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灼熱の氷  作者:
17/27

15

その日の夕飯の席にも翌朝の朝食の席にもエミリアは現れなかった。

昨日自分がしたことを思えば至極当然のことだが、空っぽの椅子が視界に入る度に深い溜め息をつかずにはいられなかった。ダニエルもエミリアがいないことを頻りに気にし、食事は殆ど皿の上に残ったままだ。

会話のない朝食がこんなに味気ないものだとは初めて知った。今まではそれが当たり前だったというのに。

この部屋にいる誰も何も言わないが、傍に控えているミセス・タリスからは何もかもお見通しだと言わんばかりの視線を向けられた。マグナスとエミリアの間にあったのはごく一般的な夫婦に持ちあがる問題ではないのだが。

確かに昨夜のマグナスの行いは決して褒められたものではない。彼女の言葉に怒り、それをぶつけたのはマグナスの未熟さだ。

エミリアはもう、マグナスの望む"ダニエルの母"としての役目を充分過ぎるほど果たしてくれたのではないか。それ以上に何かを望むのはあまりに身勝手なような気がした。 ――頭では分かっていたつもりでも、心はそれを許そうとはしないが。

マグナスは溜め息を吐くと、近くにいたネルソンを呼び寄せ何事かを告げ静かにダイニングルームを出ていった。エミリアと和解する必要があったのだ。



エミリアは清潔なシーツの中で身動ぎした。一晩中目が冴えていた所為で、頭が鈍く痛む。いつもならばもうすでに起きて朝食を取っている時間だ。

瞳を閉じれば瞼にはマグナスの冷えた表情が浮かぶ。あれ程怒りを露わにした夫を初めて見た。掴まれた手首は鈍い痛みだけを残し、マグナスの言葉は尖った針のように心を刺す。

――これ以上私に関わらないでくれ。

切実な声はマグナスの明らかな拒絶。エミリアがその心に少しでも触れることすら彼はよしとしないのだ。

そのことが何故か強引に迫られたことよりも悲しかった。一体自分はどうしてしまったのだろう、どうしてマグナスの行動一つにこうして胸を痛めなくてはいけないのだろう。

段々と深みに嵌っていく思考を、ドアをノックする音が現実へ引き戻した。一瞬マグナスかと思ったが、ドアの向こうから聞こえる声はドリーのものであった。


「奥様、入ってもよろしいでしょうか」


エミリアは返事をしなかったが、ドリーは恐る恐るといったように扉を開ける。ぴったりとカーテンが閉じられたままの部屋は薄暗く、もう陽も上っているというのに盛り上がったシーツにドリーは顔を顰めた。


「奥様、奥様、起きてください。気分が悪いようでしたらお医者様をお呼びいたしましょうか?」


医者という単語にエミリアは首を振った。医者になど見せたらたちまち健康であることが分かってしまう。エミリアはただほんの少し考える時間が欲しかっただけなのだ。

いつもならば考えられないほど緩慢な動きで支度をするエミリアとは反対に、シーツを剥がし洗面器に水を張るドリーの動きはとても機敏だ。一つ一つの動作に無駄がない。時々エミリアの様子を窺いながらも手を止めないのにはとても驚いた。

今日は薄い水色のドレスで、普段着るものよりも若干ゆったりとしたデザインに出来ている。髪は邪魔にならないように結われ、首筋に僅かばかりの後れ毛を散らした。


「顔色が少し悪いようですが、本当にお医者様をお呼びしなくてよろしいのですか?」

「大丈夫よ、少し寝不足なだけだから」


自分に言い聞かせるようにして笑うと、鏡に映る顔もさっきよりかは明るく見える。ドリーは仕上げに肌にいいとされる薔薇の精油を匂いが気にならない程度に薄く塗ってくれた。

彼女の手にかかれば誰もエミリアが元家庭教師だとは思わない。元々職業柄姿勢はよかったが、この数週間の特訓でそこに洗練さが加わった。

――指先一つでも貴婦人でなければなりません。マナーの講師はそう言った。

そうだ、最早私はエミリア・アンダーソンではない。ラザフォード卿夫人としてマグナスを支え、ダニエルに愛情を注ぐのが役目だ。その為には悩みなど抱えている場合ではない。

目を閉じて深呼吸をすると、胸の痛みも少しは取れたような気がする。ドリーに支度の礼を言い、エミリアは朝食を取る為に階下へと降りていった。


ダイニングにはエミリア一人の朝食が並んでいた。この時間だ、マグナスとダニエルはとっくに食事を終えてしまったのだろう。

本来なら次の仕事に取り掛かれる時間だというのに、エミリアの為にメイドやシェフの時間が押してしまっている。そのことに申し訳なく思いながら席に着いた。

伯爵家に来てからというもの料理人たちの心のこもった料理はいつもエミリアの心を温かくさせる。野菜に果物も充実しており、食後にデザートもつく豪華さだ。

丁度エミリアがパンに手を伸ばした時、微かにドアが開いたのに気がついた。その僅かな隙間から金色の髪が覗き、くりくりとした目が片方だけ部屋の様子を窺っている。

エミリアは咄嗟に何事もなかったかのように澄まし、メイドが運んできてくれたスープを食べ始めた。


「まあまあ、ダニエル様!」


しかしそんなエミリアの努力も、ミセス・タリスの威勢のいい声で水の泡と化してしまった。ダニエルはひどく不機嫌そうにしているが、ミセス・タリスはお構いなしにダニエルの手を引きエミリアの近くまでやってきた。

食事中の為ダニエルを抱き上げることは出来なかったが、それはミセス・タリスも分かっているようで給仕の者にエミリアの近くまで椅子を持ってこさせ、そこにダニエルを座らせた。

好奇心旺盛な瞳はエミリアの一挙一動を見逃すまいと忙しなく動く。しかし人に見られていると食事がしずらいものだ。

エミリアは早々に食後のお茶を諦めざるを得なかった。

優秀な給仕たちはエミリアが立ち上がるのを見計らい椅子を引いてくれる。


「待たせてごめんなさいね、ダニエル。今日は昨日の続きからでよかったかしら?」


ダニエルの目が嬉しそうに輝く。

最近エミリアはダニエルと散歩をしながら、色々なものの名前を彼に教えている。ダニエルは本来好奇心旺盛で、頭がいいらしく何か疑問を見つけるとエミリアのドレスを引っ張り教えを乞うようになっていた。

彼が一つずつ知識増やしていくと思うとエミリアは嬉しくて仕方がないのだ。レックスは大人しく後をついてくるだけで、まるで主人の勉強の時間の邪魔はしないと言っているようだった。それでも少しでも休憩を取ると途端にダニエルにじゃれつくのだが。


「申し訳ございません。旦那様が外で待っていらっしゃいますので奥様はそちらへ」


しかし、そのささやかな時間はネルソンの一言によって壊されてしまった。ダニエルはその言葉を聞くが否や顔を顰め、エミリアのドレスを強く握って後ろへ隠れる。

だが優秀な執事はこの家の主にどこまでも忠実だ。


「ナタリー、いるのだろう?ダニエル様をお部屋へお連れしなさい。恐れ入りますが、奥様。ダニエル様とのお散歩はまたの機会に」


礼儀正しいが、この執事には何故だか逆らえないような気がする。未だドレスを掴んで離さないダニエルの頭を撫で、エミリアは溜め息を吐いた。

昨日の今日でマグナスが何の用があるというのだろう。

ナタリーが早足で近づき今にも泣きそうなダニエルを抱き上げようとするが、一向にダニエルがエミリアから離れる気配はない。ナタリーが躍起になり小声でダニエルを窘めるが、それも上手くはいかなかった。

だがいつまでもこうしているわけにもいかない。エミリアはダニエルを抱くと額にキスを落とし言った。


「ダニエル、少しの間だけだからいい子で待っていてくれる?それまでナタリーと一緒に昨日の復習をしておいてね。全部覚えられたら、後でシェフにお菓子をつくってもらいましょうね」


その言葉にダニエルはしぶしぶといったように漸くナタリーの腕の中に収まった。拗ねてしまったのか、エミリアの方は向かなかったが。

寂しく思いながら、ナタリーに連れられてダイニングルームを出ていく後姿を見つめた。少しずつ心を開き始めているダニエルとの約束は出来れば破りたくなかった。

こうなればできるだけ早くマグナスとの用事を終わらせるだけだわ。ネルソンの後に続きエミリアは密かに思った。


外に出るとからりと晴れた空がとても美しかった。風もそれほど強くはなく、この分なら午後になって急に天気が変わる心配はないだろう。

ポーチには何故か乗馬服に身を包んだマグナスと、美しい黒毛の馬、それから賢そうな大型の犬が大人しく座っていた。

もしかしてどこかに出掛けるのだろうか?見送らせる為にエミリアを呼んだと考えられるが、それにしてはあまりに軽装過ぎる。様々は疑問を抱えたまま近づいて行くと、エミリアに気付いたマグナスが軽く頭を下げた。


「もしかしたら来てくれないとも思った。私よりダニエルを優先するのではないかとね」

「そうしたかったのですけれど、あなたの優秀な執事が許してくれませんでしたの」

「ああ、確かにネルソンは感謝したいくらい私に忠実だな」


皮肉たっぷりな言葉にもマグナスは怒った様子はなく、寧ろ微かな笑みさえ浮かべてエミリアを見ている。本当はもっと嫌味を言うつもりであったのにすっかり毒気を抜かれてしまい、結局それ以上は言葉を紡げなかった。


「どちらかへお出掛けですか?」


エミリアの質問にマグナスはまたも驚くような言葉を口にする。


「君さえよければ、私と一緒に庭を見て回らないか。まだ全てを見たわけではないのだろう?」


私さえよければですって?エミリアは一瞬、自分の耳がどうかしてしまったのかと思った。なにしろ今までマグナスがこうしてエミリアの都合を聞いたことなどなかったからだ。

求婚の時も、この家に来てからもその後エミリアが反論こそすれどマグナスの要求は一方的なものであり、エミリアが彼に従うであろうという予測のもとに言葉にされていた。

しかし今エミリアの都合を聞くマグナスの表情はいつもの尊大なものではなかった。例えエミリアが提案を拒否したとしても、マグナスは黙って受け入れてくれるような気がした。

これは彼なりの一種の贖罪なのだろうか。マグナスも昨日のことを気に病んでいるのだとしたらそれも頷ける。その申し入れを断る理由などエミリアにはなかった。


「よろこんでご一緒します。マグナス」


グレーの瞳が一瞬だけ光を帯びる。その様子は少しだけダニエルに似ていた。

やはりなんだかんだ言っても結局血の繋がった親子なのだと実感する。


マグナスはエミリアの近くまで馬を引いた。こんなに近くで馬を見たことがなかったエミリアは少々怖がりながらも、艶やかな黒毛と優しい目にすぐにその緊張を解いた。

鼻先を撫でてやると気持ちよさそうに嘶くのがとても可愛らしい。それを見ていた犬もしっぽを振りながら元気よく吠える。


「ブルーノだ。足が速く、乗り心地も安定している。大人しい性格だから暴れることも殆どない。そっちのポインターはケリーという。嗅覚に優れ、体力がある。もちろん頭もいい。狩にはもってこいだが、今日は案内役に徹してもらう」


マグナスの言葉が分かるかのようにブルーノは名前を呼ばれるとエミリアの手に鼻先を押しつけ、ケリーはエミリアの回りをぐるぐると回った。

2匹ともマグナスに忠実なのだろう。彼が言うように狩の時には頼もしい相棒となりそうだ。

エミリアが触れても嫌がったりしないところできちんとしつけがされているのがよく分かる。交互に2匹を撫でながらそう思った。


馬に乗ったことがないと怖がるエミリアをマグナスは抱き上げ、ブルーノの背に乗せた。いつもよりもぐんと視界が高くなって体が縮むような気がしたが、背中にマグナスの体温を感じるとそれどころではなくなった。

エミリアを後ろから抱きかかえるようにして器用に手綱を操る。右へ、左へ、彼女が怖がらないように速度も一定のままだ。

前を歩くケリーが時折後ろを振り返っては、主人たちがきちんと着いてきているかを確認しているようだった。


「怖くはないか?」

「はい。風がとても気持ちいいです」


マグナスの問いにもそう答えるのが精一杯だ。彼の口調は今日はとことん優しかった。威圧的ではないマグナスの声は、低く耳に響き心臓の鼓動を速める。


「噴水のところまでは行ったことがあるだろう。その隣が迷路になっているから、後でダニエルと遊ぶといい。私も子供の頃勉強を抜けだしては迷路に隠れていた」

「まあ、いけない生徒でしたのね」


初めて触れるマグナスの過去にエミリアは笑った。今までこんな風にマグナスが自分のことについて話してくれたことはなかったため、とても嬉しかった。

マグナスもそんなエミリアの笑顔を見て、自然と頬が緩むのが分かった。過去など無意味に等しいと常々思っていたが、誰かに語るものとしては多少なりとも価値があるように思えた。


幼いマグナスにとって庭の迷路は唯一の逃げ場所と言っても過言ではなかった。次代の伯爵として必要なことは物心ついた頃からとことん叩きこまれたし、ある程度年齢がいくとすぐに学校へ入れられたし子供時代を語るには思い出があまりにも少ない。

そんな中で時々勉強を抜けだして訪れる庭は静かで気持ちがよかった。見たこともない虫や動物に触れ、たまに庭の手入れをしている男にあれこれ質問する時間が冷めた生活を潤していた。

すぐに父親に知れることとなり、きつい罰を与えられてからはそれもなくなってしまったが。

ダニエルに関しては庭を避難場所としてではなく、遊び場所として覚えていて欲しいと思った。今見ても庭師の作品は美しく見るものを飽きさせない。まさに"絵のような(ピクチャレスク)"と称するに相応しい。


「向こうに見えるのがオランジェリー、寒い冬にオレンジを育てる為のものだ。その向かいがキッチンガーデン、応接間に隣接しているのが温室だ」


マグナスの説明通りに視線を走らせて行く。一つの領主館にこれほど多くの建物があると、全体を見渡すのは難しいだろう。

ただただ感嘆の溜め息しか零れない。

そんなエミリアを見てマグナスは悪戯っぽく笑うと言った。


「これくらいで驚いてしまっては困る。我が領地にはさらに素晴らしい場所があるのだから」

「それはどういう…きゃあ!」


エミリアの質問に答えるより早く、マグナスは突然馬を走らせた。後ろに倒れそうになったエミリアをマグナスの腕が支える。

漸く存分に走ることができた所為かブルーノもケリーもその足取りはとても軽い。

風が緩く編んだ髪を遊ばせるように吹く。蹄が地面を蹴る音、ケリーの吠える声、微かなマグナスの息遣い、それから自分の心臓の音。

まるで全てを攫って行くかのように景色はどんどん流れていった。


マグナスの腕にしがみつくようにしてエミリアは出来るだけ息を整えるよう努力した。マグナスと領地に来る際に乗った馬車はちゃんと窓がついていた為まともに風を受けなかったし、もっと速度はゆっくりであった。

息を吐き出す前に肺に空気が入ってくる。慣れないエミリアにはどう呼吸をしていいか分からない。ついに苦しくなってマグナスに言おうかと迷っていると漸く速度が落ち、深呼吸ができるようになった。


「すまない、大丈夫か?」


心配げな声に精一杯の笑顔を作って答えた。本当はまだ空気がどんどん入ってくる感覚が抜けなかったのだが、あと少ししたらそれも治まるだろう。

来る時と同じようにマグナスに抱かれ馬を降りたエミリアは、目の前に広がる光景に言葉を失った。

そこにあったのは邸のように人工的に作られたものではない、自然の木や植物だった。薄い紫、黄色、白などの花や葉の細い植物、年代を感じるどっしりとした木には蔦が絡まり、青々とした緑が目にも鮮やかだ。その向こうには川が流れており、水音が耳に心地いい。早速ケリーが川に近づき水を飲み始めた。

ブルーノの手綱を手近な木に縛り付け、マグナスはエミリアの手を引き少し離れた場所まで連れていった。真っ白な花をつけた木は堂々とそこに立ち、風に揺られる度に花弁が空中に舞った。


「リンゴの木だ。もう少しすれば実をつける。私の祖父が祖母の為にここに植えたらしい」

「どうして私をここへ?」


一瞬の躊躇いの後、マグナスはエミリアの両手を取った。

指先が熱いと感じるのはマグナスの所為ではなく、自分の体温が上昇したためなのだろうか。


「昨夜の許しを乞いに。エミリア、私を許してくれるか?」


マグナスの瞳は真剣だった。真っ直ぐにエミリアを見つめ、真摯に問う姿にエミリアの鼓動がまた一つ速まった。

指先を包む手に少しだけ力を込め、エミリアもまたマグナスを正面から見つめた。グレーの瞳の中にエミリアの顔がはっきりと映る。


「あなたを許します、マグナス。私こそ無神経なことを言ってしまい申し訳ありません」


2人の顔に自然を笑みが浮かぶ。


「私たち、やはりいいお友達になれそうですね」

「ああ、私もそう思う」


エミリアの言葉にマグナスはほんの少しだけ痛みを覚え、マグナスの微笑みにエミリアはときめく心を隠せなかった。

だがそれは口にするにはあまりに淡い感情で、自身の中にあるプライドと追いつかない気持ちが彼らから言葉を奪った。

言ってしまえばそこで何かが終わりのような気がしたのかもしれない。


マグナスとエミリアはお互い不可解な感情を押し殺し、僅かな嘘を笑顔に乗せた。

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