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灼熱の氷  作者:
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エミリアは刺繍の為に忙しなく動いていた手をふと止めた。夜の帳はいつの間にかグランヴィル邸を包み、昼の華やかさをすっかりと忘れた庭が次の朝を待っている。

さわさわと木々を揺らす風は凪ぎ、まるでガラス一枚隔てた向こう側の世界はまるで時を止めたようだった。

夜の心地よい静寂はエミリアをほんの少し現実から遠ざける。ゆっくりと息を吸えば、季節の色に染まった空気が体に行き渡っていくようだった。


―― 矢のように矢のように過ぎていく毎日をゆっくりと振り返る事ができるようになったのはほんの最近のことだ。

あの日マグナスがレオナルドの舘から持ち帰った絵は主人の希望通りに子供部屋に飾られるようになった。落ち着きと厳粛さに重きを置いていたこの邸全体の雰囲気にほんのりと優しい色を添えたそれは、見たものを自然と笑顔にさせる魅力を持っていた。

壁に初めて絵が掛けられたその夜、ダニエルはエミリアが(たしな)めるまでずっと飽きずにその絵を見続けていた。幼いながらに何か感じるものがあったのだろうかと問うと、夫は「ダニエルには真の芸術が分かるらしいな」と笑ったのだ。

その目にはもうあの日のような焦燥はどこにもなく、ただ静かで穏やかな光が宿っていた。

マグナスがこの絵を見る度、瞼の裏に蘇るのはただ無心に絵を描き笑う弟の姿。いつの間にか自身の忌まわしい記憶と重ね見るのを厭うようになってしまったが、こうして改めて向かい合ったレオナルドの日々は少しも褪せずにここにあるようだった。

そして愛した弟の絵を無心に見つめるダニエルの瞳は、思い出の中と同じ温かい色に染まっていた。


マグナス自身の胸で燻っていたレオナルドへの気持ちが完全に消えてなくなったわけではない。あの日を完全に消化しきれたわけでもなく、己を許したわけでもなかった。

それでもレオナルドとの歳月を苦しみや悲しみとして区分するのはもう止めたのだ。過去から目を逸らし暗闇の中を走り続けるにはあまりにもマグナスは孤独だったが、今ではエミリアとダニエルという光を見つけ、弟の存在を確かに受け止めることができた。

愛していたのは嘘ではなかった。たった二人きりの兄弟をマグナスは大切に思ってきたのも事実だ。できることなら生きていて欲しかった。たとえどんな形であっても。


そしてマグナスとダニエルの仲は急速にとはいかないまでも、日々縮んでいた。マグナスは息子を知ろうと努力しているし、ダニエルは父親に甘える言葉を探している。二人が時々交わす視線には以前にはなかった温かさが見てとれるようにもなった。

エミリアが知る家族の形にはまだ程遠いが、二人は今懸命にに絆を築こうとしている。昨日よりも今日、今日よりも明日、何年もの間親子に立ちはだかっていた見えない壁を少しずつ壊していきながら、それよりも強く切れない絆を。

そしてそれは傍目にもはっきりと分かるほどに強固なものとなっている。

今夜はマグナスがダニエルが眠るまで傍に付いているが、それももう三度目になる。初日は互いに緊張していたのか、ダニエルはなかなか目を閉じようとはせず、そんな息子にどう言葉をかけていいのか分からないマグナスもベッドの上で不自然に手を彷徨わせていた。

頭を撫でていいものか、はたまた早く寝なさいとたしなめるべきか――結局マグナスはダニエルの気が済むまで夜のお供をすることになったのだが、それはそれで悪くはなかったとエミリアに告げていた。

三度めとなる今日は、今まで想像もつかなかったほど穏やかな夜だ。


日々間近でそれを感じているエミリアは、満足気な溜め息をつき再び刺繍を再開しようと視線を下に向けたが、突如ノックの音がそれを阻んだ。


「私だ」


誰か、と問う前にドアの向こうの人物がそう言った。エミリアは弾かれたように刺繍途中のクッションを背に置きドアを開けた。

一瞬の冷たい夜風と共に、昼間とは違いゆったりとしたガウンを羽織った夫が気遣わしげにそこに立っていた。


「マグナス」

「漸くダニエルが寝付いた。入っても?」


マグナスの言葉が白い息となって視界をけぶらせる。

部屋の中は暖炉が焚かれている為それほど寒さを感じなかったが、季節は確実に変わろうとしていた。エミリアは体をずらしてマグナスを部屋に招き入れ、傍の椅子を勧めると先ほどメイドたちが用意してくれた熱いお茶を2客のカップに注いだ。

ほのかな甘い香りと立ち上る湯気に安堵を覚えほっと息を吐くと、2人の間にあるテーブルにそれを置いた。


「ありがとう。まだ起きているとは思わなかったんだが…またダレル嬢に手紙でも?」

「いえ、クッションに刺繍をしておりました。ダニエルの部屋にと思いまして」

「君たち婦人の才能には感服するな。私には到底そのような作業は向いていない」


そう言って笑いながらマグナスは椅子に腰を降ろした。くつろいだその様子にエミリアは何となく詰めていた息を吐き、隣に腰を落ち着けることにした。


一拍の沈黙と共に薪が爆ぜる音と同時に火粉がぱらぱらと暖炉の中で舞った。

暖炉の揺らめく炎が彼の端整な顔をほのかな明かりで照らしている。気付けば何も言葉を発せず、その横顔を見つめていた。

――変わったのは何もダニエルとマグナスの関係だけではなかった。エミリアの、マグナスに対する感情も日々少しずつではあるが確実に変化を遂げていた。

例えばこうしてマグナスの隣にいるとき、感じるのは温かさだけではなくなった。自身の鼓動がその最もたる例であり、まるで踊り、歌うように速くなっていく。そしてそれをマグナスに気付かれないようにするために視線を落とし、急ぎでもない刺繍の図案を考えなくてはならなくなった。

夫婦と呼ばれるようになり、もう何か月も過ぎているのに表面上では何も変わらない関係が互いの見えないところで激しい嵐を起こしているようだった。

一方で戸惑い、もう一方で不安になったりと最近特に感情は忙しなく動いている。


忙しない鼓動を隠すかのように、努めてゆっくりとエミリアは口を開いた。


「ダニエルはどんな様子でした?」

「そうだな。初めは今日の相手が君ではないと分かってがっかりしていた」

「まあ。けれどダニエルは寝る前に必ずあなたのことを聞くんです。きっと恥ずかしがっているだけでしょうね」

「だといいんだが」


何かを思い出したのか目を細めたマグナスの口元が柔らかい弧を描く。

時折、マグナスはこんな表情を見せるようになった。以前は触れは爆ぜてしまいそうな冷たい雰囲気を纏っていた彼が、今は驚くほど優しい顔をするようになった。

決して快活とは言い難いが、その仕草がどうしてもエミリアを落ち着かない気持ちにさせるのだ。

もはや会話では早鐘のように鳴っている心音を誤魔化しきれず、緩慢な動きでカップを口につける。ゆっくりと喉を下っていく紅茶と共にエミリアの心臓もなんとか通常より少し早め、といえる鼓動を刻んでいった。


そんな妻の伏せた横顔を見つめるマグナスがいったいどんな表情をしているかは、まだエミリアの知るところではなかった。

マグナスもまた、エミリアに知られたくない感情を上等なガウンの下に隠しているのだ。


こうして穏やかな夜を越えるようになったものの、エミリアとマグナスの始まりは決して良いものではなかったと言えるだろう。マグナスは高慢で無礼な態度であったし、エミリアもそんな主人に呆れと怒りを顔に乗せていた。

初めに結婚を申し込んだとき、はっきりと恋や愛の為の結婚ではないと言った。これは契約のようなものだとも。

あの時は確かにそう思っていたしいっそ冷酷なまでに放った言葉に良心を痛めることもなかったが、もしも今あの瞬間に戻れる方法があるのならば全力であの日の己を叱り飛ばすだろう。

今はただ、あれから数か月後の自分がどれだけ苦しいか滾々と説教をしてやりたい気分だ。


そう、マグナスは苦しいのだ。


「エミリア」

「え?」

「昼間もダニエルに付き合って散歩をしたそうだな。もう遅い、そろそろ寝なさい」


まだ刺繍が途中だと声を上げようとしたエミリアだったが、それは叶わなかった。マグナスは矢継ぎ早にそう言うと、半ば押し込めるようにエミリアをベッドに入れたのだ。

そんな彼女の戸惑いながら揺れる瞳にマグナスはぐっと言いたいことを堪えなくてはいけなかった。取り繕ったように額に唇を落とし、おやすみと言ったマグナスの声は震えてはいなかったか。

ドアを閉め、重厚な扉に体の全てを預ける。天を仰げばぽつぽつと廊下に灯る蝋燭に照らされた己の影が高い天井に映った。


心の中で存分に悪態を吐いた。勿論それを受けるのは他でもない自分自身だ。

何日も前から心の奥に閉まっていた言葉を、いざ放とうとすると途端にそれは乾いた舌の上で転がり、言葉になることなく空気の中に爆ぜるのだ。

マグナスは苦しさに無意識に心臓の上を掻き抱いた。同時に情けなさに溜息すら零れる。

これほどまでに一つの言葉に手こずるとは思いもしなかった。単語にして三つ、決して不可能とはいい難い。

だが口に出すことを躊躇させているのはきっと己の中に【恐れ】があるからだともマグナスは気づいていた。

――愛している、と。己の妻に、エミリアに、ただそう告げればいいのに。それが今のマグナスにはできなかった。


かつてノルマンディー公と共に海を渡り、爵位を授かった名誉ある騎士の末裔として恐れるものなどないと若い頃の彼は豪語していたが、それは大きな間違いであったと認めざるを得ない。

人間として恐れるべきものはたくさんあった。ただマグナスが気づいていないだけで。

放った愛の言葉にエミリアがどんな顔をするのか、どんな返事を返すのか。想像するだけで感情は渦を巻き、マグナスから嵐のように言葉を奪う。


マグナスは恐れている。

その言葉が永遠にエミリアを引き離してしまうのではないかと。





*






自室に戻り、テーブルの上に散らばった手紙を片づけながらマグナスは深く息を吐き出した。


シーズンが始まる前に一度、ロンドンの邸に行かなくてはいけないだろう。信頼のおける者たちを置いてきている為、それほど気に病んでいるわけではないがやはり采配をとる主人がいないというのは心許ない。エミリアを連れていくことも考えたが、まだ時期ではないと考えを改めた。

ダニエルも理由の一つだが、ロンドンの邸もまたサリアナが生きていた時のままの内装なのだ。

エミリアにとって初めてのシーズンになる。社交界という存在を顕著に感じるシーズン中はそれこそ朝から晩まで気を休める余裕などないだろう。その為にせめてタウンハウスだけは彼女にとって安らぎを見出せる場所にしなくてはならない。

内装は白の基調がいいか、はたまた流行りの色を義母に聞くべきか。

だが義母ともエミリアとの結婚式以来疎遠になっている。元々父が義母と再婚した時にはマグナスは既に充分大人と言える年齢であったし、家族という形態に興味はなかった。

それに再婚してほんの数年で父が亡くなってからというもの、義母はさっさとベッドフォードシャーにある屋敷に行ってしまい共に時間を過ごしたことはない。

前ラザフォード伯爵とその後妻という線で繋がってはいても、マグナスからしてみればどちらも他人のようなものだ。

もっとも、義母のメリッサは何とかしてマグナスと懇意になるつもりだったのだろう。何かにつけて世話を焼きたがったし、今でも月に数通は手紙が送られてくる。

少し前までのマグナスならば迷わず封を切らずに捨てていたであろう手紙だが、今は律儀にすべて取って抽斗の中に入れてある。

義母や妹との関係を今更どうしようというつもりもないが、エミリアは元々チェザースハウスで働いていたのだ。マグナスと結婚するにあたりエミリアは相当義母に辛く当たられただろうし、結果的に義母から祝福を得られないまま強引に結婚してしまった。

義母も決して頭の軽い女ではない。今のグランヴィル家を見ればどれほどエミリアが必要とされているかも分かるはずだ。

何よりもマグナスがもうエミリアのいない人生など考えられない。


今でこそ田舎で気ままな生活をしているとは言え、義母も嘗ては社交界の華であった人物の一人だ。マグナスの結婚相手を決めるパーティーでも彼女の人脈が大きく影響していた。

これからエミリアが社交界に出るにあたり、強い人脈は必要不可欠だ。彼女を労働者上がりの田舎者と比喩する者は必ずいるだろうし、いつもマグナスが傍にいてやるわけにもいかない。

貴族特有の閉鎖的な陰湿さは間違いなく彼女を傷つけることだろう。その時に一人でも多くエミリアの味方に立ってくれる夫人がいれば心強い。聞くところによるとエミリアとダレル嬢は既に親密な関係を築いているらしいが、味方は多いに越したことはない。

やはり一度義母に会いに行くべきだ。メリッサの助言は必ず、マグナスでは補えない部分を埋めてくれるはずだ。

ラザフォード伯爵夫人としてエミリアが確固たる地位を築くためには、マグナスは何でもするつもりでいた。


その時封筒の山に見慣れた蝋印が押してある手紙を見つけマグナスは訝しげに思いながらもそれを手に取った。

そういえば昼間ネルソンが銀盆に載せて持ってきたような気がする。その時は領地の書類に目を通していた為後で読むつもりで忘れていた。

頭の中でリチャードの端正な顔が不敵に歪むのが忌々しい。例の公爵家主催の晩餐会以来、リチャードはすっかりエミリアを気に入ってしまいあれやこれやと詮索してくるのだ。その度にマグナスの眉間に皺が刻まれていることを知っていてもなお、リチャードは遠慮を知らない。

あの人懐こい笑顔の裏で一体何を企んでいるのか考えるだけでも腹が立ってくる。

しかしこうしてリチャードがわざわざ手紙を寄越すなど珍しいことは間違いない。マグナスは愛用のペーパーナイフを取り出すと慎重に封を切った。


いかにも彼らしい書き出しから始まったそれは、半ば義務的にマグナスと領地の近況を尋ね、また近いうちにカードでもと綴られていた。

一見何の変哲もない(寧ろ手紙にする必要性のない)文面に思えたが、最後の一説についでのように付け加えられた行に顔を顰めざるを得なかった。


―― ウィルコック子爵がお前の周りを嗅ぎまわっているそうだ。まだ尻尾は掴めていないが、ほぼ確かな情報と言える。用心するよう、忠告したい。


マグナスの脳裏にあの下卑た笑いが蘇る。小心者のウィルコック子爵――チェスター・マーベルロウにはあの夜の脅しで十分かと思ったがなかなか蛇のようにしつこい性格をしているようだ。

リチャードの情報が誤りであればと思う。だが、多方面にそういった筋を持っている彼が噂程度の話をわざわざ手紙にしたためることもしないだろう。


マグナスの手の中でぐしゃりと手紙が歪に皺を作った。

チェスターが何を考えているのかは大体の想像がつく。大方、あのパーティーで受けた辱めを恨んでいるのだろう。あの後ますます借金が膨らみ、もはや縋りつく名誉もないと聞いていた。

己の行動の結果だと省みる頭もないのかと呆れるばかりだが、チェスターの怒りの矛先がエミリアやダニエルに向かうことだけは避けたかった。

追い詰められた鼠は何をするのか分からないものだから。


マグナスはペンを取ると空が白み始めるまでその手を止めることはなかった。



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