたのです」

「でも」

「これ以上の話し合いは必要ない。式は一か月後。必要な経費はすべて私が出します。義母上はどうか彼女の力になってください」


尚も言い募ろうとするメリッサの声を片手で遮り、マグナスはそのままエミリアの手を引き彼女の部屋を後にした。

ドアが静かながらも重々しく閉まる音が後ろ手に聞こえ、くぐもった声でメリッサが何か叫んでいるのを掻き消した。マグナスは歩く速度を落とそうはしなかった。長い脚の一歩は女性――それもあまり背の高くないエミリアにとっては数歩にも匹敵する。

空気は重く、息を吸うのですら緊張を強いられた。

一連の会話の中で言い訳どころか一言も言葉を発することが出来なかったエミリアは必死で逞しい後姿を追いながら、マグナスの言った"話し合い"は完全な失敗に終わったのだと悟った。


「私は明日、ここを発たなくてはならない。色々準備を進める為に」


唐突にそう切り出し立ち止ったマグナスの背中にエミリアはあと少しでぶつかるところだった。後ろに体を引いてなんとかそれは避けたが、マグナスの言葉の意味を咀嚼した途端耳を疑った。

――明日、発つですって?

確かめるように心の中で繰り返したエミリアは自分の耳がおかしかった所為で聞き間違えたのではないと分かると、ますます混乱した。

一体伯爵は私をここに残してどうしろというのだろう。確かに婚前前の男女が一緒に住むことなどありえないのだし、実家がないエミリアにとって勤めているチェザースハウスが実家のような場所だと思っていいだろう。

しかしそれは、エミリアが同じような身分の男性と結婚した場合だ。まさか先ほどのメリッサの態度をもう忘れてしまったのだろうか。

冷たい態度を取られたまま一か月を過ごすだなんてとてもじゃないが耐えられない。メリッサは決してエミリアを許したりはしないだろう。

仲が良かった使用人たちの顔も次々と浮かんでは消えていく。彼女たちはメリッサほどではないが、きっとエミリアに対して前のように気さくに話しかけてはくれないだろう。

余所余所しい視線、この屋敷の中でどこにも自分の居場所がない自分――考えるだけで体が震えてくる。

そんな毎日を過ごすのなら、家畜たちと同じ場所で眠れと言われた方がよっぽどましだった。少なくとも彼らはエミリアに冷やかな視線を向けたりはしないのだから。


「式はこの館か私の領地で行う。そうだな、君は招待したい友人がいるだろうからここがいいだろう。花嫁を新郎に引き渡す役は私の方で探しておくとして、花嫁衣装は……」

「伯爵様」


未来の花嫁の方を振り返りもせず、自分の都合だけを押しつけてくるマグナスの言葉を途中で遮り、エミリアは静かに頭を下げた。

心身ともに疲れ切っていた。たった半日の間に自分の残りの人生はまるで地獄へと変わり果てた。

マグナスの息子の母親になる、それだけの為にエミリアは全てを失った。愛してもいない、愛されてもいない男に神の御前で結婚の誓いなど立てられるはずもない。

涙すら出てこないのは未だに現実を受け入れられないのか、それとももはや希望すらも絶たれたと諦めたからなのか。

いずれにしてもこれ以上マグナスと顔を合わせていることはエミリアには出来なかった。


「今日はもう休ませて頂いてもよろしいでしょうか?式に関しては全て伯爵が言う通りにいたします」


これがあなたの望んでいる答えなのでしょう?エミリアは言葉にそういう意味を込めて言った。

マグナスの表情は俯いていた所為で見えなかったが、拳に力が入ったのは分かった。怒らせてしまったかもしれないがそんなことは気にならない。

どう行ってもこれ以上悪い方向へ進むことなどないのだから。


「よろしい。また何かあればこちらにくるとしよう。ではゆっくりと休みなさい、エミリア」


皮肉をたっぷりと含んだキスをエミリアの白く柔らかな頬に落とすと、マグナスは紳士の礼を取った。それに続きエミリアもドレスの裾を持ち応える。

お互い背中を向け合い別々の方を向いた時、マグナスは苛立たしげに歯軋りし、エミリアは一筋の涙を流したのだった。






*




「ちょっと、そこのあなた」


流行のドレスを着た女性に引き留められ、エミリアはその場で立ち止り頭を下げた。今回のパーティに招待された客全ての顔など覚えてはいないが、ぞんざいに自分を呼んだところからしてきっと名のある貴族なのだと分かる。

グランヴェル卿が家庭教師に求婚したと言う噂は誰を通してかは知らないが、既に屋敷中に広まっていた。

気位の高い女主人やましてや伯爵になど真相を聞く者はいない。そうなると必然的に人々の怒りや好奇の矛先はエミリアに向かう。

エミリアが疲れ切った精神を休める為に部屋へ向かう間に、来客からは鋭く睨まれメイドたちからはなにか言いたげな視線を何度も向けられた。

一つ一つに反応する気力も残ってはいなかったが、貴族の呼びとめを無視するわけにもいかない。なるべく彼女たちが知り得ない通路を通ってきたがそれも限界だったようだ。


「あなたがこの家の家庭教師?」

「…左様でございます」


自分が呼びとめられる理由はそれしかないのだが、次に浴びせられるであろう言葉を思うとどうしても体が硬くなってしまう。


「そう。どんな手を使ったのかは存じませんけど、素晴らしい手腕をお持ちなのでしょうね。是非ともご教示願いたいわ」


分かってはいたが他人に言われると言葉は威力を増すものだ。エミリアに出来ることはただ黙ってこの場をやり過ごし、令嬢たちの嫌味が終わるのを待つだけ。

どうやったって一介の家庭教師が伯爵を誘惑したのだと皆思うのだ。自分が当事者ではなかったらエミリアでもそう思っていただろう。

メリッサが招待した客に美しさだけではなく、教養も兼ね備えた令嬢が殆どいなくて良かったと心底感謝した。

知識のある人間はそれだけ語彙も豊富だ。今のように何度も同じ言葉を言われ続ければ少しずつ慣れてくるが、頭のいい令嬢に言われた一言はこれの何万倍もの威力を持ってエミリアの心臓を刺した。

涙が出ぬように頭の中で必死にかけ算を数えたが、それでも一瞬だけ耳に入った言葉は令嬢の声のトーンまでも鮮明に思いだすことが出来るほど。あの痛みは二度と味わいたくはない。


エミリアが小さく震えていることに満足したらしい令嬢は、さっとドレスを翻らせ靴音を響かせながら廊下の奥へと消えていった。

漸く深く息を吸うことが許され、エミリアは肺いっぱいに新鮮な空気を取り入れた。季節は変わるというのに、どこか湿った空気は渇いた喉をゆっくりと潤していく。

鼻の奥が微かに痛んで、やっと自分が泣くのを堪えているのだと知った。子供の頃はよく大声で泣いては両親を困らせ、おもいっきり甘えた。母親の腕の中と、父親の髪を撫でる手が何よりも優しいのだと分かっていたから。

だけどその両親はもういない。誰もエミリアが泣くのを傍にいて慰めてくれる人はいないのだ。

――泣くのはまだ早いわ。そう自分に言い聞かせエミリアは部屋へと足を進めた。

部屋に帰ったらまず鍵を閉めて、熱いお茶を飲もう。それから楽しいことを沢山考えるのだ。伯爵との結婚は悪いことばかりではないかもしれない。

きっと伯爵はロンドンや領地の事で頭がいっぱいで私のことなど気に掛けないに違いない。伯爵の息子とうんと仲良くなって私自身の手で立派に育てよう。幸い子供は大好きだし、男の子を相手にするのは初めての経験だ。きっと毎日が発見と驚きの連続だろう。


ふとレティシアの事を思い、エミリアの心は今までにないほど抉れた。

自分の尊敬する兄が私のような身分を持たない女と結婚することを、彼女は一体どう思うだろう。私のことを恨むだろうか。

昨夜2人で作った花束をレティシアは嬉しそうに眺めていた。それがこんなことになるだなんて誰が想像できたと言うのだろう。

レティシアの恨みの籠った悲しい瞳が頭の中に浮かんでは消え、その度にエミリアの心は激しく痛んでいった。


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