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灼熱の氷  作者:
23/27

21


カーテンの隙間を縫うようにして、顔を出したばかりの太陽のぼんやりとした光が朝を告げる。遠くの方で小鳥の囀りも聞こえてくる。

柔らかく清潔なベッドに沈んだ華奢な体に毛布をかけ、マグナスの指先はそのまま迷うことなくエミリアの頬を撫でた。冷たい指に広がる人肌のぬくもりは、マグナスの心までも温かさで満たした。

つい先程まで飽きることなく子供時代の話をしていた彼女の口から零れるのは安らかな寝息だけ。規則正しいそれは耳に心地よく、マグナスの顔には自然と笑みが広がっていた。

結局一睡もしないまま朝を迎えた。あんな豪胆な発言をしたとは思えないほど、エミリアが眠りへ思考を横たえるまでにそうは時間はかからなかった。

本当に、こちらが拍子抜けするくらいあっさりとだ。同じベッドで同じ朝を迎えたというのに、そこに艶めいた時間など何一つなかった。

肌を重ねる代わりに不自然に一人分開いたベッドの上に並んで座り、睦言の代わりにお互いの幼少期を語った。マグナスが女性と一夜を過ごしたにも関わらず、何もなかったなどと言ったらリチャードが目を丸くして驚くだろうと容易に想像がつく。

だが不思議なほど心が凪いでいた。夢から覚めた時、あんなに感情が乱れていたのが嘘のようにマグナスは冷静に現実と向かい合っていた。


今ならば、と思った。今なら過去と対面し、全てを受け止められるのではないかと。

置いてきたものはそう簡単に手元に戻せるものではない。結果だけではなく原因も目の当たりにしなくてはならないからだ。それでもマグナスの心は半ば決まっていた。あんな夢を見たのも何かの運命だ。

もう一度名残り惜しげにエミリアの頬に指先を滑らせ、マグナスは音を立てないように細心の注意を払いながらエミリアの部屋を出た。彼女の部屋を出た途端、肌に突き刺さるように空気が冷たく感じたのはマグナスの気の所為だったのか。

自室で簡単に着替えを済ませ、更にその上にガウンを羽織り、未だ薄暗い階段をゆっくりと降りていく。昼間はそれほど気にはならないが、大理石の上を歩く度かつかつと音を立てる長靴が耳の奥で木霊していた。

使用人も起き始めたのか、主寝室がある階段とは別の方から人の話し声や微かな物音がしていることに気付く。普段彼らはこんなに早くから働いているのかと思うと、今まで考えたことのないような思いが頭を過った。

大広間を抜け、玄関を通り、ポーチを降りる。広大な庭は朝霧に包まれ、白い靄が風に流され辺りを漂っていた。僅かに湿り気を帯びた空気はマグナスの黒髪を濡らし、風が吹く度にその冷たさを感じさせる。

ガウンの長い裾が葉に付いた朝露に擦れようと、マグナスは気にしなかった。

一歩また一歩とその場所に近づけば、まるでマグナスをその場所から遠ざけるかのように心臓が大きな音を立てる。しかしマグナスは歩みを止めなかった。足で土を踏み、茂った草木を通り抜け、ただひたすらに一点を目指す。

そして遂にその場所を前にした時、マグナスの感情は堰を切ったように溢れだした。この場所に残るのは悲しみか苦しみだけだと思っていたのに、脳裏に甦るのは驚くほど温かな記憶だった。

――そう、ここはマグナスがレオナルドの為に建てたものだ。森の傍に建てたのは静かで気楽に出来るからいいとレオナルドが言ったからだ。邸の大きさには程遠いが、豪華さよりも使いやすさにこだわった舘はいたるところにレオナルドの思い出が染み付いている。

初めてこの場所ができた時、レオナルドはその顔一杯に嬉しさを滲ませマグナスを見ていた。爵位を継いだら一番初めにしてやろうと思っていたことの一つであった為、マグナスもとても満足していた。

蔦に覆われた壁に指先を這わせながら、少しずつ記憶の扉を開いていく。この舘が出来てからレオナルドは簡単に暖をとれるものを持ちこみ、時には食事すら取るのを忘れ昼夜を問わずここに入り浸った。それに何度マグナスが苦言を漏らしたか知れないが、レオナルドは笑って聞き流していた。


一体いつから互いの道を間違ってしまったのだろうか。少なくともこの舘ができたあの頃は、穏やかな時間が当たり前だったのに。

マグナスはゆっくりと壁から手を離し、数歩歩いた先にある小ぶりの木の近くまで寄ると迷うことなく手で木の下の土を掘った。幾ばくも掘らないうちに目当てのものはすぐに見つかった。

レオナルドがマグナスの前から姿を消した後すぐに、マグナスは舘の鍵をここに埋めた。記憶と共に何もかもを葬り去ってしまいたかったのだ。スペアキーは口の固い掃除婦に預け、自分はあれから一度も中には入っていない。

土で汚れた手で鍵を取り出し、真っ白なシャツの袖で鍵に付着した泥を落とす。長い間土の中にあったとは思えないほどの輝きを取り戻した精巧な作りの鍵は、ずっしりとした重さと冷たさをマグナスの手に与えた。

高鳴る心臓を何とか落ちつけながら、記憶の中では新しい木の匂いを漂わせていた筈の黒ずんだ扉に鍵を差し込む。鈍い解錠音と共に鍵が開き、埃っぽい空気がマグナスの肺に入ってきた。

定期的に掃除の者を入れていたが、やはり人のいない場所というのは光の存在を失っていた。家具という家具に白いシーツがかけられ、足を進める度に床が不快な音を立てて軋んだ。

この部屋に光を入れていた大きな窓を分厚いカーテンが覆い、薄らと冷たい空気がマグナスの項を撫でた。

何もかもが同じなのに、何もかもが変わっていた。ここはこんなに寂しい場所だっただろうか。昼は太陽が燦々と降り注ぎ、夜は蝋燭が煌々と照らしていた筈だ。

幾分か呆然としながらマグナスは記憶と現実の隙間を彷徨った。


僅かに埃を被ったシーツを一枚一枚剥がしていくと、あの頃と寸分も違わぬ家具が顔を覗かせた。マホガニー製のソファ、数冊の本が積み上げられた小さなテーブル、インクの瓶が置かれた机。――そしてなにより愛用していた画架(イーゼル)

キャンバスが置かれ、柔らかな色彩で描かれていた世界を見ることはもう二度とない。マグナスは一度目を閉じ肺に溜まったありったけの空気を吐きだした。

シーツのかかった画架(イーゼル)には別の赤い布がかけられていた。恐らくレオナルド自らかけたのだと想像がつく。

今でもそこで一心不乱に絵を描いていたレオナルドの姿をはっきりと思い出せる。この部屋に来るたび、マグナスが僅かに眉を顰めていた絵具の匂いも消えている。

レオナルドが出て行く前彼が何かを描いていたことには気付いていたが、元々絵を描く趣味などないマグナスにはそれほど興味は持てなかった。貴族であるが故、芸術にはそれなりに精通していると思っているがそれはあくまで完成したものだけであって、製作途中のものは含まれていない。

結局あんなことがありマグナスは遂に何を描いていたのか、そしてそれが完成したのかすら知り得なかった。

きっとこの赤い布を取り外せばレオナルドが最後に何を残したのかが分かるのだろう。だが一方でそれを躊躇う自分もいた。何度か手を出しては引っ込め、決心してはまたその決心が鈍りを繰り返した。

真実を知ることを恐れ、また怯えているということをマグナスは自覚していた。だがどうにか心を決め、マグナスはキャンバスを覆っていた布に手をかけた。








*






「奥様がこんな時間までお休みになられているなんて、珍しいですね」


支度を手伝いながらそう言ったドリーに、エミリアはまだぼんやりする頭で何とか頷いた。昨夜はクリスティーナに宛てた手紙を書いていた為、いつもよりずっと夜遅くまで起きていたのだがその上空が白み始めるまでマグナスと同じベッドの上で話しこんでしまったのだ。

今思い出すと羞恥心でどこかに隠れてしまいたい気分だ。男性と同じベッドで一夜を過ごしたなどと学校時代の教師が聞いたら、卒倒するかはしたないと怒鳴られるに違いない。

マグナスは偶然起きてしまったようだったが、それにしてもお互いが眠くなるまで話そうだなんてよく言えたものだ。

恐らく自分はすぐに寝てしまったのだろう。起きた時にはマグナスの姿はどこにもなかったが、代わりにしっかりとかけられた毛布が昨夜の出来事をエミリアの脳裏に沸々と甦らせる結果となった。

だけど、とエミリアはまるで自分自身に言い訳をするように思った。けれどあの時はああするのが一番いいと思ったのだ。

廊下に光が漏れていたから様子を見に来たと言うマグナスの顔色は薄暗い室内でも分かるほど青ざめていた。夕食のときまではいつもと変わらなかったのだから、きっとその後で何かあったのだろうと察しがついた。

けれども例え理由を尋ねたとしても、マグナスはきっと何もないと言葉を濁すだろう。己の弱さを簡単に見せてくれる人ではないのだ。

夜が明けるまで書斎に篭ると言ったマグナスをどうしても一人にしておけなかった。何でもいいから理由をつけて傍にいたかった。マグナスはエミリアの突拍子もない提案に驚いたように目を見開き、次の瞬間には呆れたようにエミリアを凝視した。

自分でも驚くほどの理由が次々と口から零れていき、それが功を制したのかマグナスはしぶしぶながらもエミリアの提案を飲んでくれた。

ベッドの上で何を話したかなど正直なところ覚えていない。子供の頃の話、学校に行っている時の話、エミリアがチェザース・ハウスで過ごした日々。とにかく取り留めのないようなことを思いつく限り話した。

マグナスの横顔は何も語ってはくれなかったけれど、真剣にエミリアの話に耳を傾けてくれたし相槌も打ってくれた。故郷のヨークシャーのことを聞いたマグナスは今度一緒に行ってみようとも言ってくれた。

その時の優しい顔が瞼の裏から離れてくれない。思い出すだけでどういうことが顔が熱くなるし、心臓が早鐘を打ってしまうのだ。

レディ・ラザフォードとしてこの邸に来てからと言うもの、マグナスに対するエミリアの評価は少しずつ変わってきていた。もう傲慢で冷たいだけの伯爵だとは思わない。

不思議な気持ちだった。マグナスのことを考えると胸の奥が少しだけ温かくなり、それと同時に僅かな痛みも覚える。エミリアはおもわず胸元を強く握ってしまった。


「どうかなさいましたか、奥様?どこかお加減でも……」

「いいえ、なんでもないわ」


最後の仕上げだとばかりに、ドリーはエミリアの髪に念入りに櫛を通すと鏡で何度も確認し満足そうに頷いた。明るい若草色のドレスに合わせ、髪には同じ色のリボンがあしらわれた。

どうやらこれで終わりらしいとエミリアが椅子から立ち上がったまさにその瞬間、控え目にドアがノックされた。


「あの、奥様。お支度はお済でしょうか?」

「その声はミセス・タリス?ええ、もう大丈夫よ。どうかしたの?」

「それが…ダニエル様が奥様と一緒に朝食を取りたいと待っておいでなのです」

「それは大変。すぐに行くわ」

「ありがとうございます、お待ちしております」


ほっとしたような声でミセス・タリスがそう言い、エミリアは急いでダイニングルームへと向かった。ドリーは楽しそうに「本当に仲がよろしいんですね」と笑っていた。

淑女たるものどんな時でも優雅に、だなんて家庭教師時代レティシアに教えておきながらエミリアの歩みはとても優雅だとは言えなかった。けれどもダニエルが待っていると言うのだ、ゆっくり歩いている場合ではない。

今日はいつもよりもずっと遅く起きてしまった。ダニエルはナタリーに決まった時間に起こされるからいつも通りの時間に朝食の席に着いたのだろう。だとしたらエミリアを待って随分時間が経ってしまったに違いない。

ミセス・タリスもそれは分かっているのかエミリアの急ぐ姿には何も言わなかった。


慌ただしくダイニングルームに入るとすぐに背筋を伸ばして座っているダニエルが視界に入った。扉から入ってきたのがそれがエミリアだと分かると、ぱっと顔を綻ばせた。

エミリアが遅くなったことを詫びるとダニエルは首を振り、隣の椅子を指差す。エミリアがそこに座ると、ダニエルは嬉しそうに笑った。

ダニエルの笑顔はいつもエミリアを幸せにする。金色の巻き毛にグレーのようなブルーのような瞳。小さな手でエミリアのドレスを掴んだり、まだ舌足らずな言葉を一生懸命紡ぐ様子はその度に抱きしめてしまいたくなるくらいに可愛い。

ふとマグナスの子供時代を想像してみたが、どうしてもダニエルのようににこにこしている様は思い浮かばない。きっと昔からひどく気難しかったに違いないとエミリアは密かに笑った。

丁度ダニエルとエミリアの食事が運ばれてきたときにもう一度ダイニングの扉が開き、普段よりもずっと身軽な服に身を包んだマグナスが現れた。

エミリアとダニエルがいたことに少々驚きはしたものの、給仕係に熱いお茶を頼むとそのまま自席に座った。


「昨日はよく眠れたか?」


突然の質問にエミリアは持っていたスプーンを落としそうになった。驚いたからというよりは心臓が不自然に跳ねたからだ。


「え、ええ。お陰さまで今日は少し寝過ごしてしまいました」

「そうか、それはよかった。ダレル嬢へ手紙は出したのか?」

「いえ…まだでございます」

「ならネルソンに頼むといいだろう。ネルソン、エミリアからの手紙預かってくれるな」

「はい、旦那様。奥様、お時間があるときにいつでもお申し付け下さい」

「ええ、ありがとう」


給仕係がマグナスの目の前に温かそうな湯気を出すカップを置いた。マグナスはそれに口をつけながら、傍に控えているネルソンに今日の予定や事務的な用事を頼んだ。

――何かが違う。エミリアはそう感じていた。マグナスはこの部屋に入ってきてから一度もエミリアとまともに目を合わせない。話す時はいつも真っ直ぐエミリアを見ていたのに。

その疑問をマグナスに投げかけることは躊躇われた。昨夜と似たような雰囲気を感じたからだ。ダニエルも何かしらの空気を察しているのだろうか、先ほどまで一口何かを食べる度まるでエミリアに同意を求めるように彼女の顔を窺っていたと言うのに、今は下を向いて食事をしている。

エミリアはなるべく食事に集中することにした。朝食と言っても結構な量がある為片づけるのにはなかなか時間がかかりそうだ。

静かなダイニングルームには食器同士がぶつかる小さな音すら大きく聞こえる。マグナスが起きてから今までに一体何があったのだろうかとそればかりが頭を巡り、いつの間にか食事を進める手は止まっていた。


「エミリア」


またしても言葉を投げかけたのはマグナスが先だった。不自然なくらい大袈裟に顔を上げてしまったが、マグナスの表情は先ほどと何も変わっていなかった。


「食事が済んだら…少し時間をくれないか」


その言葉にエミリアよりも隣に座っていたダニエルが反応した。ダニエルはマグナスを見ると泣きそうなくらい眉を下げ、必死に首を横に振った。

エミリアがいつもより起きるのが遅かった為、まだ毎日の日課である散歩が済んでいない。昨日に引き続き今日は花の名前を教える約束をしていて、ダニエルも楽しみにしていたのだ。

マグナスもそれに気付いたのか「ああ」と頷くと、ダニエルにも「心配ない」と言った。


「ダニエルとの散歩が終わってからで構わない。庭に噴水があるだろう。私はそこで待っているから来てくれないか」


それならば何も問題はない。ダニエルの服を新調する為に裁縫師を呼んでいるが、ナタリーがいれば問題はないだろう。ダニエルもマグナスの意見に異存はないのか、もうすっかり興味はデザートに向いているのか何も言わなかった。


「ええ、分かりました。一時間後には行けると思います」

「ああ」


マグナスは静かに立ち上がると、ダイニングルームから出て行った。残されたカップからはまだ白い湯気が上っているところを見ると、大分お茶が残っているようだった。


「エミー、これ、オレンジ!」

「ええそうね、それはオレンジよ。よく覚えたわね、偉いわ」


ダニエルの頭を撫でながら胸に感じた違和感をエミリアは拭うことが出来なかった。マグナスは怒っているようには見えなかった。あれは……そう、きっと傷ついていると言った方が一番近いだろう。それほどまでにマグナスの表情にはいつものような自信は見えなかったのだ。

一時間後には理由がはっきりするというのに、この落ちつかなさはなんだろうか。エミリアは知らず知らずのうちにドレスを強く握っていた。


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