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灼熱の氷  作者:
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プロローグ

「何か不都合はなかったか」


5日ぶりに屋敷へ戻ったマグナスは執事のネルソンに外套を渡しながら尋ねた。

暗い色の髪は雨の所為で湿り気を帯びており、彫刻のように整った顔には僅かな疲れが滲んでいた。

ロンドンからの帰路は決して快適なものではなかった。イングランド特有のどんよりとした雲は、相も変わらず気紛れに雨を降らせる。

ぬかるんだ道に馬車の車輪が嵌り、その為予定よりも帰りが遅くなってしまった。

マグナスが何度も懐中時計を開くのを、御者の男が情けないほどに怯えていたのも苛立ちの原因だった。

ラザフォードの邸を留守にすることは珍しくない。爵位を継いでからもう幾度となくロンドンと領地を行ったり来たりしている。

ロンドン滞在中は気紛れに口説き文句を使ってみたり、友人たちと夜通し酒やカード遊びに熱中するのが常であった。

留守を任せるにあたり、マグナスはネルソン以上に適任者はいないと思っている。

マグナスが幼い頃からこの邸に仕えている穏やかな執事はあの頭の固い父親でさえも一目を置いていたし、友人であるキングスリー侯は度々彼を冗談交じりにスカウトしていた。

寸分の隙もなく整えられた服装に、後ろに撫でつけられた髪。それはマグナスが彼を知ってから全く変わっていないことだった。


「いいえ、旦那様」


礼儀正しく帰ってきた言葉ではあったが、返答までの僅かな時間で何かしら不都合があったことを悟る。

それに思い当たるただ一つの理由も。


「…ダニエルか」


僅かな溜め息と共に紡いだ息子の名前。今のマグナスにとって唯一の頭痛の種であった。

妻はダニエルを産んですぐに亡くなった為、ダニエルは母を知らない。

しかし、貴婦人の多くは子供を乳母に預け、自分は連日パーティーやオペラの鑑賞に勤しむのが普通である。子供が年齢を重ねれば、その仕事は乳母に代わり家庭教師が担うこととなる。

彼女たちは母親であることよりも貴族の夫人である方が大事なのだ。

その為サリアナを失くしてから数年、後妻の必要性を感じてはいなかった。


今年3歳になる息子は普段は大人しいものの、ふとした瞬間に酷く癇癪を起こす。誰が宥めようともすぐには収まらず、屋敷中の使用人を悩ませていた。

初めは乳母が大袈裟に言っているだけだと取り合わなかったが、最近では子供には母親というものが例え飾りであっても必要なのかもしれないと思うようになっていた。

少なくともマグナス自身幼い頃にそう感じたことは一度も無かったが。


結婚という二文字は決してマグナスを楽しませるものではなかった。

亡くなった妻、サリアナも親同士が決めた結婚であったため、愛どころか情すらも移ることはなかった。

ただ未来の妻だと言われた女に会い、結婚し、グランヴェル家の後継ぎを儲ける。ダニエルが生まれた時、これでもう伯爵としての役目は果たしたと安堵したのに、だ。

まったくもってサリアナがお産と共に亡くなってしまったのは計算外であった。

それでも勝手を知る乳母や執事に息子を任せ、どうにか3年はやってこられたのにまたもや予想外の出来事だ。せめてあと4、5年経っていれば寄宿学校にでも入れられたのに。


考えただけで胃が重くなる。あの忌々しい結婚とやらをもう一度繰り返さなくてはいけなくなるとは。

しかし、このまま放っておくわけにもいかないだろう。

暫く考えを巡らせた末、思いついたのはベッドフォードシャーに住んでいる義母のことだった。マグナスの実母が亡くなった後父の後妻に入った女だが、父が亡くなると同時に実家のあるベッドフォードに生まれたばかりの娘と一緒に帰っていった。

尤も、マグナスの父と彼女が婚姻関係にあったのはほんの数年のことでその間マグナスはグランドツアーに出かけていた為、殆ど義母と言葉を交わした記憶も無いが。

彼女も社交界の華だった一人だ。勿論顔も広い。

少々面倒ではあるが、手紙を出し結婚相手を決めるように取り計らってもらうことに決めた。

何かと世話を焼きたがる義母は喜んでその申し出を受け入れてくれるだろうから。


マグナスは自身が愛情を持った人間でないことを知っていた。

彼の両親がそうであったように、彼もまた愛というものをまるで信じていなかった。マグナスにとって愛を語るのは一夜の駆け引きに使う言葉で充分であった。

生きていく上で不要だと感じても必要だと思ったことはない。

妻に求めるのはダニエルの母親になる資格だけだ。

伯爵家の家名を汚すような女では困るし、愛など求められても応えるつもりはない。

甘い言葉を求めない従順で大人しい女、ダニエルはサリアナの髪の色を受け継いでいるから金髪がいい――この国に一人ぐらいはいるだろう。


「義母上に手紙を出す。用意を頼む」

「畏まりました旦那様」



階段を上り、真っ直ぐ自室へ向かう。

慣れ親しんだこの部屋だけが唯一マグナスの心を穏やかにさせた。

一流職人の手で作られた芸術品のようなの椅子に疲れた体を沈ませ、首元を締めていたクラバットを緩める。

考えなければならないことがあり過ぎて痛み出したこめかみをゆっくりと揉むが、痛みが和らぐことはなかった。



――マグナスにはその胸の奥に幾重にも錠を掛けた秘密があった。決して誰にも知られてはならぬ秘密が。

その秘密の為にも後妻など迎える気は更々なかったのに。


まったくもって、何もかもが計算外だ。


苦々しげな溜め息は誰もいない書斎に重苦しく響いた。

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