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灼熱の氷  作者:
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02

伯爵から手紙が届いてから数日、エミリアが伯爵の名前を聞かなかったことはなかった。

どこへ行っても話題は伯爵へ移りその容貌の美しさから、彼の華麗なる女性遍歴までエミリアは聞かされる羽目になった。

メイド頭にお客様の噂話をするのを慎めと嗜まれても、彼女たちはまるで示し合せているかのように集まっては色々な噂話に華を咲かせていた。

メイドたちがまるで英雄物語でも語る様な口ぶりで話す伯爵の立派な経験は、エミリアの伯爵に対する意識を更に悪くするのに最適であった。

一方、妹であるレティシアは何年も手紙一つ書かなかった伯爵を責めるどころか、彼がいかに素晴らしく、知性に溢れているかを熱弁しエミリアに軽い眩暈を覚えさせた。

一体伯爵のどこをどう見たらそういう結論に達するのかと心配する程、エミリアの知る伯爵とレティシアの語る伯爵とでは差があったのだ。

エミリアが知る限り、レティシアが生まれた時伯爵はグランドツアーの真っ最中であったし、彼が帰って来る頃には前伯爵が亡くなりレティシアは母と一緒にこちらに来ていた筈だ。

きっと心の中で理想の兄の姿を描いているのだろうと思うと、深くレティシアに同情し、それと同時に一度も会いに来なかった伯爵に強い怒りを覚えた。

だからエミリアは、レティシアが伯爵の話を始めた時は勉強を一時中断して耳を傾けることにしたのだ。

尤も、主人たちのドレスの新調や客室の掃除に駆り出されたお陰でもともと勉強がはかどるような環境ではなかったのだが。


レティシアの空色の瞳が何かを思い出しかのように嬉しげに細まり、ペンを持つ手が止まるのを確認してエミリアも持っていた本を置く。

今日のフランス語の授業はここで終わりだろう。伯爵から手紙が来てからたった数ページしか進んでいないことに気付き、エミリアはそっと溜め息をついた。

これが伯爵に知られ、職務怠慢として減給されなければいいが。減給ならばいい方だ、最悪なのは職を失うことだ。

紹介状も持たない家庭教師が新しい勤め先を探すのは決して容易ではない。そうでなくても家庭教師という職業は中流階級の女性が唯一レディとしての対面を保てるものの為、数が多すぎるくらいなのだ。



「ねえ、先生、聞いてくださる?」


そんなエミリアの心配を余所におおよそ子供らしからぬ大人びた口調でレティシアは始める。


「なにかしら」

「お兄様の新しい奥様ってどんな方がなるのかしら」


――きっと傲慢で、舞踏会や夜会が大好きで、子供の世話など死んでもしたくないと思ってる人よ。

心の中でそう思ったが、まさか口に出すことは出来ず「どうかしらね」と曖昧な返事を返した。


「素敵な人だといいわ。お兄様の前の奥様とはお知り合いになれなかったけれど…私きっと、新しいお義姉様を好きになれると思うの」


きっと、おそらくレティシアの淡い願いは叶うことはないだろう。

けれどわざわざそれを教えて落ち込ませることはしない。エミリアはそっとレティシアの左手に自分の右手を重ねた。

そして話題を逸らす為に極めて明るい声でこう切り出した。


「さあ、レティシア。窓の外を御覧なさい。あなたの新しいドレスを作ろうと、今日も仕立屋がやってきたわ」


その一言にレティシアは喜びの悲鳴を上げ、窓の傍に近づいて行った。

丁度、この数日間ですっかり馴染みとなった仕立屋が真鍮で造られたドアノッカーを叩いているところであった。




*



ラザフォード伯マグナスが招待客より一足早くチェザースハウスに着いたのは、夜もそろそろ更けて来た時であった。

馬車から下り、長旅であちこち体が軋むのが分かったがいつものことだ。馬丁に手綱を渡すと、半ばうんざりとした目で目の前の邸を見た。

まさかここに来ることになるなろうとは。しかしそれも花嫁を見つける為のほんの数日のことにすぎない。

出来るだけ早くダニエルの母となるべき人物を見つけ出し、ラザフォードの屋敷に戻るだけだ。

マグナスは玄関へ通じる階段を踏みしめるように上った。


エミリアはその時、レティシアを寝かしつける為に子供部屋にいた。今日はいつもよりも時間がかかってしまった。レティシアは兄に会うのが嬉しくて堪らないらしく、いつもよりも長くエミリアに伯爵の素晴らしさを語っていたのだ。

初めは律義に相槌を返していたのだが、いつまでたっても終わりが見えないと悟るとレティシアの髪を優しく撫で、一刻も早く眠りについてくれることを願った。

その願いが通じたのか、数分後に安らかな寝息が聞こえた時は心の底から安堵し、いつも以上の疲れを感じている体を引きずって自室に戻る前の事であった。

玄関ホールが騒がしくなったかと思うとバタバタと人の足音が聞こえ、それから女主人であり、マグナスの義母でもあるメリッサの明るい声が響く。あくまで、楽しそうな声を出しているのはメリッサだけなのだが。

そのまま階段を下りるのも躊躇われ、エミリアは無礼だとも思ったがその場に立ち尽くしそっと様子を窺った。

僅かに見えた伯爵の顔は、覚えているよりもずっと美しかった。彼の少し憂いを含んだ横顔は、メイドたちが噂するようにイギリス中の女性たちを虜にするだろう。それこそ既婚者も未婚者も関係なく。


「ああ、マグナス!待っていたのよ!何年ぶりかしら?変わりはなくて?」


親しげに腕を伸ばし抱擁しようとするメリッサをマグナスは冷たく一瞥し、まるでお手本のような礼を取った。


「お久しぶりです義母上。このような時間になってしまい申し訳ありません」

「いえ…いいのよ。長旅で疲れたでしょう?すぐに部屋まで案内させるわ」


メリッサとマグナスの間には、まるで幾重にも壁が掛かっているようにエミリアは感じた。それも、彼の方が一方的に立てている。

それはメリッサも感じたことなのか、先ほどの嬉しそうな顔から一転し、今は何とか笑みを作っているように見えた。

女主人に呼ばれてポールという名の執事がマグナスに頭を下げる。

ポールは結構な歳ではあったが優しく、この邸に来たばかりのエミリアに親切にしてくれた使用人の一人であった。

エミリアはポールの朗らかな人柄が大好きなのだが、一瞬彼の眉が顰められたのをエミリアは見逃さなかった。

どうやら伯爵様はポールの決して素早いとは言い難い動作がお気に召さなかったようだ。


――まったく、なんて人かしら。

誰も見ていないのをいいことに、エミリアは内心の苦々しい思いをおもいっきり顔に出した。


メリッサに対する態度も、執事への視線もなんて冷たいのか。

そもそも自分の出した手紙一つで、ここの屋敷中の使用人がどれほど大変な思いをしているのかも彼には全く関係のないことだろう。パーティに呼ぶ客――つまり、未婚の女性たちのことだが――すらメリッサが決め、招待状を出したのだ。

伯爵がすべきことと言えばこのパーティーの為に惜しみも無く費用を出し、呼ばれた女性たちの中から相応しい姫君を見つけることだけ。

義母と妹の気持ちなど、きっと微塵も汲みとっていないに違いないのだ。


と、エミリアがそこまで思った時、マグナスが急に視線を上げ階段の上にいるエミリアをその視界に捉えた。

エミリアが慌てて頭を下げるのと同時に、マグナスがメリッサに「誰だ」と聞いているのが聞こえた。


「レティシアの家庭教師をなさっているミス・エミリア・アンダーソンよ。去年お会いになったのではなかったかしら?もう一度紹介しましょうか?」


マグナスはメリッサの申し出を断りぼんやりと記憶を辿ったが、メリッサの言う昨年に彼女を見た覚えはなかった。

幼い顔に御世辞にも似合っているとは言い難い、きつく束ねられた金色の髪。薄茶色の瞳はマグナスへの興味を隠そうとせず、瞬きをする度それが増しているようにも思えた。

しかしそれは社交界の多くの女性が自分に向けてくる何かを含んだようなものではなく、どこか嫌悪されているような視線であった。

だいぶ流行遅れの深い藍色のドレスは彼女の襟や袖まですっぽりと隠しており、余計に野暮ったく見える。

――自分が知る女性が見たら馬鹿にしたように笑うか、悲鳴を上げるな。そう思って初めて、マグナスはエミリアを注意深く観察していたことに気付いた。


「部屋へ案内してもらおうか、ポール」


さっとエミリアから視線を外し、マグナスは執事へと向き直った。その硬い声に、ポールは今までにないくらい俊敏に動いた。マグナスの為に用意された客室の中でも一番上等な間は廊下の奥にある。


「それでは失礼する。義母上、ミス・アンダーソン」


先ほど探る様な不躾な視線を向けられたエミリアは暫く言葉を失っていたが、現実に返った時には既にマグナスの後姿は小さくなっていた。


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